(2) 直訳(3義認と善い働き[5], [6])
[5] quod in renovatione propter mandatum Dei, necessario facienda sint honesta opera, quae Decalogus praecipit, quia vult Deus ut carnales cupiditates coerceantur civili disciplina; [5] 神の命令のために更新の中で、立派な(似つかわしい)働きが行なわれべきである必要性、それを「十戒」が命じている、神が欲するからである、肉の欲望が市民の(公民的な)矯正(懲戒)で抑制されるように。
quare dedit doctrinam, leges, magistratus et poenas: それゆえ、〔神は〕教え、律法、行政長官や罰を与えた。
quod ideo sequatur falsum esse, quod per opera mereamur remissionem peccatorum et salutem, tum quod opera aliquid faciant ad fidem conservandam; それゆえ、虚偽であることがいえる、働きによって私たちが罪の赦しと救いに値すること、なおまた働きは信仰を保つ(守る)ために何らかのものを行なうこと。
et quoque falsum esse, quod homo reputetur justus propter justitiam rationis suae, et quod ratio possit propriis viribus Deum super omnia amare, ac legem Ipsius facere: そしてまた虚偽であること、人間は自分の理性の公正(義)のために正しいと見なされること、また理性はプロプリウム(固有なもの)の力ですべてのものにまさって神を愛すること、そしてその方の律法を行なうことができること。
verbo, quod fides et salus in hominibus conserventur et retineantur non per bona opera, sed tantum per Spiritum Dei et per Fidem; 一言でいえば、人間の中の信仰と救いは善の働きによってでなく保たれる(守られる)また保有される、しかし、それだけ神の霊によってまた信仰によって。
sed usque quod bona opera testimonia sint, quod Spiritus Sanctus praesens sit, et in illis habitet: しかしそれでも、善の働きは証拠である、聖霊が現在すること、また彼らの中に住んでいる。
damnatur, ut perniciosa, phrasis, quod bona opera noxia sint ad salutem, quia intelligenda sunt opera Spiritus Sancti interiora, quae bona sunt, non exteriora procedentia a propria voluntate hominis, quae non bona sunt sed mala, quia meritoria. 断罪される(批難される)、破滅的な(有害な)ものとして、言いまわしは、善の働きは救いに有害であること、聖霊の内的な働きが理解されなければならないからである、それは善である、人間の意志のプロプリウム(固有なもの)から発出する外的なものが〔理解されてはなら〕ない、
それは善ではない、しかし悪、功績を求めるもの〔である〕からである☆。
☆ ここのquiaが原文ではquaとなってしまいました。訂正します。
[6] Tradunt praeterea, quod Christus Ultimo Judicio laturus sit sententiam de operibus bonis et malis tanquam effectis propriis et non propriis fidei hominis. [6] さらに伝えられている(述べられている)、キリストは最後の審判で善のまた悪の働きについて判断(判決)をほえるであろうこと、いわば結果に、人間の信仰のプロプリウム(固有なもの)とプロプリウム(固有なもの)でない。
Haec fides hodie regnat in toto Christiano Reformato Orbe apud Clericos, sed non apud Laicos nisi perpaucos; この信仰は今日、改革派のキリスト教界全体を支配している、聖職者のもとで、しかし、平信徒のもとでない、非常に数少ない〔者のもので〕ないなら。
Laici enim non aliud intelligunt per fidem, quam credere in Deum Patrem, Filium et Spiritum Sanctum, et quod qui bene vivit et bene credit, salvetur; というのは、平信徒は信仰によって何らかのものを理解しないから、父なる神と、子と聖霊を信じること以外に、また善く生き、善く信じる者は、救われること。
et de Domino quod sit Salvator; また、主について、救い主であること。
ignorant enim arcana justificationis Praedicatorum suorum, qui tametsi illa praedicant, usque apud auditores Laicos intrant per unam aurem et exeunt per alteram; というのは、自分たちの説教者の義認の秘義を知らない(無知である)から、その者はたとえそれらを説教しても、それでも聞き手の平信徒のもとで一方の耳に入り、またもう一方〔の耳〕から出る。
imo ipsi Doctores se reputant eruditos ex scientia illorum, ac in Gymnasiis et Lyceis multum laborant ut illa capiant; それどころか(実に)、教える者(教師)自身が自分自身を、それらの知識から学問のある者と見なしている、そしてギムナジウム(単科大学)や高等学校の中で多く苦労する(骨を折る)、それらを捕える(会得する)ために。
quare supra dictum est, quod illa fides sit fides Clericorum. それゆえ、上に言われた、その信仰は聖職者の信仰であること。
(3) 訳文
[5] 神の命令のために更新の中で、似つかわしい働きが行なわれべきである必要性があり、それを「十戒」が命じている、肉の欲望が公民的な懲戒で抑制されるように神が欲するからである。それゆえ、〔神は〕教え、律法、行政長官、罰を与えられた。それゆえ、働きによって私たちが罪の赦しと救いに値すること、なおまた働きは信仰を守るために何らかのものを行なうことは虚偽であることがいえる。そしてまた、人間は自分の理性の公正(義)のために正しいと見なされること、また理性はプロプリウム(固有なもの)の力ですべてのものにまさって神を愛し、そしてその方の律法を行なうことができることは虚偽であること。一言でいえば、人間の中の信仰と救いは、善の働きによってでなく、しかし、神の霊によってまた信仰によってそれだけ守られ、保有される。しかしそれでも、善の働きは、聖霊が現在し、彼らの中に住んでいる証拠である。善の働きは救いに有害であることの言いまわしは、破滅的なものとして断罪される、善である聖霊の内的な働きが理解され、人間の意志のプロプリウム(固有なもの)から発出する外的なものが理解されてはならないからである。それは善ではなく悪である、功績を求めるものであるからである。
[6] さらに、キリストは最後の審判で善のまた悪の働きについての判決を、いわば結果である人間の信仰のプロプリウム(固有なもの)とプロプリウム(固有なもの)でないことを、ほえる〔声高に叫ぶ〕であろうことが伝えられている。
今日、この信仰は改革派のキリスト教界全体を、聖職者のもとで支配している、しかし、非常に数少ない者でないなら平信徒のもとではない。
というのは、平信徒は信仰によって、父なる神と子と聖霊を信じること、また善く生き、善く信じる者は、救われること、また、主について、救い主であること以外に何らかのものを理解しないから。というのは、自分たちの説教者の義認の秘義を知らず、その説教者がたとえそれらを説教しても、それでも聞き手の平信徒のもとで一方の耳に入り、もう一方の耳から出るから。それどころか、教える者自身が、自分自身を、れらの知識から学問のある者と見なしている、そして大学や高等学校の中で、それらを会得するために多くの苦労をしている。それゆえ、前にその信仰は聖職者の信仰であることが言われた。