(2) 直訳(8聖餐)
8{1}. DE SACRA CAENA. ― 8 聖餐について――
Reformati qui vocantur Lutherani, docent, 改革派教会の者たちは、その者はルター派の者と呼ばれる、教えている、
Quod in Sacra Caena seu Sacramento Altaris, Corpus et Sanguis Christi vere et substantialiter sint praesentia, et quod una cum Pane et Vino vere distribuantur et accipiantur; 聖餐、すなわち、祭壇の秘跡の中に、キリストの「身体と血」が真にまた実体的に現在があること、また「パンとブドウ酒」と一緒に、真に分配される、また受け入られること。
et quod ideo verum Corpus et verus Sanguis Christi in, cum, et sub Pane et Vino sint, ac Christianis ad manducandum et bibendum dentur; またそれゆえ、キリストの真の「身体」と真の「血」が、中に、とともに、また「パンとブドウ酒」の下にあること、そしてキリスト教徒に食べるように、また飲むようにと与えられること。
et quod ideo non simpliciter panis et vinum sint, sed Verbo Dei inclusa et alligata, et quod hoc faciat quod Christi Corpus et Sanguis sint; また、それゆえ、単純に(単に)パンとブドウ酒ではないこと、しかし、神のみことばに包まれたまた結び付けられた〔ものである〕、またこのことがつくっていること、キリストの「身体と血」であること。
nam cum accedit Verbum ad elementum, fit Sacramentum: なぜなら、みことばが元素(要素)へ近づくとき、秘跡になるからである。
quod tamen non sit transsubstantiatio, qualis est Pontificiis: それでも化体☆(変質)は存在しないこと、ローマカトリック(教会)のようなものである。
☆ 「化体(説)」とは「聖餐のパンとブドウ酒はキリストの肉と血に化する」という説。
quod sit cibus animae, novum hominem alens et fortificans: 霊魂の食べ物であること、新しい人間を育てる、また強くする。
quod instituta sit, ut fides vires suas reparet atque recipiat, detur remissio peccatorum, et nova vita, quam Christus nobis meruit: 制定されたこと、信仰がその力を回復するために、そして受け取る、罪の赦しが与えられる、また新しいいのち、それをキリストが私たちになし遂げた。
quod sic Corpus et Sanguis Christi non tantum spiritualiter per fidem, sed etiam ore, supernaturali modo, ratione sacramentalis unionis cum Pane et Vino, sumantur: このようにキリストの「身体と血」はそれだけ霊的に信仰によってでなく、しかし口で(によって)、超自然的な方法で、「パンとブドウ酒」と秘跡的な結合の論拠で取られる(用いられる)こと。
quod dignitas istius Caenae consistat in sola obedientia, et in Christi merito, quod vera fide applicatur: その正餐(聖餐)の尊厳はただ従順(服従)だけの中にあること、またキリストの功績の中に、それは真の信仰に適用される。
verbo, quod Sacramenta, Caena Domini et Baptismus, sint testimonia voluntatis et gratiae Dei erga homines; 一言でいえば、秘跡は、主の正餐(聖餐)と洗礼は、人間に対する神の意志(みこころ)と恩恵の証拠であること。
et quod Sacramentum Caenae sit promissio remissionis peccatorum per fidem; また正餐(聖餐)の秘跡は信仰☆によって(通して)の罪の赦しの約束であること。
☆ 原文ではfidemのfが落ちてしまいました。
quod moveat corda ad credendum; 心を信じること(動形容詞)☆へ動かすこと。
☆ 動形容詞は未来受動分詞とも言います。(その行為が)「行われようとしている・行なわれるべきである」をとの意味します。
et quod Spiritus Sanctus per Verbum et Sacramenta operetur: また、聖霊はみことばと秘跡を通して働くこと。
quod consecratio Ministri illa non producat, sed quod soli omnipotenti virtuti Domini id tribuendum sit: 聖職者の聖別することがそれらを生み出すのではないこと、しかし、それは主の全能の力(美徳)だけに帰されれなければならないこと。
quod tam digni quam indigni verum Corpus et verum Sanguinem Christi, sicut super cruce pependit, accipiant, sed digni ad salutem, indigni ad condemnationem; ふさわしい者もふさわしくない者もキリストの真の「身体」と真の「血」を、十字架の上にぶら下がるように、受ける、しかし、ふさわしい者は救いへ、ふさわしくない者は断罪へ向けて〔受ける〕こと。
quod digni sint qui fidem habent; ふさわしい者であること、その者は信仰を持っている。
quod nemo ad Caenam illam adigendus sit, sed quisque cum spiritualis fames urget, accedat. だれもその聖餐へ追い立ててはならない(強制してはならない)、しかし、だれでも霊的な飢えが追い立てるとき、近づく。
[2] Alii vero Reformati docent, [2] けれども、改革派教会の者の他の者たちは教えている、
Quod in Sacra Caena Corpus et Sanguis Christi tantum spiritualiter sumantur, et quod Panis et Vinum ibi sint modo signa, typi, symbola, tesserae, figurae et similitudines; 聖餐の中でキリストの「身体と血」はそれだけ霊的に取られる(用いられる)こと、またそこにある「パンとブドウ酒」は単なる目じるし、象徴(型)、象徴、しるし、形(外観)と肖像(=映像)であること。
quod Christus non corpore praesens sit, sed solum virtute et operatione ex Divina Sua essentia at quod in Caelo sit conjunctio secundum communicationem idiomatum: キリストは身体で現在しないこと、しかし、ご自分の神的な本質からの力(美徳)と働きの中にだけ〔現在する〕こと、しかし、天界の中で伝達手段の語法☆にしたがって結合がある。
☆ ここは「語法」(聖餐で唱えられる何らかの特別な言葉の用い方でしょう)ですが、より一般的に「特性・属性」と意訳してよいでしょう。
quod dignitas hujus Caenae non modo a fide, sed etiam a praeparatione pendeat: この正餐(聖餐)の尊厳は信仰にだけでなく、しかし悔い改めにもまたよる(依存する・~次第である)こと。
quod solum digni virtutem ejus accipiant, at indigni modo panem et vinum. ふさわしい者だけがその力(美徳)を受けること、しかし、ふさわしくない者は単にパンとブドウ酒を〔受ける〕。
Tametsi hi dissensus sunt, usque conveniunt omnes Reformati in eo, たとえこれらが不一致(意見の相違)があっても、それでもすべての改革派教会の者はそのこと(=次のこと)の中で一致する、
Quod omnino Paenitentiam acturi sint, qui digne volunt Sanctam illam Caenam obire; すべての点で(確かに)悔い改めが行なわれなければならないこと、その者はふさわしく、その聖餐に入ることを欲する。
Lutherani, ルター派の者は、
Quod nisi paenitentiam ab operibus malis egerint, et usque accedant, in aeternum damnati sint; もし悪の働きからの悔い改めをもたらさない、またそれでも近づくなら、永遠に断罪されること。
et Angli, またイギリス人たちは、
Quod alioquin diabolus in illos intraturus sit sicut in Judam; そうでなければ、悪魔が彼らの中に入るであろうこと、ユダの中にのように。
hoc constat ex Orationibus praelectis ante Communionem. このことは交際(聖餐)の前に朗唱される祈り☆から明らかである。
☆ 『新しいエルサレムのための生活の教え』の5番(英文)と6番にあります。
@1 8 pro “VII.” 注1 「VII.」の代わりに8
(3) 訳文
8 聖餐について――
ルター派と呼ばれる改革派教会の者は、教えている、
聖餐、すなわち、祭壇の秘跡の中に、キリストの「身体と血」が真にまた実体的に現在し、「パンとブドウ酒」と一緒に、真に分配され、受け入られる。それゆえ、キリストの真の「身体」と真の「血」が、「パンとブドウ酒」の中に、ともに、また〔またその姿の〕下にあり、そしてキリスト教徒に食べるように、また飲むようにと与えられる。それゆえ、単にパンとブドウ酒ではなく、しかし、神のみことばに包まれ、結び付けられたものであり、このことが、キリストの「身体と血」であることをつくっている。なぜなら、みことばがその要素へ近づくとき、秘跡になるからである。それでもローマカトリック教会のような化体☆1は存在しない。霊魂の食べ物であり、新しい人間を育て、強くする。信仰がその力を回復し、罪の赦しが与えられ、新しいいのちを受け取るために制定され、それをキリストが私たちになし遂げた。このようにキリストの「身体と血」はそれだけ霊的に信仰によってでなく、しかし口によって、超自然的な方法で、「パンとブドウ酒」と秘跡的な結合を論拠として取られる。その聖餐の尊厳はただ従順だけの中に、またキリストの功績の中にありと、それは真の信仰に適用される。一言でいえば、主の聖餐と洗礼の秘跡は、人間に対する神の意志(みこころ)と恩恵の証拠である。また聖餐の秘跡は、信仰を通しての罪の赦しの約束であり、心を信じることへ動かす。また、聖霊はみことばと秘跡を通して働く。
聖職者が聖別することがそれらを生み出すのではない、しかし、それは主の全能の力(美徳)だけに帰されれなければならない。ふさわしい者もふさわしくない者もキリストの真の「身体」と真の「血」を、十字架の上にぶら下がるように、受ける、しかし、ふさわしい者は救いへ、ふさわしくない者は断罪へ向けて受ける。信仰を持っている者がふさわしい者である。
だれもその聖餐を強制してはならない、しかし、だれでも霊的な飢えに追い立てるとき、近づいてよい。
[2] けれども、改革派教会の者の他の者たちは教えている、
聖餐の中でキリストの「身体と血」はそれだけ霊的に取られる、またそこにある「パンとブドウ酒」は単なる目じるし、型、象徴、しるし、形と映像である。キリストは身体的な現在しない、しかし、ご自分の神的な本質からの力(美徳)と働きの中にだけ現在する、しかし、天界の中で伝達手段の特性にしたがって結合がある。この聖餐の尊厳は信仰にだけでなく、しかし悔い改めにもまたよる。ふさわしい者だけがその力(美徳)を受け、ふさわしくない者は単にパンとブドウ酒を受ける。
たとえこれらが不一致であっても、それでもすべての改革派教会の者は次のことで一致している、
その聖餐に入ることを欲するにふさわしい者は、確かに悔い改めが行なわれなければならないことである
ルター派の者は、もし悪の働きからの悔い改めをしないで、それでも近づくなら、永遠に断罪される。
またイギリス人たちは、そうでなければ、悪魔がユダの中へのように彼らの中へ入るであろう。このことは聖餐の前に唱えられる祈り☆2から明らかである。
☆1 「化体」とは「聖餐のパンとブドウ酒はキリストの肉と血に化する」ことである。
☆2 『新しいエルサレムのための生活の教え』の5番(英文)と6番にある。