(2) 直訳(3義認と善い働き[3])
[3] Haec est fides hodierna in summario, verum confirmationes ejus et traditiones de illa sunt plures et multiplices, ex quibus aliquae etiam adducentur, quae sunt, [3] これ(女性)が要約した今日の信仰である、けれども、その確証(証拠)とそれらについての伝承は数多くまた多種多様である、それらから何らかのものもまた提示される(未来)、それらである、
Quod homines non possint justificari coram Deo propriis viribus, meritis et operibus, sed gratis propter Christum, per fidem, per hanc quod credant se in gratiam recipi et peccata remitti propter Ipsum, Qui Sua morte pro nobis satisfecit, et quod Deus Pater hoc credentibus imputet propter justitiam coram Ipso: 人間は固有の(それ自身の)ものの力で、功績と働きで、神の前に義とされることができないこと、しかし、無料でキリストのために、信仰によって、これ〔信仰〕によって、自分たち自身が恵みの中へ受け入られること、また罪が赦されることを信じている、その方のために、その方は、ご自分の死で私たちのためにあがなった(満足させた)、また父なる神はこれを信じる者たちに転嫁すること、ご自分(神)の前の義のために。
quod fides haec non tantum sit notitia historica quod Christus pro nobis passus et mortuus sit, sed etiam assensus corde, confidentia et fiducia, quod gratis propter Christum remittantur peccata et justificentur; この信仰はこんな程度に歴史の(史実に基づく)知識ではない、キリストが私たちのために苦しまれ、また死んだこと、しかしさらにまた心での同意、信任と信頼〔である〕、無料でキリストのために罪が赦される、また義とされること。
et quod tunc haec tria concurrant, Promissio gratuita, Meritum Christi tanquam pretium, et Propitiatio: またその時、これら三つのものが一緒に走る(群がり集まる)こと、無料の約束、いわば代価〔としての〕キリストの功績、また贖罪(和解)。
quod fides sit justitia, qua coram Deo justi reputamur propter promissionem: 信仰は義(公正)であること、それによって神の前に正しい者が私たちは評価される(見なされる)、約束のために。
et quod justificari sit absolvi a peccatis, et quod etiam quodam modo dici possit vivificari et regenerari: また義とされることは罪から赦免されることであること、またある種の方法(様式)でもまた言われることができること、生かされることまた再生されること。
quod fides nobis ad justitiam reputetur, non quia illa tam bonum opus est, sed quia meritum Christi apprehendit: 信仰は私たちに義に(向けて)評価される(見なされる)こと、それ〔信仰〕がこれほどに善の働きであるからではない、しかし、キリストの功績をつかまえるからである。
quod meritum Christi sit Ipsius Obedientia, Passio, Mors et Resurrectio: キリストの功績は、その方の服従、受難、死と復活であること。
quod necessum sit, ut aliquid sit per quod Deus adiri potest, et quod id non aliud sit quam fides per quam fit receptio. 必要であること、何らかのものが存在すること、それによって神に近づくことができる、またそれは信仰以外の何らかのものでないこと、それによって受け入れが生じる。
(3) 訳文
[3] これが要約した今日の信仰である、けれども、その確証とそれらについての伝承は数多くまた多種多様である、それらからの何らかのものもまた提示しよう、これらである、
人間は自分自身の力、功績、働きで、神の前に義とされることができない、しかし、キリストのために無償で、信仰によって、この信仰によって、自分たち自身が恵みの中へ受け入られ、その方のために罪が赦されることを信じている、その方は、ご自分の死で私たちのためにあがない、父なる神はご自分(神)の前の義のために、これを信じる者たちに転嫁される。
この信仰は、キリストが私たちのために苦しまれ、死なれたといった史実に基づく知識ではない、しかしさらにまた、キリストゆえに無償で罪が赦され、また義とされることの心からの同意、信任と信頼である。またその時、これら三つのもの、無償の約束、いわば代価〔としての〕キリストの功績、また贖罪(和解)が群がり集まる。
信仰は義であり、それによって約束ゆえに神の前に正しい者として私たちが見なされる。また義とされることは罪から赦免されることであり、生かされることち再生されることであるとも言われることができる。私たちに信仰は義と見なされるのは、その信仰がこれほどに善の働きであるからではなく、しかし、キリストの功績をつかまえるからである。
キリストの功績は、その方の服従、受難、死と復活である。
それによって神に近づくことができる何らかのものが存在することが必要であり、それは信仰以外の何らかのものでなく、それによって受け入れが生じる。