原典講読『啓示された黙示録』 教えの事柄 (23)(直訳と訳文)

(2) 直訳(9選択の自由 10教会)

9{1}. DE LIBERO ARBITRIO.― 9 選択の自由について――

Distinguunt inter statum ante lapsum, post lapsum, post acceptam fidem et renovationem, et post resurrectionem. 〔彼らは〕堕落前の、堕落後の、信仰の受容と更新の後の、また復活後の状態を区別している。

Quod homo post lapsum in rebus spiritualibus et Divinis ex propriis viribus prorsus nihil possit inchoare, cogitare, intelligere, credere, velle, operari ac cooperari, nec se ad gratiam applicare aut accommodare, sed quod naturale arbitrium sit solum ad illa quae contra Deum sunt, et Deo displicent; 堕落後の人間は霊的なものと神的なものの事柄の中でプロプリウムの力からではまったく何も始めること、考えること、理解すること、信じること、意志すること、働くことそして協力(共同)することができない、自分自身を恩恵へ向けて適合(適用)することまたは調節する(合わせる)ことも、しかし自然的な選択はそれら向けてだけである、それらは神に反するものである、また神に不愉快である。

ita quod homo in spiritualibus sit sicut stipes, sed quod usque ei sit capacitas, non activa sed passiva, qua verti potest ad bonum per gratiam Dei; そのように人間は霊的なものの中で丸太のようであること、しかしそれでも、彼に把握力(受容力)がある、能動的なものでなく受動的なもの、それによって神の恩恵を通して善へ変えられる(向けられる)ことができる。

quod tamen liberum arbitrium homini post lapsum reliquum sit, posse et non posse audire Verbum Dei; それでも、堕落後の人間に選択の自由が残されていること、神のみことばを聞くことができるまたできない。

et quod sic scintillula fidei in corde accendatur, quae remissionem peccatorum propter Christum amplectitur, et consolatur. またこのように心の中に信仰の小さい火花が点火される、それはキリストのために罪の赦しを抱く、また慰められる。

Quod tamen humana voluntas habeat libertatem ad faciendum civilem justitiam, et ad deligendum res rationi subjectas. それでも人間(性)の意志は市民の公正を行なうための自由を持っていること、また理性の対象の事柄を選択する☆ための。

☆ deligoは『スヴェーデンボリ レキシコン』にありません。

@1 9 pro “VIII.” 注1 「VIII.」の代わりに9

 

10{1}. DE ECCLESIA.― 10 教会について――

Quod Ecclesia sit congregatio et communio sanctorum, et quod sit sparsa per universum Orbem apud illos qui habent eundem Christum et eundem Spiritum Sanctum, ac eadem Sacramenta, sive habeant similes aut dissimiles traditiones: 教会は聖徒の集団(集会)と交際であること、全世界を通して散在していること、彼らのもとに、その者は同じキリストを、また同じ聖霊を、そして同じ秘跡を持っている、あるいは伝承(伝えられたもの)の似ているのものまたは似ていないものを持っている。

et quod principaliter sit Societas fidei; また特に(もっぱら)信仰の社会(共同体)である。

et quod haec Ecclesia sola sit Corpus Christi, et quod boni sint re et nomine Ecclesia, sed mali solum nomine: またこの教会だけが「キリストの身体」であること、また善い者たちは事柄(事実・内容)と名前で教会であること、しかし、悪い者たちは名前だけ〔である〕。

quod mali et hypocritae, quia commixti, sint membra Ecclesiae secundum externa signa ejus, modo non sint excommunicati, sed quod non sint membra Corporis Christi. 悪い者と偽善者たちは、混ぜられているので、その外なるしるしにしたがって教会の四肢(成員)であること、単に破門されていない、しかし、キリストの身体の四肢ではない。

Quod Ritus Ecclesiastici, qui Ceremoniae vocantur, sint adiaphori, et quod non sint cultus Dei, nec pars cultus Dei; 教会の儀式(典礼)は、それは儀式(典礼)と呼ばれる、無関心な事柄(=どうでもよい事柄)であること、また神の礼拝ではないこと、神の礼拝の一部でもない。

quod ideo in libertate Ecclesiae sit talia instituere, mutare et abrogare, ut discrimina vestium, temporum, dierum, ciborum, et alia; それゆえ、教会は自由の中にあること、そのようなものを制定すること、変えることまた廃止すること、例えば、衣服の相違、時間の、日の、食べ物の、また他のもの。

et quod ideo nulla Ecclesia aliam propter talia condemnare debeat. またそれゆえ、どの教会もない、他のものをこのようなもののために断罪する(非難する)べきである。

@1 10 pro “IX.”  注1 「IX.」の代わりに10


{1}Haec sunt Doctrinalia Ecclesiae et Religionis Reformatorum, in compendio: これらが教会と教えの事柄と改革派教会の宗教である、要約(大要)で。

illa autem, quae tradunt Schwengfeldiani, Pelagiani, Manichaei, Donatistae, Anabaptistae, Armeniani, Cingliani, Antitrinitarii{2}, Sociniani, Ariani, ac hodie Quaqueri et Herrenhuteri, praeterita sunt, quia illi ut Haeretici ab Ecclesia Reformatorum reprobati et rejecti sunt. けれどもそれらは、それらは伝えている、シュヴェンクフェルト派、ペラギウス派、マニ教、ドナトゥス派、再洗礼派、アルミニウス主義者、ツヴィングリ主義者、反三位一体主義者、ソッツィーニ教徒、アリウス主義、また今日のクエーカー派とヘレンフート派、〔これらの教えは〕過ぎ去った(=通り過ぎることにしよう)、それらは改革派の教会から異端〔として〕不可とされ、退けられているからである。

@1 Haec pro “X. Haec” 注1 「X. Haec」の代わりにHaec

@2 Antitrinitarii pro “Antetrinitarii” 注2 「Antetrinitarii」の代わりにAntitrinitari

 

(3) 訳文

9 選択の自由について――

 〔彼らは〕堕落前、堕落後、信仰の受容と更新の後、また復活後の状態を区別している。

 堕落後の人間は霊的なものと神的なものの事柄の中でプロプリウムの力からではまったく何も始め、考え、理解し、信じ、意志し、働きそして協力することができない、自分自身を恩恵へ向けて適用し適合することもっできない、しかし自然的な選択は、神に反するもの、神に不愉快であるものに向けてだけである。そのように人間は霊的なものの中で丸太のようである、しかしそれでも、彼に、能動的なものでなく受動的なものである受容力があり、それによって神の恩恵を通して善へ向けられることができる。それでも、堕落後の人間に、神のみことばを聞くことができ、またできない選択の自由が残されている。またこのように、キリストのために罪の赦しを抱き、慰められる信仰の小さい火花が心の中に点火される。

 それでも、人間の意志は市民の公正を行なうための、また理性の対象の事柄を選択するための自由を持っている。

 

10 教会について――

 教会は聖徒の集団と交際であり、同じキリスト、また同じ聖霊を、そして同じ秘跡を持ち、あるいは似ているのものまたは似ていない伝承を持つにしても、彼らのもとに全世界中に散在している。また特に信仰の共同体である。またこの教会だけが「キリストの身体」であり、善い者は事実と名前で教会である、しかし、悪い者は名前だけで教会である。悪い者と偽善者は、混ぜられているので、破門されていないだけで、その外なるしるしにしたがって教会の四肢(成員)である、しかし、キリストの身体の四肢ではない。

典礼と呼ばれる教会の儀式は、どうでもよい事柄であり、神の礼拝でもなく、神の礼拝の一部でもない。それゆえ、教会は、そのようなものを制定し、変え、また廃止することの自由の中にある、例えば、衣装、時間、日どり、食べ物、また他のもの違いである。またそれゆえ、どの教会も、他の教会をこのようなもののために非難すべきではない。


 これらが要約して、教会と教えの事柄と改革派教会の宗教である。けれども、シュヴェンクフェルト派、ペラギウス派、マニ教、ドナトゥス派、再洗礼派、アルミニウス主義者、ツヴィングリ主義者、反三位一体主義者、ソッツィーニ教徒、アリウス主義、また今日のクエーカー派とヘレンフート派が伝えている教えは通り過ぎることにしよう、それらは改革派の教会から異端〔として〕不可とされ、退けられているからである。

 

◎教義の内容なので(あまり興味もなく)長々とだらだとやっていましたが、やっと終了です。

この次から、いよいよ「黙示録」の始まりです。