(1) 原文「2871番」
357(2871). Infernales spiritus non sciunt quod aliud liberum sit quam quod est amoris sui et amoris mundi, hoc est, cupiditatum imperandi, persequendi et odio habendi omnes qui non serviunt, cruciandi quoscumque, destruendi sui causa, si possent, universum, auferendi et sibi vindicandi quicquid est alterius; cum in his et similibus sunt, in suo libero, quia in suo jucundo, sunt; in illo libero consistit vita eorum usque adeo ut si illud iis auferatur, non plus vitae iis supersit quam quantum infanti recens nato: ostensum quoque hoc per vivam experientiam; spiritus quidam malus in persuasione erat quod tali potuissent ei auferri, et sic venire in caelum, proinde quod potuisset vita ejus miraculose transcribi in vitam caelestem, quare ei amores illi cum eorum cupiditatibus auferebantur, quod fit in altera vita per dissociationem, et visi tunc manifeste sicut infans natans manibus quas vix posset movere, et erat simul in statu ut minus quam aliquis infans posset cogitare, nihil prorsus loqui, nec quicquam scire; sed mox restitutus est suo jucundo et sic libero: inde patuit quod impossibile sit, qui ex amore sui et mundi, et consequenter in illorum libero, vitam sibi comparavit, possit in caelum venire; si enim tali auferretur illa vita, non aliquid cogitationis et voluntatis residuum haberet.
(2) 直訳
357(2871). Infernales spiritus non sciunt quod aliud liberum sit quam quod est amoris sui et amoris mundi, hoc est, cupiditatum imperandi, persequendi et odio habendi omnes qui non serviunt, cruciandi quoscumque, destruendi sui causa, si possent, universum, auferendi et sibi vindicandi quicquid est alterius; 357(2871) 地獄の霊は知らない、何らかの自由があること、自己愛と世俗愛のものであるもの以外に、すなわち、支配しよう、迫害(攻撃)しよう、また憎しみを持とうとする欲望、すべての者を、その者は仕えない、だれでも苦しめよう、自分自身のために破壊しよう、もしできるなら、全世界を、取り去ろう、また自分自身に要求しよう、他の者のどんなものでも。
cum in his et similibus sunt, in suo libero, quia in suo jucundo, sunt; これらや類似のものの中にいるとき、自分の自由の中に〔いる〕、自分の快さの中に〔いる〕ので、いる。
in illo libero consistit vita eorum usque adeo ut si illud iis auferatur, non plus vitae iis supersit quam quantum infanti recens nato: 彼らのいのち(生活)はその自由の中にある(存する)、もしそれ〔自由〕が彼らに取り去られるなら、さらに彼らにいのちは何も残らない(ほどに)そこまでも、最近に生まれた幼児ほどにそれ以上。
ostensum quoque hoc per vivam experientiam; このこともまた生きた経験によって示された。
spiritus quidam malus in persuasione erat quod tali potuissent ei auferri, et sic venire in caelum, proinde quod potuisset vita ejus miraculose transcribi in vitam caelestem, quare ei amores illi cum eorum cupiditatibus auferebantur, quod fit in altera vita per dissociationem, et visi tunc manifeste sicut infans natans manibus quas vix posset movere, et erat simul in statu ut minus quam aliquis infans posset cogitare, nihil prorsus loqui, nec quicquam scire; ある悪霊が信念の中にいた、このようなもの〔自己愛と世俗愛〕が彼に取り去られることができた、またこうして天界の中にやって来ること、それゆえに、彼のいのち(生活)は奇跡的に天界のいのち(生活)に移されることができた、それゆえ、彼にそれらの愛がそれらの欲望とともに取り去られた、それは来世の中で〔仲間からの〕分離によって生じる、また私はその時、はっきりと見た、〔彼が〕幼児のように腕で泳いで☆、それをほとんど動かすことができない、また同様の状態の中にいた、何らかの幼児が考えることができるより少ないような、話すことはまったく何もない、どんなものでも知ることもない。
☆ 「泳ぐ」ような動作、すなわち、「手ではう」ことでしょう。
sed mox restitutus est suo jucundo et sic libero: しかし、間もなく、自分の快さをまたこうして自由を回復された。
inde patuit quod impossibile sit, qui ex amore sui et mundi, et consequenter in illorum libero, vitam sibi comparavit, possit in caelum venire; ここから不可能であることが明らかであった、自己愛と世俗〔愛〕から、またしたがってそれらの自由の中に〔いる〕、自分自身にいのち(生活)を得た者は、天界の中にやって来ることができる〔のは〕。
si enim tali auferretur illa vita, non aliquid cogitationis et voluntatis residuum haberet. というのは、もしそのようないのち(生活)が取り去られるなら、思考と意志の残りのもの☆の何らかのものを持たないから。
☆ 「残りのもの」について、下記参照。
(3) 訳文
357(2871) 地獄の霊は、自己愛と世俗愛のものであるもの以外に何らかの自由があることを知らない、すなわち、支配しよう、迫害しよう、また憎もう〔自分に〕仕えないすべての者を、だれでも苦しめよう、自分自身のために〔ならないなら〕破壊しよう、もしできるなら、全世界を取り去ろう、また他の者のどんなものでも自分自身に要求しようとする欲望である。これらや類似のものの中にいるとき、自分の快さの中にいるので、自分の自由の中にいる。彼らのいのち(生活)はその自由の中にあり、もしその自由が彼らから取り去られるなら、最近に生まれた幼児ほどに、そこまでも彼らにいのちは何も残らない――このこともまた生きた経験によって示された。
ある悪霊が、このようなもの〔自己愛と世俗愛〕が自分から取り去られることができ、またこうして天界の中にやって来る、それゆえ、彼のいのち(生活)は奇跡的に天界のいのち(生活)に移されることができるという信念の中にいた。それゆえ、彼にそれらの愛がそれらの欲望とともに取り去られた――そのことは来世の中で〔仲間からの〕分離によって生じる――また私はその時、彼が腕をほとんど動かすことができない幼児のように腕で泳いでいるのを、また、何らかの幼児が考えることができるよりも少なく、話すことはまったく何もなく、どんなものでも知ることもないのと同様の状態の中にいたことをはっきりと見た。しかし、間もなく、自分の快さを、こうして自由を回復された――ここから、自己愛と世俗愛から、したがってそれらの自由の中にいて、自分自身にいのち(生活)を得た者は、天界の中にやって来ることができるのは不可能であることが明らかであった。というのは、もしそのようないのち(生活)が取り去られるなら、思考と意志の残りのものを何も持たないからである。
◎「残りのもの」はスヴェーデンボリ独特の教えです、昨年暮れに発行した『用語辞典』にあるものを以下に掲載します。参考にしてください。(*の記号はそれが複数であることを意味します、真理*とあれば、これは抽象的な真理でなく、具体的な「諸真理」です)
残りのもの* Reliquiae. 「残りのもの*」は,人間が主のみことばから幼児期から教えられ,このようにその記憶に刻みつけられた善*と真理*だけではない,しかし,そこからのすべての状態*でもあり,例えば,幼年期からの無垢の状態*,両親・兄弟・教える者・友に対する愛の状態*,隣人に対する仁愛,そのようにまた貧しい者や乏しい者に対する慈悲の状態*である.一言でいえば,善と真理のすべての状態*である.記憶に刻みつけられた善*と真理*ともにこれらの状態が残りのものと呼ばれ,それは主により人間のもとで,彼にまったく知られないで,その内なる人の中に保存され,たくわえられており,人間のプロプリウム(固有のもの),すなわち,悪*と虚偽*からは徹底的に分離されている.…人間の状態はどんなものでも,その幼児期から最後の老年期まで,来世に残るだけでなく,戻って来る,それどころか,完全に,世で生きていた時のように生じる.そのように記憶のものである善*と真理*だけでなく,無垢と仁愛のすべての状態*もまた〔戻って来る〕/秘義561.人間は,自分自身のもとに生き何らかの生きているものを持たないなら,すなわち,無垢,仁愛,慈悲の何らかのものを,またここから何らかの似たもの,またはまねたものを持たないなら,.だれも決して,少しも人間のように,生きることができない.この無垢,仁愛,慈悲のものを,人間は主から幼児のときに,また子どもの年齢のときに受け,〔このことは〕幼児の状態,そしてまた少年の状態から明らかである.人間のその時に受けたものは,人間のもとに保存される.保存されたものはみことばの中で「残りのもの*」と呼ばれ,それは人間のもとの主おひとりのものである.この保存されているものは,人間が大人の年齢になった時,〔人間を〕人間であるようにすることができるものである/秘義1050.残りのもの*は…愛と仁愛のすべての状態*,したがって,人間が与えられる無垢と平和のすべての状態*である.これらの状態*は,人間に幼児期から与えられている,しかし,人間が大人の年齢に進むように〔それに合わせて〕徐々に少なくなる.しかし,人間が再生されるとき,前のものに加えてさらに新しい残りのものを,そのように新しいいのちを受ける/秘義1738.