原典講読『啓示された黙示録』 教えの事柄 (16)(直訳と訳文)

(2) 直訳(3義認と善い働き[5], [6])

[5] quod in renovatione propter mandatum Dei, necessario facienda sint honesta opera, quae Decalogus praecipit, quia vult Deus ut carnales cupiditates coerceantur civili disciplina; [5] 神の命令のために更新の中で、立派な(似つかわしい)働きが行なわれべきである必要性、それを「十戒」が命じている、神が欲するからである、肉の欲望が市民の(公民的な)矯正(懲戒)で抑制されるように。

quare dedit doctrinam, leges, magistratus et poenas: それゆえ、〔神は〕教え、律法、行政長官や罰を与えた。

quod ideo sequatur falsum esse, quod per opera mereamur remissionem peccatorum et salutem, tum quod opera aliquid faciant ad fidem conservandam; それゆえ、虚偽であることがいえる、働きによって私たちが罪の赦しと救いに値すること、なおまた働きは信仰を保つ(守る)ために何らかのものを行なうこと。

et quoque falsum esse, quod homo reputetur justus propter justitiam rationis suae, et quod ratio possit propriis viribus Deum super omnia amare, ac legem Ipsius facere: そしてまた虚偽であること、人間は自分の理性の公正(義)のために正しいと見なされること、また理性はプロプリウム(固有なもの)の力ですべてのものにまさって神を愛すること、そしてその方の律法を行なうことができること。

verbo, quod fides et salus in hominibus conserventur et retineantur non per bona opera, sed tantum per Spiritum Dei et per Fidem; 一言でいえば、人間の中の信仰と救いは善の働きによってでなく保たれる(守られる)また保有される、しかし、それだけ神の霊によってまた信仰によって。

sed usque quod bona opera testimonia sint, quod Spiritus Sanctus praesens sit, et in illis habitet: しかしそれでも、善の働きは証拠である、聖霊が現在すること、また彼らの中に住んでいる。

damnatur, ut perniciosa, phrasis, quod bona opera noxia sint ad salutem, quia intelligenda sunt opera Spiritus Sancti interiora, quae bona sunt, non exteriora procedentia a propria voluntate hominis, quae non bona sunt sed mala, quia meritoria. 断罪される(批難される)、破滅的な(有害な)ものとして、言いまわしは、善の働きは救いに有害であること、聖霊の内的な働きが理解されなければならないからである、それは善である、人間の意志のプロプリウム(固有なもの)から発出する外的なものが〔理解されてはなら〕ない、

それは善ではない、しかし悪、功績を求めるもの〔である〕からである☆。

☆ ここのquiaが原文ではquaとなってしまいました。訂正します。

 

[6] Tradunt praeterea, quod Christus Ultimo Judicio laturus sit sententiam de operibus bonis et malis tanquam effectis propriis et non propriis fidei hominis. [6] さらに伝えられている(述べられている)、キリストは最後の審判で善のまた悪の働きについて判断(判決)をほえるであろうこと、いわば結果に、人間の信仰のプロプリウム(固有なもの)とプロプリウム(固有なもの)でない。

Haec fides hodie regnat in toto Christiano Reformato Orbe apud Clericos, sed non apud Laicos nisi perpaucos; この信仰は今日、改革派のキリスト教界全体を支配している、聖職者のもとで、しかし、平信徒のもとでない、非常に数少ない〔者のもので〕ないなら。

Laici enim non aliud intelligunt per fidem, quam credere in Deum Patrem, Filium et Spiritum Sanctum, et quod qui bene vivit et bene credit, salvetur; というのは、平信徒は信仰によって何らかのものを理解しないから、父なる神と、子と聖霊を信じること以外に、また善く生き、善く信じる者は、救われること。

et de Domino quod sit Salvator; また、主について、救い主であること。

ignorant enim arcana justificationis Praedicatorum suorum, qui tametsi illa praedicant, usque apud auditores Laicos intrant per unam aurem et exeunt per alteram; というのは、自分たちの説教者の義認の秘義を知らない(無知である)から、その者はたとえそれらを説教しても、それでも聞き手の平信徒のもとで一方の耳に入り、またもう一方〔の耳〕から出る。

imo ipsi Doctores se reputant eruditos ex scientia illorum, ac in Gymnasiis et Lyceis multum laborant ut illa capiant; それどころか(実に)、教える者(教師)自身が自分自身を、それらの知識から学問のある者と見なしている、そしてギムナジウム(単科大学)や高等学校の中で多く苦労する(骨を折る)、それらを捕える(会得する)ために。

quare supra dictum est, quod illa fides sit fides Clericorum. それゆえ、上に言われた、その信仰は聖職者の信仰であること。

 

(3) 訳文

 [5] 神の命令のために更新の中で、似つかわしい働きが行なわれべきである必要性があり、それを「十戒」が命じている、肉の欲望が公民的な懲戒で抑制されるように神が欲するからである。それゆえ、〔神は〕教え、律法、行政長官、罰を与えられた。それゆえ、働きによって私たちが罪の赦しと救いに値すること、なおまた働きは信仰を守るために何らかのものを行なうことは虚偽であることがいえる。そしてまた、人間は自分の理性の公正(義)のために正しいと見なされること、また理性はプロプリウム(固有なもの)の力ですべてのものにまさって神を愛し、そしてその方の律法を行なうことができることは虚偽であること。一言でいえば、人間の中の信仰と救いは、善の働きによってでなく、しかし、神の霊によってまた信仰によってそれだけ守られ、保有される。しかしそれでも、善の働きは、聖霊が現在し、彼らの中に住んでいる証拠である。善の働きは救いに有害であることの言いまわしは、破滅的なものとして断罪される、善である聖霊の内的な働きが理解され、人間の意志のプロプリウム(固有なもの)から発出する外的なものが理解されてはならないからである。それは善ではなく悪である、功績を求めるものであるからである。

 

 [6] さらに、キリストは最後の審判で善のまた悪の働きについての判決を、いわば結果である人間の信仰のプロプリウム(固有なもの)とプロプリウム(固有なもの)でないことを、ほえる〔声高に叫ぶ〕であろうことが伝えられている。

今日、この信仰は改革派のキリスト教界全体を、聖職者のもとで支配している、しかし、非常に数少ない者でないなら平信徒のもとではない。

 というのは、平信徒は信仰によって、父なる神と子と聖霊を信じること、また善く生き、善く信じる者は、救われること、また、主について、救い主であること以外に何らかのものを理解しないから。というのは、自分たちの説教者の義認の秘義を知らず、その説教者がたとえそれらを説教しても、それでも聞き手の平信徒のもとで一方の耳に入り、もう一方の耳から出るから。それどころか、教える者自身が、自分自身を、れらの知識から学問のある者と見なしている、そして大学や高等学校の中で、それらを会得するために多くの苦労をしている。それゆえ、前にその信仰は聖職者の信仰であることが言われた。

原典講読『啓示された黙示録』 教えの事柄 (17)(直訳と訳文)

(2) 直訳(3義認と善い働き[7, 8, 9])

[7] Sed usque Doctores eandem hanc fidem in Regnis ubi Reformati sunt, diversimode docent. [7] しかし、教える者はこの同じ信仰をそこに改革派教会の者がいる王国の中で、異なって教えている。

In Germania, Suecia et Dania, ドイツ、スウェーデンとデンマークの中で、

Quod Spiritus Sanctus per illam fidem operetur, ac homines justificet et sanctificet, ac postea successive renovet et regeneret, sed absque operibus legis; 聖霊は、それによって信仰が働く、そして人間を義とする、また聖別する、そしてその後、しだいに更新する、また再生させる、しかし、律法の働きなしに。

et qui in illa fide ex fiducia et confidentia sunt, in gratia apud Deum Patrem sint; また信頼と信任からその信仰の中にいるので、父なる神の恩恵の中にいる。

et quod tunc mala quae faciunt quidem appareant, sed jugiter remittantur. またその時、行なう悪は確かに(なるほど)見られるが、しかし常に赦される。

[8] In Anglia, [8] イギリスの中で、

Quod illa fides operetur charitatem inscio homine, et quod id etiam bonum charitatis sit, quod homo interius sentit Spiritum Sanctum apud se operari: その信仰は人間が知らないで仁愛を働くこと、またそれは仁愛の善でもある、人間が内部に自分のもとに働く聖霊を感じること。

et si non sentit, et usque propter salutem facit bonum, quod id possit dici bonum, sed quod usque trahat ex homine quod in eo sit meritum: またもし感じないなら、またそれでも救いのために善を行なう〔なら〕、それは善と言われることができる、しかし、人間から得ていない、その中に功績があること。

tum quod illa fides id possit in ultima mortis hora operari, tamen non scitur quomodo. なおまたその信仰はそれを死の最期の時に働くことができること、それでもなおどのように〔働く〕か知らない。

[9] In Hollandia, [9] オランダの中で、

Quod Deus Pater propter Filium per Spiritum Sanctum justificet et purificet hominem interius per illam fidem, sed usque ad propriam voluntatem ejus, a qua se deflectit, nec illam tangit (quidem quod leviter tangat), et quod sic mala voluntatis hominis non appareant coram Deo. 父なる神は子のために聖霊を通して内的な人間を義とする、また清める、その信仰を通して、しかしそれでも彼の意志のプロプリウム(固有のもの)へでない、それからご自分を逸らせる、それを触れもしない(ある者を、〔神は〕わずかに触れる)、またこのように人間の意志の悪は神の前に見られないこと。

 

Sed de his illorum arcanis pauci ex Laicis norunt, nec volunt illa, sicut sunt, propalare, quia sciunt quod illa non sapiant. しかし、それらのこれらの秘義について平信徒からのわずかな者が知っている、それらを欲しもしない、例えば、公けにすることである、 知っているからである、それらが味がしないことを。

 

(3) 訳文

 [7] しかし、教える者はこの同じ信仰をそこに改革派教会の者がいる王国の中で、異なって教えている。

 ドイツ、スウェーデン、デンマークでは、

 

 聖霊は、それによって信仰が働き、そして人間を義とし、また聖別する、そしてその後、しだいに更新し、再生させる、しかし、律法の働きなしに。また信頼と信任からその信仰の中にいるので、父なる神の恩恵の中にいる。またその時、行なう悪は確かに見られるが、しかし常に赦される。

 

 [8] イギリスでは、

 

 その信仰は人間が知らないで仁愛を働く、またそれは仁愛の善でもあり、人間が内部に自分のもとに働く聖霊を感じる。またもし感じないで、それでも救いのために善を行なうなら、それは善と言われることができる、しかし、その中に功績がある人間から得ている。なおまたその信仰はそれを死の最期の時に働くことができる、それでもなおどのように働くか知らない。

 

 [9] オランダでは、

 

父なる神は子のために聖霊を通して内的な人間を義とし、清め、その信仰を通して、しかしそれでも彼の意志のプロプリウム(固有のもの)へでなく、それからご自分を逸らせる、それを触れもしない(ある者を、〔神は〕わずかに触れる)、またこのように人間の意志の悪は神の前に見られない。

 

 しかし、それらのこれらの秘義について平信徒からのほとんどの者が知らず、それらを欲しもしない、例えば、公けにすることである、それらに味がないことを知っているからである。