(2) 直訳(3義認と善い働き[?])
[4] Quod fides in actu justificationis intret per Verbum et auditum, et quod non sit actus hominis, sed quod sit operatio Spiritus Sancti, et quod tunc homo non cooperetur plus quam statua salis, truncus aut lapis, nihil ex se agens, et de eo nihil sciens, sed quod post actum cooperetur, verum non cum aliqua voluntate propria in spiritualibus; [4] 信仰は義認の活動の中で、みことばと聴覚を通して入ること、また人間の活動ではないこと、しかし、聖霊の働きであること、またその時、人間は塩の柱☆、幹(丸太)または石以外にさらに協力しないこと、それ自体からは何も行なわない、そのことについて何も知らない、しかし、活動の後、協力すること、けれども、霊的なものの中で〔人間に〕固有のものの何らかの意志とともにでなく。
☆ 「塩の柱」については創世記19:26参照。
aliter in naturalibus, civilibus et moralibus; 異なって〔いる〕、霊的なもの、市民的なもの、道徳的なものの中で。
attamen quod tunc in spiritualibus eo usque possint progredi, ut bonum velint, eoque delectentur, sed hoc ipsum non a sua voluntate, sed a Spiritu Sancto, et quod sic cooperentur non a suis viribus, sed a novis viribus et donis, quae Spiritus Sanctus in conversione inchoavit; しかしながら、その時、霊的なものの中でそれだけ(eo usuque)進むことができる、善を欲するように、そしてそれだけ(eo)楽しむ(満足する)、しかし、このことそのものは自分の意志からではない、しかし、聖霊から、またこのように自分の力からでなく協力する、しかし新しい力と賜物から、それらを聖霊が回心の中で始めた。
quodque in vera conversione immutatio, renovatio et motus fiant in hominis intellectu et corde: そして真の回心の中で、人間の理解力と心の中に、変化、更新また運動(衝動・感動)が生じること。
quod charitas, bona opera et paenitentia non ingrediantur actum justificationis, sed quod in statu justificationis necessaria sint, imprimis propter mandatum Dei, et quod per illa mereantur praemia hujus vitae corporalia, sed non remissionem peccatorum et vitae aeternae gloriam, quia sola fides absque operibus legis justificat et salvat: 仁愛、善い働きまた悔い改めは義認の活動に入らないこと、しかし、義認の状態の中で必要であること、特に神の命令のために、またそれらによってこのいのち(生活)の身体的な報酬に値すること、しかし、罪の赦しと永遠のいのちの栄光に〔値し〕ない、信仰のみが律法の働きなしに義とする、また救うからである。
quod fides actu hominem justificet, sed fides statu renovet: 活動での信仰は人間を義とする、しかし状態での信仰は更新する(新しくする)こと。
(3) 訳文
[4] 信仰は義認の活動の中で、みことばと聴覚を通して入り、人間の活動ではなく、しかし、聖霊の働きである、またその時、人間は、それ自体からは何も行なわない、そのことについて何も知らない塩の柱☆、丸太または石以上にさらに協力しない、しかし、活動の後、協力する、けれども、霊的なものの中で〔人間に〕固有のものの何らかの意志とともにではない。霊的なもの、市民的なもの、道徳的なものでは異なっている。しかしながら、その時、霊的なものの中で、善を欲し、そしてそれだけ楽しむように、それだけ進むことができる、しかし、このこと自体は自分の意志からではなく、しかし、聖霊から、またこのように自分の力からでなく、しかし聖霊が回心の中で始めた新しい力と賜物から協力する。そして真の回心の中で、人間の理解力と心の中に、変化、更新、衝動が生じること。仁愛、善い働きまた悔い改めは、義認の活動に入らない、しかし、義認の状態の中で、特に神の命令のために、必要であり、またそれらによってこのいのち(生活)の身体的な報酬に値す、しかし、罪の赦しと永遠のいのちの栄光に値しない、信仰のみが律法の働きなしに義とし、救うからである。活動での信仰は人間を義とする、しかし状態での信仰は更新する。
☆ 「塩の柱」については創世記19:26参照。