原典講読『結婚愛』524(訳文)

(3)訳文

524.(1) それぞれの者に、死後、その中にいる悪が、同様に善が転嫁されること。

このことが、何らかの明白であるものの中で明らかであるために、これらの分離したものの中で説明される――

(1) それぞれの者に固有の(その人自身の)いのち(生活)がある。

(2) それぞれの者を自分のいのち(生活)は、死後、残ること。

(3) その時、悪い者には彼のいのち(生活)の悪が転嫁され、また善い者に彼の〔いのち(生活)の〕善が転嫁されること。

「第一」それぞれの者に固有の(その人自身の)いのち(生活)があること、そのように他の者から別々のいのち(生活)があることはよく知られている。というのは、絶え間のない多様性があり、何らかの同じものはないから。ここからそれぞれの者に自分のプロプリウム(固有のもの)がある。

このことは人間の顔からはっきりと明らかである、完全に他のものと似ている一つの顔は存在しない、永遠に存在することもできない。その理由は、似た霊魂は存在しないし、霊魂から顔があるからである。というのは、顔は、〔すでに〕言われたように、霊魂の象徴であり、そしてアニムスはその起源と形をいのちから導くからである。

[2] 人間に固有のアニムスが、また固有の顔があるように、いのち(生活)がなかったなら、彼に他の者から分離した死後のいのち(生活)もなかったであろう。それどころか、天界も存在しないであろう、というのは、これは〔天界〕は絶え間なく他の者から存続するから。この形はもっぱらこのような配置の秩序の中の霊魂と心の多様なものから存在する、一つのものをつくる、そして「唯一の者」から一つのものをつくり、霊魂が人間の中にあるように、それぞれの者のいのちがそこのすべてと個々の者にあるためである。そうでなかったなら、形が分解されるので、天界は消散させられた。

「唯一の者」は主であり、それからすべての個々のいのちがあり、それから形が密着する。

全般的に、いろいろなものそしてこのようなものからのすべての形は、一つのものへとこれらの調和した整合と配列ようなものである――このようなものが人間の形である。ここから、人間はこのように多くの四肢、内臓と器官から構成されていても、一つのものまた自分自身からのもののようでないなら自分自身の中に何らかのものを感じない。

[3] 「第二」それぞれの者を自分のいのち(生活)が、死後、残ることは、みことばから教会の中で、またこれらの箇所からよく知られている――

 

「人の子がやって来ようとしている……その時、それぞれの者に彼の行なったことにしたがって、報いる」(マタイ16:27)。

「私は開かれた書物を見た。すべての者は彼らの働きにしたがって裁かれる」(黙示録20:12, 13)。

「審判の日に、神はそれぞれの者に彼の働きにしたがって報いられる」(ローマ2:6、コリントⅡ5:10)。

 

働きはいのち(生活)であり、それにしたがってそれぞれの者は報いられる、いのち(生活)がそれを行ない、いのち(生活)にしたがっているからである。

多くの年にわたって、私に天使と一緒であること、そして世からやって来ている者と話すことが与えられたので、私は確かに証言することができる、それぞれの者はそこで、彼のいのち(生活)がどんなものであったか調べられること、また世の中で得たいのち(生活)が永遠に残ることである。

私は数世代前に生き、その者のいのち(生活)が歴史から私に知られていた者と話した、また私は〔歴史に〕記述されたものに似ていることを認めた。また、私は天使たちから、ある者のいのち(生活)が、死後、彼られることができないことを聞いた、彼の愛とここからの働きにしたがって組織化されているからである。また、もし変えられるなら、組織は引き裂かれるが、そのことは決して行なわれることができない。なおまた、組織の変化はもっぱら物質的な身体の中に存在し、また特に(以前に)捨てられた後に、霊的な身体の中でまったく不可能である。

[4] 「第三」その時、悪い者に彼のいのち(生活)の悪が転嫁され、また善い者に彼の〔いのち(生活)の〕善が転嫁されること。

悪の転嫁は、世の中のような控訴、告発、批難や裁判ではない、しかし、悪そのものがこのことを行なう――というのは、悪い者は自分の自由から善い者から、一緒にいることができないので、自分自身を分離するからである。悪の愛の快さは善の愛の快さを退ける、またそれぞれの者から快さが、地上のすべての植物からのにおい(香り)のように発散している。というのは、以前のように物質的な身体に吸収されず、また隠されない、しかし、自由に彼らの愛から流れ出る霊的なオーラ(空気)の中にあるから――また、悪はそこにそのにおいのように感じられるので、このことが控訴し、告発し、批難し、また裁くのである、何らかの裁判官の前でなく、しかし善の中にいるそれぞれの者の前で。またこのことが転嫁によって意味されることである。

さらに、悪い者は仲間を選び、それらの者と自分の快さの中で生きる。また、善の快さを退けるので、自発的に地獄の中の自分のものへ行く。

[5] 善の転嫁も同様に行なわれる。

このことは、自分の中のすべての善は主からであり、自分自身から何もないることを認めた者に生じる。

これらの者は準備された後に、善の内的な快さの中に入れられ、またその時、彼らに天界の中の社会への道が開かれ、そこに彼の同質の快さがある。このことは主により行なわれる。

原典講読『結婚愛』525

(1)原文

525. (ii.) Quod transcriptio boni unius in alterum impossibilis sit.― Hujus evidentia quoque videri potest ex his in ordine:― (1.) Quod unusquisque homo nascatur in malo. (2.) Quod in bonum inducatur per regenerationem a Domino. (3.) Quod fit per vitam secundum praecepta Ipsius. (4.) Quare bonum, cum ita implantatur, non potest transcribi. Primum, Quod unusquisque homo nascatur in malo, in ecclesia notum est. Dicitur quod hoc malum sit haereditario ex Adamo, sed est ex parentibus; ab his ducit quisque indolem, quae est inclinatio; quod ita sit, ratio et experientia convincunt; similitudines enim parentum quoad facies, genios et mores in proximis liberis et in posteris ex his, exstant; inde a multis noscuntur familiae, et quoque judicatur de illorum animis; quare mala, quae ipsi parentes contraxerunt, et per traducem in proles intulerunt, sunt in quibus homines nascuntur. Quod credatur, quod reatus Adami inscriptus sit omni generi humano, est quia pauci super aliquod malum reflectunt apud se, et inde sciunt id; quare opinantur, quod sit tam alte reconditum, ut non appareat nisi coram Deo. [2] Secundum, Quod homo in bonum inducatur per regenerationem a Domino. Quod sit regeneratio, et quod nisi quis regeneratur, non possit ingredi in caelum, patet clare a Domini verbis (apud Johan. iii. 3, 5); quod regeneratio sit purificatio a malis, et sic renovatio vitae, non potest in Christiano orbe latere, nam ratio etiam hoc videt dum agnoscit quod unusquisque nascatur in malo, et quod malum non possit ablui et abstergi sicut sordes per saponem et aquam, sed per resipiscentiam. [3] Tertium, Quod homo inducatur in bonum a Domino per vitam secundum praecepta Ipsius. Praecepta regenerationis sunt quinque, quae videantur supra (n. 82), inter quae sunt haec: quod fugienda sint mala, quia sunt diaboli et a diabolo, et quod facienda sint bona quia sunt Dei et a Deo, et quod adeundus sit Dominus, ut adducat illos ad faciendum illa; consulat quisque se, et expendat, num aliunde homini bonum; et si non bonum, non ei est salus. [4] Quartum, Quod bonum, cum ita implantatur, non possit transcribi. Per transcriptionem intelligitur transcriptio boni unius in alterum. Ex supradictis consequitur, quod homo per regenerationem innovetur prorsus quoad spiritum, et quod hoc fiat per vitam secundum praecepta Domini; quis non videt, quod haec innovatio non fieri possit nisi a tempore in tempus, vix aliter quam sicut successive radicatur et crescit arbor a semine, et perficitur? Ili qui aliter percipiunt regenerationem, non sciunt aliquid de statu hominis, nec aliquid de malo et bono, quod haec duo sint prorsus opposita, et quod bonum non possit implantari nisi quantum removetur malum; nec sciunt quod quamdiu quis in malo est, aversetur bonum quod in se bonum est; quare si bonum unius {1}transferretur in quendam qui in malo est, foret sicut agnus conjiceretur coram lupo, aut sicut margarita alligaretur naribus porci: ex quibus patet, quod transcriptio impossibilis sit.

 

 @1. Prima editio: transferreretur

 

(2)直訳

525. (ii.) Quod transcriptio boni unius in alterum impossibilis sit.― 525.(2) ある者の善の転移(移動)が他の者の中に、不可能であること。

Hujus evidentia quoque videri potest ex his in ordine:― これらの明白であることもまたこれらから見られることができる、順序の中で――

(1.) Quod unusquisque homo nascatur in malo. (1) それぞれに人間は悪の中に生まれていること。

(2.) Quod in bonum inducatur per regenerationem a Domino. (2) 主により再生を通して善の中に導き入れられること。

(3.) Quod fit per vitam secundum praecepta Ipsius. (3) その方の戒めにしたがって生活によって(通して)生じる(行なわれる)こと。

(4.) Quare bonum, cum ita implantatur, non potest transcribi. (4) それゆえ、善は、そのように植え付けられるとき、移されることができない。

Primum, Quod unusquisque homo nascatur in malo, in ecclesia notum est. 「第一」それぞれに人間は悪の中に生まれていることは、教会の中でよく知られている。

Dicitur quod hoc malum sit haereditario ex Adamo, sed est ex parentibus; この悪はアダムからの遺伝(相続)であることが言われている、しかし両親からである。

ab his ducit quisque indolem, quae est inclinatio; これら〔両親〕からそれぞれの者は性質を得る(引き出す)、それらは性向である。

quod ita sit, ratio et experientia convincunt; そのようであることは、理性と経験が確信させる。

similitudines enim parentum quoad facies, genios et mores in proximis liberis et in posteris ex his, exstant; というのは、両親の似ていることが、顔、性質また振る舞いに関して最も近い子どもの中に、またこれらから子孫の中に、現われるから。

inde a multis noscuntur familiae, et quoque judicatur de illorum animis; ここから、多くの者により一族が知られる、そしてまた彼らのアニムス(気質)について判断される。

quare mala, quae ipsi parentes contraxerunt, et per traducem in proles intulerunt, sunt in quibus homines nascuntur. それゆえ、悪は、それらを両親自身が引き寄せた、また接ぎ木によって子(子孫)の中に持ち込んだ、それらの中に人間は生まれている〔もの〕である。

Quod credatur, quod reatus Adami inscriptus sit omni generi humano, est quia pauci super aliquod malum reflectunt apud se, et inde sciunt id; 信じられていることは、アダムの罪が人類すべての者に刻み込まれていること、わずかな者が自分自身のもとに何らかの悪について熟考しないからである、またここからそのことを知らない。

quare opinantur, quod sit tam alte reconditum, ut non appareat nisi coram Deo. それゆえ、意見を持つ(信念を抱いている)、これほどに深く隠されていること、神の前でないなら現われないように。

[2] Secundum, Quod homo in bonum inducatur per regenerationem a Domino. [2] 「第二」主により再生を通して善の中に導き入れられること。

Quod sit regeneratio, et quod nisi quis regeneratur, non possit ingredi in caelum, patet clare a Domini verbis (apud Johan. iii. 3, 5); 再生があること、まただれも再生されないなら、天界の中に入ることができないことは、主のことばからはっきりと明らかである(ヨハネのもとに、3:3, 5)。

quod regeneratio sit purificatio a malis, et sic renovatio vitae, non potest in Christiano orbe latere, nam ratio etiam hoc videt dum agnoscit quod unusquisque nascatur in malo, et quod malum non possit ablui et abstergi sicut sordes per saponem et aquam, sed per resipiscentiam. 再生が悪から清めること(浄化)であること、またこのようにいのち(生活)の更新(一新)、キリスト教界の中で隠れていることができない、なぜなら、理性もまたこのことを見るから、それぞれの者が悪の中に生まれていることを認める時、また悪は洗い落とすことまたぬぐい取るができないこと、汚れのように、石鹸と水によって、しかし、後悔(悔い改め)によって。

[3] Tertium, Quod homo inducatur in bonum a Domino per vitam secundum praecepta Ipsius. [3] 「第三」人間は主により善の中に導き入れられること、その方の戒めにしたがって生活によって(通して)。

Praecepta regenerationis sunt quinque, quae videantur supra (n. 82), inter quae sunt haec: 再生の戒めは五つである、それらは上に見られる(82番)、それらの間にこれらがある――

quod fugienda sint mala, quia sunt diaboli et a diabolo, et quod facienda sint bona quia sunt Dei et a Deo, et quod adeundus sit Dominus, ut adducat illos ad faciendum illa; 悪は避けなければならないこと、悪魔のものであるからである、また悪魔から☆、また善は行なわなければならないこと、神のものであるからである、また神から☆、また主に近づかなければならない、彼らを引き寄せるために、それらの行なうことへ向けて。

☆「五つ」のうちの二つがこれらである。

consulat quisque se, et expendat, num aliunde homini bonum; それぞれの者が自分自身に思いめぐらす(接続)、また熟考する(接続)、人間に善が別の場所からかどうか。

et si non bonum, non ei est salus. また、もし、〔彼に〕善がないなら、彼に救いはない。

[4] Quartum, Quod bonum, cum ita implantatur, non possit transcribi. [4] 「第四」善は、そのように植え付けられるとき、移されることができないこと。

Per transcriptionem intelligitur transcriptio boni unius in alterum. 転移によって、ある者の善の転移が意味される、他の者の中へ。

Ex supradictis consequitur, quod homo per regenerationem innovetur prorsus quoad spiritum, et quod hoc fiat per vitam secundum praecepta Domini; 上述のことから~ということになる、人間は再生によって霊に関してまったく新たにされる、またこのことは主の戒めにしたがった生活によって生じる(行なわれる)こと。

quis non videt, quod haec innovatio non fieri possit nisi a tempore in tempus, vix aliter quam sicut successive radicatur et crescit arbor a semine, et perficitur? だれが見ないか? この更新は時間から時間の中(時から時へ、徐々に)でないなら、生じる(行なわれる)ことができないこと、ほとんど異ならない、連続的に根づく、また増大するようにでないなら、種から木が、また完成される。

Ili qui aliter percipiunt regenerationem, non sciunt aliquid de statu hominis, nec aliquid de malo et bono, quod haec duo sint prorsus opposita, et quod bonum non possit implantari nisi quantum removetur malum; 彼らは、その者は再生を異なって知覚する、人間の状態について何かのものを知らない、悪と善について何らかのものも〔知ら〕ない、これら二つのものはまったく対立している(正反対である)こと、また善は悪が遠ざけられるその程度に(かぎり)でないなら植え付けられることができないこと。

nec sciunt quod quamdiu quis in malo est, aversetur bonum quod in se bonum est; 知りもしない、だれかが悪の中にいるかぎり、善を退けることを、それは本質的に善である。

quare si bonum unius {1}transferretur in quendam qui in malo est, foret sicut agnus conjiceretur coram lupo, aut sicut margarita alligaretur naribus porci: それゆえ、もしある者の善がある者(だれか)の中に移されるなら、その者は悪の中にいる、オオカミの前に投げられた羊のようになるであろう、またブタの鼻に結び付けられた真珠のように。

ex quibus patet, quod transcriptio impossibilis sit. それらから明らかである、転移は不可能であること。

@1. Prima editio: transferreretur 注1 初版――transferreretur

 

(3)訳文

525.(2) ある者の善が他の者の中に転移するのは不可能であること。

 これらが明白であることもまた、これらの順序から見られることができる――

 (1) それぞれの人間は悪の中に生まれていること。

 (2) 主により再生を通して善の中に導き入れられること。

(3) その方の戒めにしたがった生活によって行なわれること。

 (4) それゆえ、善は、そのように植え付けられるとき、移されることができない。

 「第一」それぞれの人間が悪の中に生まれていることは、教会の中でよく知られている。

 この悪はアダムからの遺伝であることが言われている、しかし両親からである。両親からそれぞれの者は性質を得る、それらは性向である。そのようであることは、理性と経験により確信する。というのは、両親に似ていることが、顔、性質また振る舞いに関して最も近い子どもの中に、またこれらから子孫の中に、現われるから。ここから、多くの者により一族が知られ、そしてまた彼らのアニムス(気質)について判断されている。それゆえ、両親自身が引き寄せた悪は、接ぎ木によって子孫の中に持ち込まれ、それらの中に人間は生まれている。

 アダムの罪が人類すべての者に刻み込まれていると信じられていのは、わずかな者しか自分自身のもとに何らかの悪について熟考しない、またここからそのことを知らないからである。それゆえ、神の前でないなら現われないように、これほどに深く隠されているという信念を抱いている。

 [2] 「第二」主により再生を通して善の中に導き入れられること。

 再生があること、まただれも再生されないなら、天界の中に入ることができないことは、主のことばからはっきりと明らかである(ヨハネ3:3, 5)。再生が悪からに浄化またこのようにいのち(生活)の更新であることは、キリスト教界の中で隠れていることができない、なぜなら、理性もまた、それぞれの者が悪の中に生まれていることを認める時、また悪は、汚れのように、石鹸と水によって洗い落とすことまたぬぐい取るができないこと、しかし、後悔(悔い改め)によってであることを見るから。

 [3] 「第三」人間は主により、その方の戒めにしたがっが生活によって善の中に導き入れられること。

 再生の戒めは五つであり、それらは前に見られ(82番)、それらの間にこれらがある――悪は避けなければならないこと、悪魔のもの、また悪魔からであるからである☆、また善は行なわなければならないこと、神のもの、また神からであるからである☆、また主に近づかなければならない、それらの行なうことへ向けて彼らが引き寄せられるためである。それぞれの者が自分自身で、人間の善が別の場所からかどうか思いめぐらし、熟考すべきである。また、もし、〔人間に〕善がないなら、彼に救いはない。

 [4] 「第四」善は、そのように植え付けられるとき、移されることができないこと。

転移によって、ある者の善が他の者の中へ移されることが意味される、。

 前述のことから、人間は再生によって霊に関してまったく新たにされる、またこのことは主の戒めにしたがった生活によって行なわれるということになる。だれが見ないか? この更新は徐々にでないなら行なわれることができないこと、種から木が、連続的に根づき、増大し、完成されるようにとほとんど異ならないことを。

 再生を〔これと〕異なって知覚する者は、人間の状態について何かのものを、悪と善について何らかのものも知らない、これら二つのものはまったく対立していること、また善は悪が遠ざけられないかぎり植え付けられることができないこと〔である〕。だれかが悪の中にいるかぎり、本質的に善である善を退けることを知りもしない。それゆえ、もしある者の善が悪の中にいるだれかの中に移されるなら、オオカミの前に投げられた羊のように、またブタの鼻に結び付けられた真珠のようになるであろう。それらから、転移は不可能であることが明らかである。

 

☆「五つ」のうちの二つがこれらである。

原典講読『結婚愛』526

(1)原文

526. (iii.) Quod imputatio, si per illam intelligitur talis transcriptio, sit vox frivola.― Quod cuique post mortem imputetur malum in quo est, similiter bonum (supra n. 524) demonstratum est; inde constat quid intelligitur per imputationem; at si per imputationem intelligitur transcriptio boni in quempiam qui in malo est, est vox frivola, quia impossibilis, ut quoque mox supra (n. 525) demonstratum est. In mundo ab hominibus possunt merita quasi transcribi, hoc est, benefieri liberis propter parentes, aut amicis cujusdam clientis ex favore; verum bonum meriti non potest inscribi animabus illorum, sed solum extrinsecus adjungi: simile non dabile est cum hominibus quoad vitam illorum spiritualem; haec, ut supra ostensum est, implantanda est; quae si non implantatur per vitam secundum {1}praecepta Domini supra memorata, homo in malo, in quo natus est, manet: antequam hoc factum est, non potest aliquod bonum contingere illum; quod si tangit, illico repercutitur et resilit sicut globulus elasticus cadens in petram, aut absorbetur sicut adamas injectus paludi. [2] Homo non reformatus quoad spiritum est sicut panthera, aut sicut bubo, et comparari potest senti et urticae; at homo regeneratus est sicut ovis aut sicut columba, et comparari potest oleae et viti; cogitate, quaeso, si lubet, quomodo potest homo panthera converti in hominem ovem, aut bubo in columbam, aut sentis in oleam, aut urtica in vitem, per aliquam imputationem, si per illam intelligitur transcriptio; numne, ut conversio fiat, ferinum pantherae et bubonis, aut noxium sentis et urticae, prius auferendum est, et sic vere humanum et innocuum implantandum est? Quomodo hoc fit, etiam docet Dominus apud Johannem (cap. xv. 1-7)..

 

@1. praecepta pro “percepta”

 

(2)直訳

526. (iii.) Quod imputatio, si per illam intelligitur talis transcriptio, sit vox frivola.― 526.(3) 転嫁は、もしそれによってこのような転移(移動)が意味されるなら、くだらない声であること。

Quod cuique post mortem imputetur malum in quo est, similiter bonum (supra n. 524) demonstratum est; それぞれの者が、死後、悪を転嫁される、その〔悪の〕中にいる、同様に善を(上の524番)〔転嫁される〕ことが示された。

inde constat quid intelligitur per imputationem; ここから明らかである、何が転嫁によって意味されるか。

at si per imputationem intelligitur transcriptio boni in quempiam qui in malo est, est vox frivola, quia impossibilis, ut quoque mox supra (n. 525) demonstratum est. しかし、転嫁によって善の転移が意味されるなら、いったいだれの中に、その者は悪の中にいる、くだらない声である、不可能であるから、直ぐ上にもまた示されているように(525番)。

In mundo ab hominibus possunt merita quasi transcribi, hoc est, benefieri liberis propter parentes, aut amicis cujusdam clientis ex favore; 世の中で人間により、功績はあたかも移されることができるかのようである、すなわち、子どもに両親ゆえに(のために)利益(恩恵)が与えられること、またはある隷属者(被保護者)の友人に好意から。

verum bonum meriti non potest inscribi animabus illorum, sed solum extrinsecus adjungi: けれども、功績の善は彼らの霊魂に刻み込まれることができない、しかし、単に外側に(外面的なものに)、結び付けられる。

simile non dabile est cum hominibus quoad vitam illorum spiritualem; 同様なものが人間にありえない、彼らの霊的ないのち(生活)に関して。

haec, ut supra ostensum est, implantanda est; これは、上に示されたように、植え付けられなくてはならない。

quae si non implantatur per vitam secundum {1}praecepta Domini supra memorata, homo in malo, in quo natus est, manet: それはもし上に言及された主の戒めにしたがった生活によって植え付けられないなら、人間は悪の中に、その中に生まれた、とどまる。

antequam hoc factum est, non potest aliquod bonum contingere illum; このことが行なわれる前に、何らかの善が彼を触れる(影響を与える、生じる)ことができない。

quod si tangit, illico repercutitur et resilit sicut globulus elasticus cadens in petram, aut absorbetur sicut adamas injectus paludi. それがもし触れる(影響を与える、生じる)なら、直ちにはずむ(はね返される)、またはね返される、岩の中に落ちた弾力のある球のように、または、のみ込まれる、沼沢地に投げもまれたダイヤモンドのように。

[2] Homo non reformatus quoad spiritum est sicut panthera, aut sicut bubo, et comparari potest senti et urticae; [2] 改心されない人間は、霊に関して、ヒョウのようである、またはフクロウのよう、またイバラやイラクサにたとえられることができる。

at homo regeneratus est sicut ovis aut sicut columba, et comparari potest oleae et viti; しかし、再生された人間は羊のよう、またはハトのようである、またオリーブの木とブドウの木にたとえられることができる。

cogitate, quaeso, si lubet, quomodo potest homo panthera converti in hominem ovem, aut bubo in columbam, aut sentis in oleam, aut urtica in vitem, per aliquam imputationem, si per illam intelligitur transcriptio; 考えよ、どうぞ(願わくば)、どうぞ(よろしかったら)直訳もし喜びであるなら)、どのように人間豹が人間羊に変えられることができるか、またはフクロウがハトに、またはイバラがオリーブの木に、またはイラクサがブドウの木に、何らかの転嫁によって、もしそれ〔転嫁〕によって転移が意味されるなら。

numne, ut conversio fiat, ferinum pantherae et bubonis, aut noxium sentis et urticae, prius auferendum est, et sic vere humanum et innocuum implantandum est? ではないのか、変化(方向転換)が生じる(行なわれる)ために、ヒョウやフクロウの野獣(獰猛)性が、またはイバラやイラクサの有害性が、前もって取り除かれなければならない、またこのように真の人間(性)と無害なものが植え付けられなければならない?

Quomodo hoc fit, etiam docet Dominus apud Johannem (cap. xv. 1-7). どのようにこのことが生じるか(行なわれるか)、主もまた「ヨハネ」のもとに教えている(第15章1-7)。

@1. praecepta pro “percepta” 注1 「percepta」の代わりにpraecepta

 

(3)訳文

526.(3) 転嫁は、もしそれによってこのような転移が意味されるなら、くだらない言葉であること。

 それぞれの者が、死後、その悪の中にいる悪を、同様に善を転嫁されることが示された(前の524番)。ここから、何が転嫁によって意味されるか明らかである。しかし、転嫁によって悪の中にいる者の中への善の転移が意味されるなら、くだらない言葉である、直ぐ上にもまた示されているように(525番)、不可能であるからである。

 世の中で人間により、功績はあたかも移されることができるかのようである、すなわち、子どもに両親ゆえに、またはある隷属者(被保護者)の友人に好意から恩恵が与えられることである。けれども、功績の善は彼らの霊魂に刻み込まれることができない、しかし、外面的なものに結び付けられるだけである。同様なものが人間に、彼らの霊的ないのち(生活)に関してありえない。これは、前に示されたように、植え付けられなくてはならない。それはもし前に言及された主の戒めにしたがった生活によって植え付けられないなら、人間は、その生まれた悪の中に、とどまる――このことが行なわれる前に、人間は何らかの善を生むことができない。それがもし生まれるなら、岩の上に落ちた弾力のある球のように、直ちにはずみ、はね返される、または、沼沢地に投げ込まれたダイヤモンドのようにのみ込まれる。

 [2] 改心されない人間は、霊に関して、ヒョウまたはフクロウのようである、またイバラやイラクサにたとえられることができる。しかし、再生された人間は羊またはハトのようである、またオリーブの木とブドウの木にたとえられることができる。どうぞよろしかったら、どのように人間豹が人間羊にまたはフクロウがハトに、またはイバラがオリーブの木に、またはイラクサがブドウの木に、何らかの転嫁によって変えられることができるか考えよ、もしその転嫁によって転移が意味されるなら。変化が生じるために、ヒョウやフクロウの野獣性が、またはイバラやイラクサの有害性が、前もって取り除かれなければなず、またこのように真の人間性と無害なものが植え付けられなければならないのではないのか?

 このことがどのように生じるか、主もまた「ヨハネ」のもとに教えられている(15:1-7)。