[6.] Reliqui quinque etiam narraverunt mirabilia de suis ascensibus in caelum; [6] 残りの五人もまた天界の中への自分の上昇について驚くべきことを物語った。
et comparabant mutationes statuum suae vitae, cum statu piscium dum elevantur ab aquis in aerem, et cum statu avium in aethere; また、自分のいのちの状態の変化をたとえた、魚の状態に、水から空気の中に上げられた時、また鳥の状態に、エーテルの中の。
et dixerunt, quod post duras illas sortes, non concupiverint amplius caelum, sed modo consortem vitam cum sui similibus ubicunque sunt; また言った、それらの恐ろしい運命(人生経験)の後、もはや天界を熱望しなかった(欲しがらなかった)、しかし、自分と似た者たちとの共同の生活だけを、どこにあっても。
et quod sciant, quod in mundo spirituum, ubi nos sumus, omnes prius praeparentur, boni ad caelum, et mali ad infernum, et quod cum praeparati sunt, videant vias sibi apertas ad societates sui similium, cum quibus in aeternum mansuri sunt, et quod has vias tunc intrent cum jucundo, quia sunt viae amoris illorum. また知ったこと、霊たちの世界の中で、そこに私たちがいる、すべての者は前もって準備されること、善い者たちは天界へ、また悪い者たちは地獄へ、また準備されたとき、道を見る、自分に似た者の社会へ向けて開かれた、それらの者とともに永遠にとどまる、またこれらの道をその時、快さとともに入る、彼らの愛の生活であるからである。
Omnes ex prima convocatione audientes haec, etiam fassi sunt, quod nec illis alia idea de caelo fuerit, quam sicut de loco, ubi pleno ore circumflua gaudia in aeternum sorberent. すべての者は、最初の招集(集会)からこれらを聞いた者は、さらにまた認めた(fateor)、彼らにも天界について他の観念がなかったこと、場所についてような以外の、そこで十分に口であたりに流れる永遠の楽しさを吸い込む。
[7.] Post haec angelus tubae dixit illis, "Videtis nunc quod gaudia caeli et felicitas aeterna non sint loci, sed quod sint status vitae hominis; [7] これらの後、らっぱの天使は彼らに言った、「今や、あなたがたは見ている、天界の楽しさと永遠の幸福は場所にないこと、しかし、人間のいのちの状態であること。
ac status vitae caelestis est ex amore et sapientia; そして天界のいのち(生活)の状態は愛と知恵からである。
et quia usus est duorum illorum continens, est status vitae caelestis ex conjunctione illorum in usu: また、役立ちはそれらの二つの容器(として役立つもの)であるので、天界のいのち(生活)の状態はそれらの結合から役立ちの中にある。
idem est, si dicatur charitas, fides et bonum opus, quoniam charitas est amor, fides est veritas ex qua sapientia, et bonum opus est usus: 同じことである、もし仁愛、信仰また善の働きが言われるなら、仁愛は愛であるので、信仰はその知恵からの〝真理〟である、また善の働きは役立ちである。
praeterea in mundo nostro spirituali sunt loca sicut in mundo naturali, alioqui non forent habitationes et distinctae mansiones, at usque locus ibi non est locus, sed est apparentia loci secundum statum amoris et sapientiae, seu charitatis et fidei. さらに(加えて)、私たちの霊界の中に場所がある、自然界の中のように、そうでなければ、住まい、また分離した住居がない、しかしそれでも、場所はそこに場所でない、しかし、場所の外観である、愛と知恵の状態にしたがった、すなわち、仁愛と信仰の。
[8.] Omnis, qui fit angelus, intus in se portat suum caelum, quia sui caeli amorem; [8] すべての者は、その者は天使になる、内部にそれ自体の中に(本質的に、本来)自分の天界を運ぶ(携える)、自分の天界の愛を〔運ぶ(携える)〕からである。
nam homo a creatione est minima effigies, imago et typus caeli magni; なぜなら、人間は創造から、最大の天界の最小の似姿(像)、映像また型(類型)であるからである。
forma humana non aliud est; 人間の形は他のものではない。
quare quisque venit in societatem caeli, cujus forma in singulari effigie est; それゆえ、それぞれの者が天界の社会の中へやって来る、その形は個々の似姿(像)の中にある。
idcirco cum intrat in illam societatem, intrat in correspondentem sibi formam, ita sicut a se in se illam, et sicut ab illa in illam in se, ac trahit vitam ejus ut suam, ac suam ut ejus; 結果として(それゆえに)、その社会の中に入る時、自分自身に対応するもの、形の中に入る、そのようにあたかも自分自身から自分自身の中に、それ〔の中に〕のように、またあたかもそれからその中に、自分自身の中に、そしてそのいのち(生活)を自分のものとして引き寄せる(得る)☆、そして自分のもの(いのち、生活)をそのもの(社会)として。
☆ Dickの英訳では「享受する」(enjoy)と意訳しています。
est unaquaevis societas sicut commune, ac angeli ibi sunt sicut partes similares, ex quibus commune coexistit. それぞれの(どの)社会は共同(生活)体のようである、そしてそこに天使たちは似ているものの部分のようである、それらから共同(生活)体が共存する。
Ex his nunc sequitur, quod qui in malis et inde falsis sunt, in se formaverint effigiem inferni, et haec cruciatur in caelo ex influxu et violentia activitatis oppositi in oppositum; これらから、今や、いえる、悪とここからの虚偽の中にいる者は、自分自身の中に地獄の似姿(像)を形成したこと、またこれらは天界の中で苦しめられる、対立する活動の流入と暴力☆から、対立するものの中へ。
☆ 天界からの「暴力」は訳としてよくないので「猛威」でしょうか。
amor enim infernalis est oppositus amori caelesti, et inde jucunda duorum amorum illorum collidunt inter se sicut hostes, et necant se cum congrediuntur." というのは、地獄の愛は天界の愛に対立しているから、またここからそれらの二つの愛の快さは敵のように互いに衝突する(争う)、また出会うとき、互いに殺す」。
(3) 訳文
739. これらの後、天使は自分の仲間と集会の場所へ戻った、そこからは賢明な者の集団がまだ去っていなかった、またそこに、天界の楽しさと永遠の幸福は単に天界の中へ入ること、そして神的な恵みから入ることである、またその時、世の中で彼らにあるのと同様な、祝祭の日に王の宮廷に、または招待された結婚式に入るような楽しさがある、と信じた者を呼んだ。
これらの者に天使は言った、「しばらくの間、ここで待て、私はらっぱを聞こえるようにする、するとここへ賢明さで評判の有名な者がやって来る」。
数時間後に、それぞれの者が自分の名声の賞である月桂冠で飾られた九人の男が近づいた。これらの者を天使は、すべての者が以前に招集されて近づいた集会の会館の中に導き入れた。これらの者の居合わす中で、天使は月桂冠の九人に話しかけて、言った、「私は、あなたがたが自分の観念にしたがって、その欲望から天界の中に上ることがあなたがたに与えられたこと、またこの低いものの中に、または天界の下の地に、天界の状態について十分な知識とともに、あなたがたが戻ったことを知っている。そこで、あなたがたに見られた天界がどのようなものか 話せ」。
[2] また順に答えた。最初の者が言った、「天界についての私の観念は、世の中で少年期の最初からいのちの終わりまで、すべての幸福、至福、快さ、楽しさ、また快楽の場所であった。また、もし入れられるなら、このような幸福のオーラがあたりを流れる、また胸で十分にそれらを、結婚式を祝うときの、そして花嫁と寝室に入るときの花婿のように吸収する。この観念の中で私は天界の中へ上った、また最初の守衛を、そしてまた第二の守衛を通り過ぎた。しかし、第三の守衛にやって来たとき、守衛の長官が私を話しかけ、また言った、「友よ、あなたはだれであるか?」
また、私は答えた、ここは天界ではないのか? ここへ、私の願いの欲望から、私は上った。どうぞ、入れよ。そして、入れられた。
また、私は白い衣の天使を見た、これらの者は私をめぐって歩いた、また調べた、またこのことをつぶやいた、「見よ、新しい訪問客を、天界の衣服を着ていない」。また私はこのことを聞いた、また考えた、このことは私に、主が婚礼の服装なしに結婚式に入った者について言った者と同様に見える、と。また私は言った、私にそのような衣(衣服)を与えよ。しかし、彼らはほほえんだ。またその時、集会所から命令とともにある者が走り寄った、『彼を脱がせて裸にせよ、彼を投げ出せ、またその後、彼の衣服を投げよ』。またこのように私は投げ出された」。
[3] 順に第二の者が言った、「私は、もし、単に私の頭の上方にある天界の中に入れられるなら、私を楽しさが、またその息が永遠にあたりを流れる――私は望ましいものもまた得た、そのように信じた。
しかし、天使たちは、私を見て、逃げ去った、また互いに言った、「この異常なもの(怪物)は何か? どのようにして、ここに夜の鳥がやって来たのか?」
また、実際に、私は人間からの変化を感じた、それでも私は変わらなかった。このことは私に天界の大気を吸い込むことからであった。
しかし、すぐに集会所から命令とともにある者が走り寄った、二人の召使いが私を連れ出した、またのぼる道を通って、私の家まで戻した。また私が家にいたとき、私は他の者のも私にも人間のように見えた」。
[4] 第三の者が言った、「私に確固とした(不変の)天界の観念は場所からであり、愛からでなかった。それゆえ、私がこの世界にやって来たとき、私は大いなる欲求で天界を熱望した、また上っている者を見て、また彼に続いた、また入ることを許された、しかし、数歩を越えなかった。しかし、私がそこの楽しみと幸福の状態の観念から私の心(アニムス)を喜ばせることを欲した時、雪のように白く輝いた天界の光から、それは、その本質は知恵であると言われたが、私の心(メーンス)に無感覚が、またここから私の目に暗黒が入り込んだ、また私は狂い始めた。またじきに、その白く輝く光に対応した天界の熱から、その本質は愛であることが言われるが、私を心臓を速く打った、私を不安が占めた、また内的な苦痛で苦しめられた、また私をそこの地面の上に仰向けに投げ出した。また私が横たわっていたとき、集会所から従者が命令とともにやって来た、私の光の中の、また私の熱の中の、私をゆっくりと取り去るために。その中に、やって来たとき、私に私の霊と私の心が戻った。
[5] 第四の者が、自分自身もまた場所の観念の中に、また天界について愛の観念の中にいなかったこと、また、このことを言った、「私は霊界の中にやって来るとすぐに、賢明な者に、天界に上ることが許されるか質問した。その者たちは私に言った、それぞれの者に許されること、しかし、、投げ落とされないように自分自身に用心するように。
これにほほえんで、また私は、他の者のように、全世界の中のすべての者はそこに楽しさを、それを十分に受け入れることができると信じて上った――しかし、実際に私が〔天界の〕内部にいたとき、ほとんど気絶した、また苦痛とここからの責め苦が頭の中と身体の中に、私を地面に打ち倒した、また私を火に近づけられたヘビのように巻き上げた、また断崖まで這った、またそれを通して私を投げ落とした。また、その後、下方の傍観者により取り上げられ、また宿泊所に運ばれた、そこで私に健全さが戻った」。
[6] 残りの五人もまた天界の中への自分の上昇について驚くべきことを物語った。また、自分のいのちの状態の変化を、水から空気の中に上げられた時の魚の状態に、またエーテルの中の鳥の状態にたとえた。また言った、それらの恐ろしい運命(人生経験)の後、もはや天界をしがらず、しかし、どこであっても自分と似た者たちとの共同の生活だけを欲しがったこと。また知ったこと、私たちがいる霊たちの世界の中で、すべての者は善い者たちは天界へ、また悪い者たちは地獄へ前もって準備されること、また準備されたとき、自分に似た者の社会へ向けて開かれた道を見る、〔その社会に〕それらの者とともに永遠にとどまる、またこれらの道をその時、快さとともに入る、彼らの愛の生活であるからである。
最初の招集〔のとき〕からこれらを聞いたすべての者は、さらにまた、彼らにも天界について場所についてのような以外の他の観念がなかったことを認めた、そこでは口であたりに流れる永遠の楽しさを十分に吸い込む。
[7] これらの後、らっぱの天使は彼らに言った、「今や、あなたがたは、天界の楽しさと永遠の幸福は場所にないこと、しかし、人間のいのちの状態であることを見ている。そして天界のいのち(生活)の状態は愛と知恵からである。また、役立ちはそれらの二つの容器(として役立つもの)であるので、天界のいのち(生活)の状態はそれらの結合から役立ちの中にある。もし仁愛、信仰また善の働きが言われるなら、同じことである、仁愛は愛であり、信仰はその知恵からの〝真理〟であり、また善の働きは役立ちであるので。さらに(加えて)、私たちの霊界の中に、自然界の中のように場所がある、そうでなければ、住まい、また分離した住居がない、しかしそれでも、そこの場所は場所ではない、しかし、愛と知恵の、すなわち、仁愛と信仰の状態にしたがった場所の外観である。
[8] 天使になるすべての者は、内部にそれ自体の中に自分の天界を携える、自分の天界の愛を携えるからである。なぜなら、人間は創造から、最大の天界の最小の似姿、映像また型であるからである。人間の形は他のものではない。それゆえ、それぞれの者がその形が個々の似姿の中にある天界の社会の中へやって来る。結果として(それゆえに)、その社会の中に入る時、自分自身に対応する形の中に入る、そのようにあたかも自分自身から自分自身の中に、それの中に、またあたかもそれからその中に、自分自身の中にのように、そしてそのいのち(生活)を自分のものとして、そして自分のいのち(生活)を、そのもの(社会)として引き寄せる(得る)。どの社会も共同(生活)体のようであり、そしてそこに天使たちは似ているものの部分のようであり、それらから共同(生活)体が共存する。
これらから、今や、悪とここからの虚偽の中にいる者は、自分自身の中に地獄の似姿(像)を形成したこと、またこれらは天界の中で、対立する活動の流入と猛威から対立するものの中で苦しめられることがいえる。というのは、地獄の愛は天界の愛に対立している、またここからそれらの二つの愛の快さは敵のように互いに争う、また出会うとき、互いに殺すからである」。
◎ PER ANGUSTA AD AUGUSTA
今日、サッカーの日本一を決める試合があった。広島サンフィレッチェが優勝した。その優勝を祝う場に「凱旋門」が設営されており、そこの左側に「PER ANGUSTA」右側に「AD AUGUSTA」と書かれていた。perとadからすぐにラテン語であろうと気づいた(テレビで見ていた何人の方がラテン語と気づいたであろうか)。またangustaとaugusutaと語呂合わせしていることから何らかの「格言」かと思い、岩波の「引用語辞典」を引いたがこれにはなかった。意味は「狭いものを通って堂々たるものへ」でしょう。狭いものはここではサッカーチームの優勝争いが「狭き門」であること、また「堂々たるもの」は優勝という「栄光」でしょう。勝ち抜いた者に与えられるよい言葉ですね(このような場にはラテン語がぴったりです)。