原典講読『啓示された黙示録』 教えの事柄 (5)

(2) 直訳(5義認 )

5. DE JUSTIFICATIONE.― 5 義認について――

Quod translatio ab eo statu in quo homo nascitur filius Adami in statum gratiae per secundum Adamum Salvatorem, sine Lavacro regenerationis et fidei, seu Baptismo, non fiat. その状態からの移動は、その中に人間はアダムの子に生まれている、恵みの状態の中に、救い主の第二のアダムを通して、再生と信仰の洗うことなしに、すなわち、洗礼、生じないこと。

Quod exordium justificationis secundum sit a gratia praeveniente, quae est Vocatio, cum qua homo cooperatur convertendo semet. 義認の第二の始まりは先行する恵みからであること、それは「呼ぶこと(神のお召し)」である、それに人間は自分自身を回心させて協力する。

Quod dispositio fiat per Fidem, cum credit vera esse quae revelata sunt, ad quam libere movetur: 配置(調節)は「信仰」によって生じる、啓示されたものが真理であることを信じるとき、それへ自由に〔心を〕動かされること。

tum per Spem, dum credit quod Deus propter Christum propitius sit: なおまた「希望」によって、神がキリストのために(ゆえに)なだめた(和解した)ことを信じる時。

et per Charitatem, qua incipit proximum diligere, et odio habere peccatum. また「仁愛」によって、それによって隣人を愛することを、また罪に憎しみを持つことを始める。

Quod Justificatio, quae sequitur, non solum sit peccatorum remissio, sed sanctificatio et interioris hominis renovatio; 義認は、それは~がいえる、罪の赦しだけでなく、しかし聖別と内的な人間の更新であること。

quod tunc non reputentur justi, sed quod sint justi, justitiam in se recipientes; その時、正しい者と見なされない、しかし、正しい者であること、義(公正)を自分自身の中に受け入れている者。

et quia accipiunt meritum passionis Christi, quod ita inseratur Justificatio per Fidem, Spem et Charitatem. またキリストの受難の功績を受け取るので、そのように義認が挿入される(植え付けられる)こと、信仰、希望、また仁愛によって。

[2] Quod Fides sit humanae salutis initium, fundamentum et radix Justificationis, et quod hoc sit per fidem justificari: [2] 信仰は人間の救いの始まりであること、義認の土台(基礎)と根(根源)、またこれが信仰によって義認される(義とされる)ことである。

et quia nihil eorum quae Justificationem praecedunt, sive fides sive opera, justificationis gratiam promerentur, quod hoc sit justificari gratis, est enim gratia praeveniens: また、それらの何も、それらは義認に先行する、あるいは信仰あるいは働き〔であれ〕、義認の恵みに値しない(功績を得ない)、これはだだで(無料で)義認される(義とされる)ものである、というのは、先行する恵みであるから。

et quod usque homo ex operibus justificetur, et non ex fide tantum: また、人間は働きから義認される(義とされる)こと、また信仰からこんな程度にでなく。

quod justi in levia et venialia peccata cadant, et quod usque sint justi: 正しい者は、軽い(小さい)また容赦してよい罪に落ち込むこと、またそれでも正しい者であること。

et quod justi ideo continue laborare debeant per orationes, oblationes, eleemosynas, jejunia, ne cadant, quia renati sunt in spem gloriae, et non in gloriam. また、正しい者は、それゆえ、絶えず精一杯努力しなければならない(すべきである)、祈り、奉献、施し、断食によって、落ち込まないように、栄光の希望の中に更新されているからである、また栄光の中にでない。

Quod Justi, si exciderint justificationis gratia, rursus justificari possint per Paenitentiae sacramentum: 正しい者は、もし義認の恵みをなくす(すべり落ちる)なら、再び悔い改めの秘跡によって義認される(義とされる)ことができること。

quod per quodlibet mortale peccatum amittatur gratia, sed non fides; どんなものでも☆死ぬべき罪によって恵みは失われる、しかし、信仰〔よってでは〕ない。

☆ 原文でquodとlibetの間にスペースが入ってしまいました(訂正します)。

at quod per infidelitatem, quae est recessio a Religione, etiam fides. しかし、信仰もまた、無信仰によって、それは宗教からの離脱である。

Quod Opera hominis justificati sint merita, et quod justificati per illa, quae ab illis per Dei gratiam et meritum Christi fiunt, promereantur vitam aeternam. 義認された(義とされた)人間の働きは功績であること、また義認された(義とされた)者は、それによって、それは彼らにより神の恵みとキリストの功績を通して、行なわれる、永遠のいのちを値する(功績を得る)こと。

Quod Liberum Arbitrium post Adami peccatum non amissum et exstinctum sit, et quod homo cooperetur assentiendo vocanti Deo, et quod alioquin foret inanimatum corpus. 「選択の自由(自由選択の力)」はアダムの罪の後、失われない、また消滅されないこと、また人間は神の呼び出す(招く)ことに同意して協力すること、またそうでなければ生命のない身体になること。

Praedestinationem statuunt, dicendo quod nemo sciat num sit in numero praedestinatorum, et inter illos quos Deus Sibi elegerat, nisi ex speciali revelatione. 「予定説」を定めている、言って、だれも知らないこと、予定の数の中にいるかどうか、また彼らの間に、その者を神がご自身に選んだ、特別な啓示からでないなら。

 

(3) 訳文

 5 義認について――

人間はアダムの子に生まれているその状態から、救い主の第二のアダムを通して、恵みの状態の中への移動は、再生と信仰の洗うこと、すなわち、洗礼なしに生じない。

 義認の第二の始まりは「神のお召し」である先行する恵みからである、それに人間は自分自身を回心させて協力する。

 調節は啓示されたものが真理であると信じるとき「信仰」によって生じ、それへ自由に〔心を〕動かされる。なおまた、神がキリストゆえに和解されたことを信じる時、「希望」によって〔生じる〕。また「仁愛」によって生じ、それによって隣人を愛すること、また罪に憎むことを始める。

 義認は、罪の赦しだけでなく、聖別と内的な人間の更新であるといえる。その時、正しい者と見なされない、しかし、正しい者、義を自分自身の中に受け入れている者である。またキリストの受難の功績を受け取るので、そのように義認が、信仰、希望、仁愛によって挿入される。

 [2] 信仰は人間の救い、義認の基礎や根源の始まりであり、これが信仰によって義とされることである。また、義認に先行する信仰あるいは働きは、それらの何も義認の恵みに値しない、これは無償で義とされるものである、というのは、先行する恵みであるから。また、人間は働きから義とされ、信仰からはそれほどでもない。正しい者は、軽くまた容赦される罪に落ち込む、それでも正しい者である。また、正しい者は、それゆえ、落ち込まないように、祈り、奉献、施し、断食によって、絶えず努力しなければならない、栄光の中にではなく、栄光への希望の中に更新されているからである。

 正しい者は、もし義認の恵みをなくすなら、再び悔い改めの秘跡によって義とされることができる。死ぬべき罪のどんなものによっても恵みは失われる、しかし、信仰〔よってでは〕ない。しかし、信仰もまた、宗教からの離脱である無信仰によって失われる。

 義とされた人間の働きは功績であり、また義とされた者は、彼らにより神の恵みとキリストの功績を通して行なわれるものによって、永遠のいのちに値する。

 「選択の自由(自由選択の力)」はアダムの罪の後、失われず、消滅しない、また人間は神の招きに同意して協力する、またそうでなければ生命のない身体になる。

特別な啓示からでないなら、神がご自身に選んだ者の間に、予定の数の中に入っているかどうか、だれも知らないと言って、「予定説」を定めている。

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