[2] Quod alterum attinet, quod concubinatus simultaneus seu conjunctus cum uxore deprivet virum omni facultate et inclinatione ad vitam conjugialem, quae Christianis ex nativitate inest, videri potest ex his: [2] 「もう一つもの」について、妻と同時に存在するまたは結合されためかけ囲いが、結婚(へ向かう性質)☆の生活へのすべての能力と性向の剥奪であること、それはキリスト教に出生から内在する、これらから見られることができる。
☆ conjugialis「結婚の」は実詞と見なすとき「結婚のもの(結婚的なもの)」と訳すことにします。
quod quantum amor ad conjugem transcribitur in amorem ad concubinam, tantum decerpatur, exantletur, et exinaniatur ille pro conjuge, ut nunc supra ostensum est; どれだけ配偶者に向かう愛がめかけへ向かう愛の中に移される〔かによって〕、それだけ配偶者に対するそれ〔愛〕は、今、上に示されたように、取り去られる、消耗される、空(から)にされる。
quod hoc fiat per occlusionem interiorum mentis naturalis ejus, et reclusionem inferiorum ejus, constare potest ex sede inclinationis ad amandum unam e sexu apud Christianos, quod sit in intimis ejus, et quod haec sedes intercludi possit, sed non exstirpari: このことは彼の自然的な心の内的なものの閉ざすことによって生じることは、また彼の低いものの表出(露顕)、キリスト教徒のもとの〔異〕性からの一人(女)を愛することへの性向の座から明らかにすることができる、それ〔座〕は彼の最内部の中にある、またこの座はふさがれることができる、しかし、根絶されることが〔でき〕ないこと。
quod inclinatio ad amandum unam e sexu, et quoque facultas ad recipiendum illum amorem, Christianis a nativitate implantata sit, est causa, quia ille amor est a solo Domino, et factus est religionis, et in Christianismo Divinum Domini agnoscitur et colitur, ac religio est ex Verbo Ipsius; 〔異〕性からの一人(女)を愛することへの性向は、そしてまたその愛を受け入れることへの能力は、キリスト教徒に出生から植え付けられている、理由がある、その愛は主おひとりからであるからである、また宗教のものとされている、またキリスト教国(キリスト教界)の中で主の神性が認められ、崇拝されている、そしてその方のみことばから宗教がある。
inde est insitio ejus, et quoque transplantatio ejus a generatione in generationem. ここからその接ぎ木することがある、そしてまたその移植も、世代から世代(の中)へ。
Dictum est, quod conjugiale illud Christianum per scortationem polygamicam pereat; 言われた、キリスト教徒のその結婚のものは一夫多妻の淫行によって滅びること。
sed intelligitur, quod apud polygamum Christianum occludatur et intercipiatur, sed usque resuscitabile est in ejus posteris, sicut fit cum similitudine avi et atavi redeunte in nepote et pronepote: しかし、意味される、キリスト教徒の一夫多妻のもとに閉ざされる、また中途妨害される(中断される)こと、しかし、それでもその子孫の中に生き返される、祖父や曾祖父の似ているもの(肖像)が孫やひ孫の中に生じるように。
inde est quod conjugiale illud dicatur cimelium vitae Christianae; ここからである、その結婚のものはキリスト教の生活の宝(宝庫)と言われること。
et supra (n. 457. 458), clenodium vitae humanae, ac reconditorium religionis Christianae. また、上に(457, 458番)、人間の生活の貴重品(宝石)、そしてキリスト教の宗教の貯蔵所。
[3] Quod conjugiale illud per polygamicam scortationem apud Christianum, qui in illa est, perdatur, patet manifeste ex eo, quod non possit amare concubinam et uxorem aeque sicut polygamus Mahumedanus; [3] その結婚のものはキリスト教徒のもとの一夫多妻の淫行によって、その者はその中にいる、破壊されることは、そのことからはっきりと明らかである、イスラム教徒の一夫多妻のようにめかけと妻を等しく愛することはできないこと。
sed quod quantum amat concubam, seu calescit ad illam, tantum non amet uxorem, seu tantum frigescat ad illam; しかし、どれだけめかけを愛するか〔によって〕、または彼女に(向けて)熱くなる、それだけ妻を愛さない、またはそれだけ彼女に(向けて)冷える(冷たくなる)。
et quod detestabilius est, tantum etiam Dominum modo pro naturali homine, proque filio Mariae, et non simul pro Filio Dei, corde agnoscat, et quoque tantum religionem floccipendat. また嫌悪すべきものであること、それだけ主もまた単に自然的な人間として、マリアの子としてもまた、また同時に神の子としてでなく、心で認める、そしてまた、それだけ宗教をつまらないものと見なす(価値を置かない)。
At probe noscendum est, quod hoc fiat illis, qui concubinam addunt uxori, et cum utraque actualiter se conjungunt; しかし、よく(正しく)知られなければならない、彼らに生じること、その者はめかけを妻に引き寄せる、また両方の者を実際に自分自身に結合する。
et prorsus non illis, qui ex causis legitimis, justis, et vere sonticis se separant, et quoad amorem actualem se sejungunt ab uxore, ac usurariam feminam collocant. また、まったく彼らにない、その者は、適法に、正当に、また真に重大な理由から自分自身を分離する、また実際の愛に関して自分自身を妻から切り離す、そして使用のための女を置く。
De hoc concubinatus genere nunc sequitur. この種類のめかけ囲いについて、今から、続けられる。
(3)訳文
466.(4) 淫行であり、それによってキリスト教生活の宝である結婚へ向かう性質は失われる。
単純な姦淫と呼ばれる普通の淫行よりも、結婚愛にさらに対立している淫行であり、キリスト教に出生から内在し、賢明な者の理性の前に力強い論証で確信させられることができる結婚の生活へのすべての能力と性向の剥奪である。
単純な姦淫と呼ばれる普通の淫行よりも結婚愛にさらに対立している淫行である妻との同時のまたは結合されためかけ囲いである「最初のもの」については、これらから見られることができる。普通の淫行、すなわち、単純な姦淫に結婚愛に類似している愛は内在しない、なぜなら、肉の単なる興奮であり、直ちにさめ、また時々、彼女への愛の痕跡を自分自身の後ろに残さないからである。それゆえ、この沸騰する好色は、もし意図からまたは確信から生じないなら、またもし姦通者がそれから後悔するなら、何らかの少量を結婚愛から取り去らない。一夫多妻の淫行は異なっている。これに、結婚愛に類似している愛が内在する、というのは、さめず、散らされず、沸騰の後、前のもののように、無の中に立ち去ず、しかし、残り、新しくなり、それ自体を確立させ、またそれだけ妻への愛から取り去り、そしてその代わりに、妻に対して冷淡をひき起こすからである。というのは、その時、淫婦のめかけを、もし好むところなら、自然的な人に生来のものである引き下がることができる意志の自由から、愛らしいものとして見る、またこれはここから快いものであるので、その愛を支持するからである。そして、なおまた、めかけは、妻とよりも誘惑するものと、さらに近い結合である。しかし、逆に同棲の義務から、生涯の契約によってそれが負わされているとき、妻を愛らしいものを見ない。結婚に対する愛が等しい程度で冷たくなり、彼女自身が価値がなくなり、そこへ一人の淫婦に対する愛が熱くなり、またこれが価値あることが明らかである。
[2] 「もう一つもの」について、妻と同時に存在するまたは結合されためかけ囲いが、キリスト教徒に出生から内在する結婚の生活へのすべての能力と性向の剥奪であることは、これらから見られることができる――配偶者に向かう愛がめかけへ向かう愛の中に移されば、移されるほど、それだけ配偶者に対するそれ〔愛〕は、今、前に示されたように、取り去られ、消耗され、空(から)にされる。このことは彼の自然的な心の内的なものの閉ざすこと、また彼の低いものの露顕によって生じることは、キリスト教徒のもとの〔異〕性からの一人を愛することへの性向の座から明らかにすることができる、その座は彼の最内部の中にあり、ふさがれることができる、しかし、根絶されることができない――〔異〕性からの一人を愛することへの性向は、そしてまたその愛を受け入れることへの能力は、キリスト教徒に出生から植え付けられており、その理由は、その愛は主おひとりからであり、宗教のものとされていて、キリスト教界の中で主の神性が認められ、崇拝され、そしてその方のみことばから宗教があるからである。ここから世代から世代へその接ぎ木すること、そしてまたその移植がある。
キリスト教徒のその結婚のものは一夫多妻の淫行によって滅びることが言われた。しかし、キリスト教徒の一夫多妻のもとに閉ざされ、中途妨害されること、しかし、それでも、祖父や曾祖父の似ているものが孫やひ孫の中に生じるように、その子孫の中に生き返されることが意味される。ここから、その結婚のものがキリスト教の生活の宝(宝庫)、また、前に(457, 458番)、人間の生活の宝石、そしてキリスト教の宗教の貯蔵所と言われる。
[3] その結婚のものは、キリスト教徒のもとの、その者はその中にいる一夫多妻の淫行によって、破壊されることは、イスラム教徒の一夫多妻のようにめかけと妻を等しく愛することができないことからはっきりと明らかである。しかし、めかけを愛するか、または彼女に熱くなればなるほど、それだけ妻を愛さない、またはそれだけ彼女に冷たくなる。また嫌悪すべきものであることは、主もまた単に自然的な人間として、マリアの子としてもまた、また同時に神の子としてでなく、心で認めれば、みとめるほど、そしてまた、それだけ宗教をつまらないものと見なす。
しかし、よく知らなければならない、それは、めかけを妻に引き寄せ、両方の者を実際に自分自身に結合する者に生じること、また、適法に、正当に、また真に重大な理由から自分自身を分離し、実際の愛に関して自分自身を妻から切り離し、そして使用のための女を置く者にまったくないことである。
この種類のめかけ囲いについて、今から、続けられる。