[5] Dein quaesivi, "Quomodo potuisti ita loqui, cum es ipse defraudator, ipse adulter, et ipse diabolus?" [5] その後、私は質問した、「どのように、そのように話すことができたのか、あなたがだます者そのもの、また姦淫者そのもの、また悪魔そのものであるとき?」
Respondit, "Sum alius cum in externis seu in corpore sum, et alius cum in internis seu in spiritu: 彼は答えた、「私は他の者である、私が外なるものの中に、すなわち、身体の中にいるとき、また他の者、内なるものの中に、すなわち、霊の中に――
in corpore sum angelus, sed in spiritu diabolus; 身体の中で私は天使である、しかし、霊の中で悪魔。
nam in corpore sum in intellectu, in spiritu autem sum in voluntate, ac intellectus me fert sursum, at voluntas me fert deorsum; なぜなら、身体の中で私は理解力の中にいる、けれども、霊の中で私は意志の中にいる、そして理解力が私を上方へもたらす(向ける)、しかし、意志が私を下方へもたらす(向ける)からである。
et cum in intellectu sum, cingulum album circumvelat caput meum; また、私が理解力の中にいるとき、私の頭を白い輪がまわりをおおう。
at dum intellectus se prorsus emancipat voluntati, et fit ejus, quod est sors nostra ultima, tunc nigrescit cingulum, ac perit; しかし、理解力がそれ自体をまったく意志に引き渡す時、またその☆(状態?)になる、それは私たちの最後の運命(種類)である、その時、輪は黒くなる、そして失われる。
☆ このejusの後には何か省略されていると思えます、状態やその後の「運命」でしょうか、でも、直訳として「それになる」としておいてもよいでしょう。
quo facto non possumus amplius in lucem hanc ascendere." それで起こって、私はもはやこの光の中に上ることができない」。
Postea de duplici suo statu, externo et interno, loquutus est plus rationaliter quam aliquis alter: その後、その二様の状態について、外なるものと内なるもの、さらに理性的に話された、別のある者よりも。
sed subito, cum vidit Angelos apud me, inflammatus est facie et voce, et factus est niger, etiam quoad cingulum circum caput; しかし、急に、彼が私のもとの天使を見たとき、顔と声で興奮した、また黒くなった、さらにまた頭のまわりの輪に関して。
et per aperturam, per quam surrexit, delapsus est in infernum. また開口部を通して、それを通して上がった(現われた)、地獄の中へ墜落した。
Adstantes ex illis visis fecerunt hoc conclusum, quod homo talis sit, qualis est ejus amor, et non qualis est ejus intellectus; 傍観者たちは見られたそれらのものから、この結論をつくった、人間は彼の愛がどのようなものであるか〔によって〕そのようなものであること、また彼の理解力がどのようなものか〔によってでは〕ない。
quoniam amor intellectum facile aufert in suas partes et emancipat. 愛は理解力を容易に自分の部分の中に連れ去るから、また従属させるので。
[6] Tunc quaesivi angelos, "Unde talis rationalitas est diabolis?" [6] その時、私は天使(たち)に質問した、「どこからか? 悪魔に推理力がある」
Et dicebant, "Est ex gloria amoris sui, nam amor sui circumcingitur gloria, et gloria elevat intellectum usque in lucem caeli; 彼らは言った、「自己愛の栄光(称賛)からである、なぜなら、自己愛は栄光(称賛)取り巻かれている、また栄光(称賛)が理解力を天界の光の中にまでも上げるからである。
nam intellectus apud unumquemvis hominem elevabilis est secundum cognitiones, sed non voluntas nisi per vitam secundum ecclesiae et rationis vera; なぜなら、それぞれの人間のもとの理解力は思考にしたがって上げられることのできるものであるから、しかし、意志は〔上げられ〕ない、教会と理性の真理にしたがった生活によってでないなら。
inde est, quod ipsi athei, qui in gloria famae sunt ex amore sui, et inde fastu propriae intelligentiae, gaudeant rationalitate sublimiore, quam multi alii; ここからである、無神論者その者が、その者は自己愛からの名声の栄光(称賛)の中にいる、またここからプロプリウム(自己)の知性の高慢の中に、高尚な(高遠な)推理力を授けられている(恵まれている)、他の多くの者よりも。
sed tunc cum in cogitatione intellectus sunt, non autem cum in affectione voluntatis; しかし、その時、理解力の思考の中にいるとき、けれども、意志の情愛の中に〔い」ないとき、〔である〕。
et affectio voluntatis possidet internum hominis, at cogitatio intellectus externum ejus." また意志の情愛は内なる人を所有する(思いのままにする)、しかし、理解力の思考は外なる〔人を所有する〕。
Porro dixit angelus causam, cur homo conflatus est ex tribus supradictis amoribus, videlicet ex amore usus, ex amore mundi, et ex amore sui, quae est, ut homo cogitet ex Deo, tametsi sicut ex se; さらに、天使は理由を言った、なぜ、人間は三つの愛からつくり上げられているか、すなわち、役立ちの愛から、世俗愛から、また自己愛から、それは~である、人間が神から考えるため〔である〕、それでも自分自身からのように。
dixit quod suprema in homine versa sint sursum ad Deum, media extrorsum ad mundum, ac infima deorsum ad se; 言った、人間の中の最高のものは神へと上へ向かっている、中間のものは世へと外側へ向かって〔いる〕、そして最も低いものは自分自身へ下方へ。
et quia haec versa sunt deorsum, cogitat homo sicut a se, cum tamen a Deo. またこれが下方へ向きを変えられているので、人間は自分自身からのように考える、そのときそれでも神から。
(3)訳文
269.その後、これらの低いところから、そこに私たちが最初にいた南の中に上った、そして、天使たちは、そこで、空想のものまたは幻想のものでない欲望について話しに出す価値のある多くのものを語った、その中にすべての人間は出生の時からいる。またそれでもなお、自分自身には、その時、最高度に賢明な者に見られる。また、〔その〕愚かさから、また交互に、彼のもとに、外なるものの中にある理性の中に戻される。その状態の中で、自分の狂気を見、認め、告白する、しかし、それでも、自分の理性的な状態から、自分の狂気を激しく欲し、そしてまた、強制と不愉快から自由と快さの中にのように自分自身をこの中に入れる。そのように、欲望は内的に彼らを喜ばせ、知性は喜ばせない。
[2] 三つの普遍的な愛がある、創造によりそれらからすべての人間はつくり上げられている。隣人愛は、それは役立ちを行なう愛でもあり、世への愛(世俗愛)は、それは富を所有する愛でもあり、そして、自己愛は、この愛は他の者の上に支配する愛である。隣人愛は、すなわち、役立ちを行なう愛は、霊的な愛である。世への愛(世俗愛)は、すなわち、富を所有する愛は、物質的な愛である。そして、自己愛は、すなわち。他の者の上に支配する愛は、形体的な愛である。
[3] 隣人愛、すなわち、役立ちを行なう愛が頭をつくる、そして世俗愛が身体をつくる、また自己愛が足をつくる時、人間は人間である。しかし、もし世俗愛が頭をつくるなら、人間はせむしのような人間でしかない。しかし、自己愛が
原典講読『結婚愛』