[3.] Postquam haec visa sunt, duxit angelus comites suos per circuitus huc illuc, ac ultimo ad sedentes in pulcherrimo roseto circumcincto arboribus olivae, aurantii, et citri, qui nutantes tenebant manus sub genis, lugentes, et lacrymantes. [3] これらが見られた後に、天使は自分の仲間を回り道を通ってあちこちへ案内した(導いた)、そして最後に最も美しいバラの花壇の中に座ってる者へ、囲まれた、オリーブの木に、オレンジの木に、またシトロンの木に、その者は、うなだれている者は手をほおの下に保った(頬杖をついた)、悲嘆する者、また涙を流す者〔であった〕。
Hos allocuti sunt comites angeli, et dixerunt, "Cur ita sedetis?" これらの者に同行の天使たちは話しかけた、また言った、「なぜ、そのように(あなたがたは)座っているのか?」
Et responderunt, "Est nunc septimus dies a quo in hunc paradisum venimus: また彼らは答えた、「今や七日である、そのことから、この楽園の中に私たちがやって来た――
cum intravimus, visa est mens nostra sicut elevata in caelum, ac immissa in intimas ejus gaudiorum faustitates; 私たちが入った時、私たちの心は天界の中に上げられたように見られた、そして、その楽しさの最内部の至福の中に入れられた。
sed post triduum coeperunt faustitates illae hebescere, et in mentibus nostris aboleri, ac fieri insensibiles, et sic nullae; しかし、三日間の後、それらの至福がつまらなくなり始めた(弱くなる、飽きがくる)、また私たちの心の中に破壊すること、そして感じない(無感覚)ことが生じること、またこのように無(なにもない)。
et cum ita exspirata sunt imaginaria nostra gaudia, timebamus jacturam omnis jucunditatis vitae nostrae; またそのように私たちの想像していた楽しさが消滅したとき、私たちは私たちのいのち(生活)のすべての快感が奪われる(失う)ことを恐れた。
et facti sumus ambigui de felicitate aeterna, num sit aliqua; また、私たちは、永遠の幸福について疑いが生じた、何らかのものであるか。
et postea vagati sumus per vias et areas, quaesituri portam per quam intravimus; またその後、私たちは道をまた区画(中庭)を通ってさ迷った、門をさがした、それを通って私たちが入った。
sed vagati sumus per gyros et gyros, ac interrogavimus obvios; しかし、私たちは輪また輪を通ってさ迷った、そして道に立っている(出会った)者たちに質問した。
ex quibus aliqui dixerunt, quod porta non inveniatur, quia paradisiacus hic hortus est spatiosus labyrinthus, qui talis est, ut qui vult exire, penitius intret; 彼らからのある者が言った、門が見つけられないこと、この楽園の庭園は広い迷宮である、それはそのようなものである、出ることを欲する者が、さらに深く入るような。
‘quare non potestis aliter quam hic manere in aeternum; 『それゆえ、あなたがたは異なってできない、ここに永遠にとどまること以外に。
vos estis in medio ejus, ubi omnes deliciae sunt in suo centro. ‘" あなたがたはその真ん中にいる、そこにすべての歓喜がある、その中心の中に』」。
Et porro dixerunt ad comites angeli, "Hic nunc per unum diem et dimidium sedimus, et quia absque spe inveniendi exitum sumus, reposuimus nos super roseto hoc, et spectamus circum nos in copia olivas, uvas, aurantia et citros; またさらに彼らは天使の仲間に言った、「ここに今や、一日と半日私たちは座っている、また私たちは出口を見つける希望なしでいるので、私たちはこのバラの花壇の上に座った、またわつぃたちは周囲を眺める、おびただしい数の(中の)オリーブの木、ブドウの木、オレンジの木、またシトロンの木を。
sed quo plus illa spectamus, eo plus delassatur visus videndo, odoratus odorando, et gustus gustando: しかし、それらを私たちがさらに眺めれば眺めるほどますます、見る視覚は、かぐ嗅覚は、また味わう味覚はうんざりさせられる(くたびれさせられる)。
haec causa est maestitiae, luctus, et lacrymationis, in quibus vos videtis nos." これらが悲しみ、嘆き、落涙の理由である、それらの中にあなたがたは私たちを見る」。
日: 2015年11月30日
原典講読『真のキリスト教』737(直訳[4],[5]と訳文)
[4.] His auditis, angelus cohortis dixit illis, "Est hic labyrinthus paradisiacus vere introitus in caelum; [4] これらで聞いて、集団(群れ)の〔引率の〕天使が彼らに言った、「この楽園の迷宮は真に天界の中の入り口である。
novi exitum, et educam vos." 私は出口を知った(知っている)、あなたがたを導こう」。
His dictis, sedentes surrexerunt et amplexi angelum, et una cum cohorte ejus comitati sunt illum. これらで言われて、座っている者は立ち上がった、また天使を抱擁して(と並んで)、また彼の集団(群れ)と一緒に彼を(に)同行した。
Et angelus in via docuit illos, quid gaudium caeleste et inde felicitas aeterna, quod non sint deliciae paradisiacae externae, nisi simul cum illis sint deliciae paradisiacae internae; また、天使は途中で彼らを教えた、何が天界の楽しさとここからの永遠の幸福か、楽園の外なる歓喜は存在しないこと、それらの一緒でないなら、楽園の内なる歓喜が存在しない。
deliciae paradisiacae externae sunt modo deliciae sensuum corporis, at deliciae paradisiacae internae sunt deliciae affectionum animae; 楽園の外なる歓喜は単なる身体の感覚の歓喜である、しかし、楽園の内なる歓喜は霊魂の情愛の歓喜である。
hae nisi in illis sint, non est vita caelestis, quia non est anima in illis: これら(後者)がそれら(前者)の中にないなら、天界のいのちはない、それら(前者)の中に霊魂がないからである。
et omne delicium absque sua correspondente anima, ex continuo elanguescit et torpescit, et plus delassat animum quam labor. またすべての歓喜は、その対応する霊魂なしに、連続(続くこと、絶えず繰り返すこと)から弱まる(だれる)、また鈍くなる、また霊魂を労働よりもくたびれさせる。
Sunt ubivis in caelis horti paradisiaci, et ex his etiam sunt gaudia angelis, et quantum in illis est delicium animae, tantum sunt illa gaudia illis gaudia." 天界の中にどこにも楽園の庭園がある、またこれらからもまた天使の楽しさがある、またどれだけ彼らの中に霊魂の歓喜があるか〔によって〕、それだけその〔庭園の〕歓喜が彼らに歓喜である」。
[5.] His auditis, quaesiverunt omnes, "Quid est delicium animae, et unde hoc?" [5] これらで聞いて、すべての者は質問した、「何が霊魂の歓喜か、またこれはどこからか?」
Respondit angelus, "Delicium animae est ex amore et sapientia a Domino; 天使は言った、「霊魂の歓喜は主からの愛と知恵からである。
et quia amor est efficiens, et est efficiens per sapientiam, ideo est utriusque sedes in effectu, et effectus est usus. また、愛はひき起こすものである、またひき起こすものは知恵を通してである、それゆえ、二つとも席(座)が結果の中にある、また結果は役立ちである。
Hoc delicium a Domino influit in animam, et descendit per superiora et inferiora mentis in omnes sensus corporis, et implet se in illis; この歓喜が主から霊魂の中に流入する、また心の高いものと低いものを通って身体のすべての感覚の中に下る、またそれ自体をそれらの中に満たす。
inde gaudium fit gaudium, et fit aeternum ab Aeterno a Quo. ここから楽しさは楽しさになる、また「そこからの永遠☆」から永遠が生じる。
☆ 「根源としての永遠から」、「永遠の根源から」と訳せます。
Vidistis paradisiaca; あなたがたは楽園を見ている。
et assevero vobis, quod non aliquid ibi sit, ne quidem foliolum, quod non est ex conjugio amoris et sapientiae in usu; また私はあなたがたに断言する、そこに何らかのものはないこと、決して葉もない、役立ちの中で愛と知恵の結婚からでないものは。
quare si homo in hoc est, est in paradiso caelesti, ita in caelo. それゆえ、もし人間がこの中にいるなら、天界の楽園の中に、そのように天界の中にいる。
@1 Sic exemplum Auctoris; sic quoque De Am. Coinj., n. 8. 注1 このように著者の写し(本)に。このようにまた『結婚愛』8番。
@2 Sic exemplum Auctoris; sic quoque De Am. Coinj., n. 8. 注2 このように著者の写し(本)に。このようにまた『結婚愛』8番。
(3) 訳文
737. この後、天使はキリスト教界からの賢明な者の集会の家へ戻った、また、界の楽しさと永遠の幸福は楽園の楽しみ(歓喜)であるという信仰を固めた者を呼んだ。
これらの者に言った、「(あなたがたは)私に従え、私はあなたがたを楽園に、あなたがたの天界の中に導く、あなたがたの永遠の幸福の幸福の状態が始まるためである。
また彼らを、みごとな木の枝と横枝から組み合わせた構造の高くそびえる門を通って導き入れた――入場の後、遠回りの道を通って地方から地方へ彼らを連れまわした。
天界への最初の入り口の中に実際に楽園があり、その中へ世の中で、天界全体は一つの楽園であることを信じた者は入れられる、それは楽園(パラダイス)と呼ばれる。そして、自分自身に死後に労働からのまったくの休息があり、この休息はバラの上を歩くという歓喜へことへ霊魂を引っ張ることであるという観念を刻みつけた者にとって、他のものではない。ブドウの最も豪奢なブドウ汁(ブドウ酒)から喜ばされること、そしてお祭りの宴会を祝うこと、また、この生活は天界の楽園の中でないなら存在しないこと〔である〕。
[2] 天使により導かれた者は、老人と若者、また少年、そしてまた女と少女のおびただしい数の群衆を見た。三人の集団と三人の集団、そして十人の集団と十人の集団、バラの園の上に座っている者、花輪(花冠)を曲げる、それらで老人の頭を、若者の腕を、そして少年の胸を帯(輪)のように飾る者。 (他のところに、木から果実を摘んでいる者、またかごの中に〔入れて〕仲間へ運んでいる者。) 他のところに、ブドウ(の実)からブドウ汁を、サクランボやベリー(漿果)〔から〕杯の中へ、しぼっている者、またうれしそうに飲んでいる者。他のところに、鼻で花からの芳香を、果実そして匂いを放つ葉から発散される〔芳香〕、まわりにまき散らされたものから引き寄せる者。他のところに、甘い(心地よい)歌を歌い、それらで居合わせる者の聴覚を慰めた者。他のところに、泉に座っている者、わき出る水流の水をいろいろな形の中に導く者。他のところに、歩いている者、会話する者、また冗談をまき散らす者。 (他のところに、走る者、遊ぶ者、ここに拍子の中で、またそこに輪の中に踊る者。) 他のところに、庭園のあずまやに、長椅子の上で横になるために入っている者。さらに多くの者が、他のところに、楽園を喜んでいる者。
[3] これらが見られた後に、天使は自分の仲間を回り道を通ってあちこちへ、そして最後にオリーブの木、オレンジの木、シトロンの木に最も美しいバラの花壇の中に座っている者へ案内した、その者はうなだれて、頬杖をつき、悲嘆し、涙を流していた。
これらの者に同行の天使たちは話しかけ、言った、「なぜ、そのように座っているのか?」
彼らは答えた、「この楽園の中に私たちがやって来て、今では七日である――私たちが入った時、私たちの心は天界の中に上げられた、そして、その楽しさの最内部の至福の中に入れられたように見られた。しかし、三日間の後、それらの至福がつまらなくなり、また私たちの心の中で破壊することが始まり、そして感じないことが生じ、またこのように何もなくなった。またそのように私たちの想像していた楽しさが消滅したとき、私たちは私たちのいのち(生活)のすべての快感を失うのではないかと恐れた。また、私たちは、永遠の幸福について何らかのものであるか(=そんなものがあるのか)疑いが生じた。またその後、私たちは道また中庭を通ってさ迷い、私たちが入った門をさがした。しかし、私たちは輪また輪を通ってさ迷った、そして道で出会った者たちに質問した。彼らからのある者が、門が見つけられない、この楽園の庭園は広い迷宮である、これは、出ることを欲する者が、さらに深く入るような、そのようなものであることを言った。『それゆえ、あなたがたは、ここに永遠にとどまることしかできない。あなたがたは、そこにすべての歓喜があるその真ん中に、その中心の中にいる』」。
またさらに彼らは天使の仲間に言った、「ここに今や、私たちは一日と半日座っている、また私たちは出口を見つける希望がないので、私たちはこのバラの花壇の上に座った、また私たちは周囲を、おびただしい数の(中の)オリーブの木、ブドウの木、オレンジの木、またシトロンの木を眺めている。しかし、私たちがそれらをさらに眺めれば眺めるほどますます、見る視覚は、かぐ嗅覚は、また味わう味覚はうんざりさせられる――これらが悲しみ、嘆き、落涙の理由であり、あなたがたはそれらの中にいる私たちを見る」。
[4] これらで聞いて、集団の〔引率の〕天使が彼らに言った、「この楽園の迷宮は真に天界の中の入り口である。私は出口を知っている、あなたがたを導こう」。
これらが言われて、座っている者は立ち上がり、天使と並んで、また彼の集団と一緒に彼に同行した。
また、天使は途中で彼らを教えた、何が天界の楽しさとここからの永遠の幸福か、楽園の外なる歓喜は、楽園の内なる歓喜と一緒でないなら存在しないこと。楽園の外なる歓喜は単なる身体の感覚の歓喜である、しかし、楽園の内なる歓喜は霊魂の情愛の歓喜である。後者が前者の中にないなら、天界のいのちはない、前者の中に霊魂がないからである。またすべての歓喜は、その対応する霊魂なしに、絶えず繰り返えされることから弱まり、鈍くなり、霊魂を労働よりもくたびれさせる。
天界の中にどこにも楽園の庭園があり、またこれらからもまた天使の楽しさがある、また彼らの中に霊魂の歓喜があればあるほど、それだけその〔庭園の〕歓喜が彼らにとって歓喜となる」。
[5] これらを聞いて、すべての者は質問した、「霊魂の歓喜とは何か、これはどこからか?」
天使は言った、「霊魂の歓喜は主からの愛と知恵からである。また、愛はひき起こすものであり、ひき起こすものは知恵を通してである、それゆえ、二つとも座が結果の中にあり、結果は役立ちである。
この歓喜が主から霊魂の中に流入し、心の高いものと低いものを通って身体のすべての感覚の中に下り、それ自体をそれらの中に満たす。ここから楽しさは楽しさになり、また永遠の根源から永遠が生じる。
あなたがたは楽園を見ている。私はあなたがたに断言する、そこに何らかのものは、決して葉もないこと、愛と知恵の結婚から役立ちの中にないものはないこと。それゆえ、もし人間がこの中にいるなら、天界の楽園の中に、そのように天界の中にいる。