原典講読『結婚愛』500(訳文)

(3)訳文

 500.これらに私は次のメモラビリアを加える――

 

 かつて、霊界の中で私は大きな騒動を聞いた。数千の者が集まっていて、その者は叫んだ、「罰せられるべきだ、罰せられるべきだ」。

 私は(近くに)近づいて、質問した、「これは何か?」

 その大きな群れらの一人が私に言った、三人の祭司に対して怒りの憤りの中にいること、その者は歩きまわり、どこでも姦淫に反して姦淫者に神を認めることはないこと、また彼らに天界は閉ざされていること、そして地獄が開かれている、また地獄の中に不潔な悪魔がいて、遠方からはそこに、糞の中を転がりまわるブタのように見られ、天界の天使たちは彼らを忌み嫌う、と言って、説教している。

 私は質問した、「それらの祭司たちはどこに? このためにこれらの叫びはなぜ?」

 彼らは答えた、それらの三人の祭司たちは従者により守られて彼らの真ん中にいること、また集まっている者は、姦淫が罪でないことを信じている者たちからであり、またその者たちは、姦淫者に、自分の妻にしがみつく者と等しく神を認めることがあることを言っている――彼らのすべての者はキリスト教世界からである。また天使たちにより、姦淫が罪であることを信じる者がどれだけそこにいたか視察された、また千人から百人が見つけられなかった。

 [2] また、私に、彼らの九百人が姦淫について次のように話していることを言った。

 「だれが、姦淫の快さが結婚の快さよりも卓越していることを知らないか。姦淫者は永続する熱の中にいる、またここから一人の女とだけ生活する者よりも活発さ、勤勉さ、また活動的な生活の中にいる。また、逆に、配偶者との愛は冷たくなる、また時々は、彼女と話し、また、交わす一つの言葉(声)も最後に、ほとんど生きていないようにもこんな程度に〔冷たくなる〕。娼婦となら異なる。〔性的〕能力の欠如から起こる妻との生活の壊死は、淫行によって回復され、活気づけられるないか? 回復し、活気づけるものは、壊死するものよりも多くのものではないのか? 結婚は許された淫行でないなら何か? だれが違いを知っているのか? 愛は強制されることができるのか? またそれでも、妻との愛は約束法律によって強制されている。配偶者との愛は性愛ではないのか? またこれ〔性愛〕は、鳥や獣のもとにもまたあるように、これほどに普遍的である。結婚愛は性愛でないなら何か? 性愛はすべての女と自由である。市民の法律が姦淫に反していることは、法律の制定者がそれが公共に善であることを信じているからである、またそれでも制定者また裁判官自身が、時々、姦通する、また自分たちの間で、『罪のない者が、最初に石を投げよ』と言っている。単純な者と宗教的な者だけが姦淫が罪であることを信じていて、そのように知性的な者は、私たちのようにそれを自然の光から熟慮している者は信じていない。

 [3] 結婚からのように、姦淫からも等しく子が生まれないか? 庶子(私生児)適法の者のように、等しく職務や奉仕に向けて適し、有用でないのか? そして、そうでなければ、子がいない者に、なおまた家族が備えられる。このことは害でなく、利益ではないのか? もし多くの競争相手に赦しても何が女傷つけるのか? また、何が男傷つけるのか? 男に恥辱であることは、想像力(幻想)らのくだらない見解である。姦淫が教会の法と規定に反していることは、聖職者の教団からの支配力のためのものである。しかし、神学と霊的なものが単なる形体的なものと肉欲のものと何が〔あるのか〕? 長老や修道士にそのような者が存在しないか? 彼らはこのために神を認めることと礼拝することができないのか? そこで、なぜ、それらの三人は、姦淫者に神を認めることがない、と説教するのか? このような冒涜を、私たちは許さない。それゆえ、裁かれるべきだ、また罰せられるべきだ」。

[4] この後、私は、彼らが裁判官たちを呼び、彼らに罰を課するよう裁判官に懇願するのを見た。

 しかし、裁判官たちは言った、「このことは私たちの職務ではない、なぜなら、神を認めることについて、また罪について、またこのように救いと断罪について扱われているからである。これらについては天界から裁かれる――しかし、私たちは、それら三人の祭司たちが〝真理〟を説教したかどうか、どのようにあなたがたが知ることができるか、助言を与える。私たち裁判官が知っている三つの場所があり、そこではこのようなことが特別な方法で調べられ、示される。

 一つの場所は、そこではすべての者に天界の中へ道がはっきりと見える、しかし、天界の中へやって来る時、自分たち自身が、神を認めることに関してどんなものであるか知覚する。第二の場所は、そこでもまた天界の中へ道がはっきりと見える、しかし、天界を自分自身の中に持つ者でないなら、その道へだれも入ることができない。また第三の場所は、そこに地獄への道があり、その道へ自発的に入る、地獄を愛する者が快さから〔入る〕からである。私たち裁判官はその場所へ天界と地獄について審判を私たちから求めるすべての者を送り出す」。

 [5] これらを聞いて、集まった者たちは言った、「私たちはその場所へ行こう」。

 また、そこのすべての者に天界の中へ道がはっきりと見える第一〔の場所〕へ行ったとき、突然に暗黒が生じた。それゆえ、彼らからのある者は、たいまつをともし、前へかざした。

 彼らとともに裁判官は言った、「このことは最初の場所に行くすべての者に生じる、しかし、近づくほど、たいまつの火はさらに弱くなり、また天界の光が流入する場所で消える、それは、そこにいることのしるしである。その理由は、最初に彼らに天界が閉ざされ、またその後、開かれるからである」。

 またその場所の中にやって来た、また、たいまつはそれ自体から消えて、彼らは天界の中へ斜めに伸びる道を見た。それへ祭司たちに対して怒りの憤りの中にいた者が入った。最初の者の間に意図から姦淫者であった者が、彼らの後に、確信から姦淫者であった者がいた。また、上っている中で、最初の者たちは叫んだ、「続け」。また続く者たちは叫んだ、「急げ」、また追い立てた。

 [6] しばらくして、すべての者が天界の社会の中にいたとき、彼らの間と天使たちの間に裂け目が現われ、またその裂け目の上を目の中に流入する天界の光が彼らの心の内的なものを開き、そこから内的に考えたように話すことが強いられた。またその時、天使たちにより、神が存在することを認めたかどうか質問された。

意志の意図から姦淫者であった最初の者たちが、「神とは何か?」と答えた。また互いに熟視し、「あなたがたのだれがその方を見たのか?」と言った。

理解力の確信から姦淫者であった第二の者たちが、「すべてのものは自然のものではないのか? その〔自然界〕上に太陽でないなら何が〔あるのか〕?」と言った。

 またその時、天使たちは彼らに言った、「私たち〔の場所〕から、今や、あなたがたに神を認めることがないことを自分自身で知覚して、降れ。あなたがたが降る時、あなたがたの心の内的なものが閉ざされ、その外的なものが開かれる。その時、あなたがたは内的なものに反して話すこと、また神が存在する、と言うことができる。人間は実際に姦淫者になるとすぐに、彼に天界が閉ざされること、それが閉ざされると、神は認められないことを信じよ。理由を聞け。姦淫から地獄のすべての不潔なものがあり、またこれが天界の中で街路の腐った汚物のように悪臭を放つ」。

 これらを聞いて、互いに向きを変え、三つの道を通って降った。また、下方に着いたとき、最初の者と第二の者は自分たちの間で会話して言った、「そこでは祭司たちが勝った。しかし、私たちは、私たちが彼らと等しく神について話すことができることを知っている。また、私たちが存在することを話すとき、私たちはその方を認めないのか? 心の内的なものと外的なものは、それらについて天使たちが語ったが、作り事である。しかし、裁判官により指定された第二の場所へ出発しよう、そこでは天界への道が自分自身の中に天界を持っている者に明らかであり、そのようにその者は天界の中に行くことになる」。

[7] また、彼らが近づいたとき、その天界から声が発した、「門を閉ざせ、姦淫者たちが近くにいる」。急に門が閉ざされ、見張りが手にした棒とともに彼らを追い払った。また彼らに対して騒がれた三人の祭司たちを、見張りが連れ出し、天界の中へ導き入れた。また、門が祭司たちのために開かれたとき直ちに、天界から結婚の快さが反逆者を吹き付け、それは貞潔なものと純粋なものであろ、彼らをほとんど気絶させた。

 それゆえ、窒息からの気絶を恐れて、第三の場所へ急いだ、それについて裁判官たちは、ここから地獄へ向かう道があるとを言った。またその時、ここから姦淫の快さが吐き出て、そのことから、意図から、また確信から姦淫者であった者は、あたかも踊るかのように降り、また自分自身をブタのようにそこの不潔なもので浸し、このように彼らは生きいきとなった。

原典講読『結婚愛』501

(1)原文

[XXII.]

DE LIBIDINE DEFLORATIONIS

 

501. Libidines, de quibus in quatuor capitibus posthac sequentibus agitur, non modo sunt libidines adulterii, sed illis graviores, quoniam non dantur nisi ex adulteriis, nam captantur postquam adulteria fastidiuntur; sicut libido deflorationis, de qua primum agitur, quae non prius exordiri potest apud aliquem; pariter libido varietatum, libido violationis, et libido seducendi innocentias, de quibus sequitur. Dicuntur libidines, quia quanta et qualis est libido ad illa, tanta et talis est appropriatio illorum. Quod in specie libidinem deflorationis concernit, ut convictio evidens fiat quod sit flagitium, manifestabitur ex his in ordine:

 

(i.) Ex statu virginis seu feminae illibatae ante conjugium, et post conjugium.

(ii.) Quod virginitas sit corona castitatis, et tessera amoris conjugialis.

(iii.) Quod defloratio absque fine conjugii sit flagitium praedonis.

(iv.) Quod sors illorum, qui apud se confirmaverunt libidinem deflorationis non esse malum peccati, post mortem gravis sit.

 

Sequitur horum explicatio.

 

(2)直訳

[XXII.] DE LIBIDINE DEFLORATIONIS (22)処女凌辱(花を散らすこと)の情欲について

501. Libidines, de quibus in quatuor capitibus posthac sequentibus agitur, non modo sunt libidines adulterii, sed illis graviores, quoniam non dantur nisi ex adulteriis, nam captantur postquam adulteria fastidiuntur; 501.情欲は、それらについてこの後に続く四つの章の中で扱われる、姦淫の情欲であるだけでなく、それらでさらにきびしい〔ものである〕、姦淫からでないなら存在しないので、なぜなら、姦淫に嫌気がする(いやになる・うんざりする☆)

fastidoの意味はここでは「飽きる」がよいかと思いす、直前に「姦淫から存在する」とあるので、姦淫そのものが嫌になるのではなく、通常の姦淫では「ものたらない」で「飽きる」からでしょう。直訳は「嫌気がされる」。

sicut libido deflorationis, de qua primum agitur, quae non prius exordiri potest apud aliquem; 処女凌辱(らすこと)情欲のように、それについて最初に扱われる、それはある者のもとで以前に起こることができない。

pariter libido varietatum, libido violationis, et libido seducendi innocentias, de quibus sequitur. 多様性()情欲、強姦()情欲、また無垢(無邪気)わす情欲と等しく(同じく)、それらについて続けられる。

Dicuntur libidines, quia quanta et qualis est libido ad illa, tanta et talis est appropriatio illorum. 情欲と呼ばれる、量と質がそれらへの情欲にあり、それほどのまたそのようなそれらの自分のものとすることがあるからである。

Quod in specie libidinem deflorationis concernit, ut convictio evidens fiat quod sit flagitium, manifestabitur ex his in ordine:― 特に、凌辱(らすこと)情欲については、明らかな確信が生じるために、邪悪な(破廉恥な)行為であること、これらから示される、順序の中で――

(i.) Ex statu virginis seu feminae illibatae ante conjugium, et post conjugium. (1) 結婚前の処女または損なわれていない女の状態について☆、また結婚後。

ここはラテン語版(1982)も初版もExとなっていますが、他の箇所にあるようにDeがよいでしょう。

(ii.) Quod virginitas sit corona castitatis, et tessera amoris conjugialis. (2) 処女性は貞潔の冠であること、また結婚愛のしるし。

(iii.) Quod defloratio absque fine conjugii sit flagitium praedonis. (3) 結婚の目的なしの処女凌辱は略奪者の犯罪(破廉恥な行為)あること。

(iv.) Quod sors illorum, qui apud se confirmaverunt libidinem deflorationis non esse malum peccati, post mortem gravis sit. (4) 彼らの運命は、その者は自分自身のもとに処女凌辱の情欲が罪の悪でないことを確信した、死後、きびしいこと。

Sequitur horum explicatio. これらの説明が続けられる。

 

(3)訳文

 (22)処女凌辱へ情欲について

 

501.この後に続く四つの章の中で扱われる情欲は、姦淫からでないなら存在しないので姦淫の情欲であるだけでなく、さらにきびしいものである、なぜなら、姦淫に〔ものたらないで〕飽きているからである。最初に扱われる処女凌辱情欲のように、それはある者のもとでそれ以前に起こることができない。同じく、多様性情欲、強姦情欲、また無垢な者わす情欲について続けられる。

 情欲と呼ばれるのは、それらへの情欲に量と質があり、それほどのまたそのようなそれらを自分のものとすることがあるからである。

 特に、凌辱情欲については、破廉恥な行為であるという明らかな確信が生じるために、これらの順序で示される――

 (1) 結婚前のまた結婚後の処女または損なわれていない女の状態について。

 (2) 処女性は貞潔の冠であり、結婚愛のしるしであること。

 (3) 結婚の目的なしの処女凌辱は略奪者の破廉恥な行為であること。

 (4) 処女凌辱の情欲が罪の悪でないことを自分自身のもとに確信した者の運命は、死後、きびしいこと。

 

 これらの説明が続けられる。