(2) 直訳(7洗礼)
7{1}. DE BAPTISMO.― 7 洗礼について――
Quod Baptismus non sit simpliciter aqua, sed quod sit aqua Divino mandato comprehensa, et Verbo Dei obsignata, et sic sanctificata: 洗礼は単純に(単に)水ではないこと、しかし、神の命令でつかまえられた(取り入れられた)水であること、また神のみことばで封印された(印を押された)、またこのように聖別された。
quod Baptismi virtus, opus, fructus et finis sit, ut homines salventur, et in Christianam Communionem cooptentur: 洗礼の力(美徳)、働き、実(成果)また目的であること、人間が救われるように(こと)、またキリスト教徒の交際に選ばれる(選んで入れられる、com+opto)。
quod per Baptismum offeratur victoria super mortem et Diabolum, remissio peccatorum, gratia Dei, Christus cum omnibus Suis operibus, et Spiritus Sanctus cum omnibus Suis dotibus, ac aeterna beatitudo omnibus et singulis qui credunt: また洗礼によって死と悪魔(の上)に勝利を提供される(与えられる)、罪の赦し、神の恩恵、キリスト〔と〕その方のすべての働きとともに、また聖霊〔と〕そのすべての贈り物とともに、そして信じる者のすべてと個々のものに永遠の至福を。
num fides etiam per Baptismum detur infantibus, est altius quam ut sollicite inquirendum sit. 洗礼によって幼児にもまた信仰が与えられるかどうかは、さらに高いものである、心配して(悩まされて)調べなければならないような〔それ〕よりも☆。
☆ 直訳です、「これが高度な問題であっても、調べなければならないと悩むこともないだろう」⇒真剣に取り組まなくてもよいだろう、といったことでしょう。
Quod immersio in aquam significet mortificationem veteris hominis, et resurrectionem novi; 水の中へ浸ること☆は、古い人間の壊死、また新しい〔人間〕のよみがえり(復活)を意味すること。
☆ 古くはヨルダン川の水に浸ることであった洗礼は、その後、額に水をつけることへと簡略化されています。
quod ideo vocari possit lavacrum regenerationis, ac vere lavacrum in Verbo, tum in morte et sepultura Christi: それゆえ、再生の洗うこと(たらい)と呼ばれることができること、そしてみことばの中の真の洗うこと(たらい)、なおまたキリストの死と埋葬の中での。
quod Christiani vita sit quotidianus Baptismus semel sic inceptus: キリスト教徒の生活は日々の洗礼であること、一緒に、このように始められた。
quod aqua non id efficiat, sed Verbum Dei, quod in et cum aqua est, et fides Verbi Dei aquae addita; 水はそのことを引き起こさない(生じない)、しかし、神のみことばが、それは水の中に、また〔水〕とともにある、また水に付加された神のみことばへの信仰が〔引き起こす〕。
quod inde sequatur, quod Baptizatio in Nomine Dei, quidem ab hominibus fiat, sed non sit, verum ab ipso Deo: ここからいえること、神の名前の中への洗礼は、確かに人間により行なわれる、しかし、〔そう〕ではないこと、しかし、神ご自身により〔行われる〕こと。
quod Baptismus non tollat peccatum originale, exstincta prava concupiscentia, sed reatum. 洗礼は原罪を取り去らないこと、悪い欲望の消滅で、しかし罪責感(罪)を〔取り去る〕。
Alii vero ex Reformatis credunt, けれども、改革派教徒からのある者たちは信じている、
Quod Baptismus sit externum lavacrum aquae, per quod interna ablutio a peccatis significatur: 洗礼は水の外なる洗うこと(たらい)であること、それによって罪からの内的な浄化(洗い清めること)が意味される。
quod non conferat regenerationem, fidem, gratiam Dei et salutem, sed tantum significet et obsignet illa; 再生、信仰、神の恩恵と救いを与えないこと、しかし、それだけ(こんな程度に)意味する、またそれらを印章で示す(~の印を押す)こと。
et quod illa non conferantur in et cum Baptismo, sed postea increscente aetate; またそれらは洗礼の中で、また〔洗礼〕とともに与えられないこと、しかし、その後、年齢で増えて。
quodque solum electi consequantur gratiam Christi et donum fidei: そして選ばれた者だけがキリストの恩恵と信仰の賜物を続けられる(遂げる・達成する)。
et quia salus non dependet a Baptismo, quod ideo permittatur fieri ab alio in defectu ordinarii Ministri. また救いは洗礼に依存しないので、それゆえ、他の者により行なわれることが赦されている、規則正しい(正規の)聖職者の欠如(欠乏)の中で。
@1 7 pro “VI.” 注1 「VI.」の代わりに7
(3) 訳文
(2) 直訳(7洗礼)
7 洗礼について――
洗礼は単に水ではない、しかし、神の命令が取り入れられた、また神のみことばで印を押された、またこのように聖別された水である。洗礼の力、働き、実と目的は、人間が救われ、キリスト教徒の交わりに選ばれることである。また洗礼によって、死と悪魔に勝利すること、罪の赦し、神の恩恵、キリストのすべての働きとともにその方が、また聖霊がそのすべての贈り物とともに、そして信じるすべてと個々の者に永遠の至福が与えられる。洗礼によって幼児にもまた信仰が与えられるかどうかは、調べなければならないほどに悩まされような〔それ〕よりもさらに高いものである。
水の中へ浸すことは、古い人間の死、また新しい人間の復活を意味する。それゆえ、〔それは〕再生の洗うこと、そしてみことばの中の、なおまたキリストの死と埋葬の中での真の洗うことと呼ばれることができる。キリスト教徒の生活は、このように始められた洗礼と一緒に、日々の洗礼である。水はそのことを引き起こさない、しかし、水の中に、また水とともにある神のみことばが、また水に付加された神のみことばへの信仰が引き起こす。ここから、神の名前の中への洗礼は、確かに人間により行なわれる、しかし、〔そう〕ではなく、神ご自身により〔行われる〕ことがいえる。洗礼は悪い欲望の消滅によって原罪を取り去らない、しかし罪 (罪責感)を取り去る。
けれども、改革派教徒のある者たちは信じている、
洗礼は水の外なる洗うことであり、それによって罪からの内的な浄化が意味される。再生、信仰、神の恩恵、救いを与えない、しかし、こんな程度に意味し、またそれらに印を押す。またそれらは洗礼の中で、また洗礼とともに与えられない、しかし、その後、年齢が増して〔与えられる〕。そして選ばれた者だけにキリストの恩恵と信仰の賜物が達成される。また救いは洗礼に依存しないので、それゆえ、正規の聖職者の欠如の中で他の者により行なわれることが赦されている。