[5.] Post haec angelus vocavit viros cohortis, et in via docuit illos haec de caelo: [5] この後、天使は群れの男を呼んだ、また途中で彼らを教えた、天界についてこれらを――
"In caelo aeque sicut in mundo sunt cibi et potus, sunt commessationes et convivia; 「天界の中に世の中のように等しく、食べ物や飲み物、宴会や食卓仲間がある。
et apud primores ibi sunt mensae super quibus sunt opimae dapes, cupediae et lautitiae, quibus exhilarantur et recreantur animi; また長のもとに、そこに食卓がある、それらの上に豊富(豪華)なごちそう、菓子や珍味がある、それらで心(アニムス)は喜ばされる、また活気づけられる。
et sunt quoque ludi et spectacula; 遊び(慰み)や観劇(見せ物)もまたある。
et sunt musicalia et cantica; 音楽の演奏や歌がある。
et omnia illa in summa perfectione: またそれらのすべてのものは最高の完全の中に〔ある〕。
talia sunt illis etiam in gaudia, sed non in felicitatem; そのようなものが彼らにもまた楽さの中にある(=そのようなものが彼らにもまた楽しさである)、しかし、幸福の中にない(=幸福の中にいない)。
haec erit in gaudiis, et inde ex gaudiis; これ(幸福)は楽しさの中にある(未来:なければならない)、またここから、楽しさから。
felicitas in gaudiis facit ut sint gaudia, opimat illa, et sustentat ne vilescant et fastidiantur; 楽しさの中の幸福が楽しさであるようにする☆、それらを豊かにする、また価値がなくならないように保つ、また嫌気がする。
☆ 『結婚愛』の6番[5]ではここはfelicitas in gaudiis facit ut gaudia sint gaudiaとなっています。すなわち「楽しさの中の幸福は、楽しさが楽しさであるようにする」と「楽しさ」があります。このほうがよくわかるでしょう。でも「楽しさgaudia」が三つもあるので(くどいといけないので)誤解のない範囲で後になって省いたのでしょう。
et haec felicitas est cuivis ex usu in sua functione. またこの幸福はそれぞれの者に自分の役目の中の役立ちからある。
[6.] Est aliqua vena in affectione voluntatis cujusvis angeli latens, quae attrahit mentem ad aliquid faciendum; [6] 天使のそれぞれの者の意志の情愛の中に隠れている何らかの水脈がある、それは心を行なうべき何らかのものへ引き寄せる。
mens per hoc tranquillat se, et satisfacit sibi; これによって心はそれ自体を鎮める、またそれ自体で満足する。
haec satisfactio et illa tranquillitas faciunt statum mentis receptibilem amoris usus a Domino; この満足(感)とその静けさが心の状態をつくる、主からの、愛の役立ちを受け入れることができる。
ex receptione hujus est felicitas caelestis, quae est vita illorum gaudiorum, quae prius memorata sunt. この受け入れから天界の幸福がある、それは彼らの楽しさのいのち(生活)である、それらは前に記された。
Cibus caelestis in sua essentia nec aliud est quam amor, sapientia et usus simul, hoc est, usus per sapientiam ex amore; 天界の食べ物は、その本質の中で愛、知恵また一緒に役立ち以外の他のものではない、すなわち、愛からの知恵を通しての役立ち。
quamobrem unicuivis in caelo datur cibus pro corpore secundum usum quem praestat, magnificus illis qui in eminente usu sunt, modicus sed exquisiti saporis illis qui in medii gradus usu sunt, et vilis illis qui in vili usu sunt, at nullus socordibus." その理由で、天界の中のそれぞれの者に身体のために食べ物が与えられる、役立ちにしたがって、それを果たした、りっぱなものが彼らに、その者はすぐれた役立ちの中にいる、彼らに小さいものが、しかし味の鋭敏なものが彼らに〔与えられる〕その者は中間の(中位の)段階の役立ちの中にいる、また卑しい(価値のない)ものが、その者は卑しい(価値のない)役立ちの中にいる、しかし、怠け者には何も〔与えられ〕ない」。
@1 Abrahamo (cum exemplo Auctoris,) pro “Abramo.” De Am. Conj. habet “Abramo” 注1 「Abramo.」の代わりにAbrahamo(著者の写し(本)に)。『結婚愛』は″Abramo”を持っている
@2 Abrahami (cum exemplo Auctoris,) pro “Abrami.” De Am. Conj. habet “Abrami” 注2 「Abrami.」の代わりにAbrahami(著者の写し(本)に)。『結婚愛』は″Abrami”を持っている
@3 Abrahamo (cum exemplo Auctoris,) pro “Abramo” 注3 「Abramo.」の代わりにAbrahamo(著者の写し(本)に)
(3) 訳文
735. これらの後、天使は天界の楽しさについて、また永遠の幸福について、アブラハム、イサク、またヤコブとの宴会にあったという観念を自分自身に導き出した者に話しかけた。また宴会の後、遊びと演劇、そして再び、このように永遠に宴会がある。また彼らに言った、「(あなたがたは)私に続け、私はあなたがたをあなたがたの楽しさの幸福の中に導き入れる」。
また、彼らを、森を通って厚板でおおわれた平らなところ(舞台)に導いた、その上に食卓が、一方の側に十五、またもう一方〔の側〕に十五、置かれていた。
また彼らは質問した、「なぜ、このように多くの食卓が?」
また天使は答えた、第一の食卓はアブラハムの、第二はイサクの、第三はヤコブのものである、またこれらの次に順に十二使徒の食卓〔である〕。「もう一方の側に、同じ数の彼らの妻の食卓、また最初の三つのはアブラハムの妻サラの、イサクの妻リベカの、そしてヤコブの妻レアとラケルの、そして残りの十二は十二使徒の妻の食卓〔である〕」。
[2] いくらかの時の経過の後、すべての食卓が(十分な)皿で満ち、またこれらの間の隙間は砂糖菓子の小さなピラミッドで飾られているのが見られた。
宴会に出席する者は、食卓の長を見ることを期待して、それらのまわりに立った。しばらくして、期待された者たち、アブラハムから使徒の最後の者まで、行列の(適切な)順序の中で入って来る者が見られた。またじきに、自分の食卓に近づくそれぞれの者が、座列に、その頭(主要な部分)に座った。またここから、周りに立つ者たちに言った、「私たちとともにあなたがたもまた食卓に着け」。男たちは彼らの父祖(族長)たちと食卓に着いた。女たちは彼らの妻たちと、喜びの中で、また尊敬とともに食べ、飲んだ。
昼食の後、それらの父祖(族長)たちは去った。またその時、遊び、娘と若者の踊り、またこれらの後、演劇が始まった。それらが終わって、再び宴会(ごちそう)へ招かれた、しかし、第一日にアブラハムとともに、第二日にイサクとともに、第三日にヤコブとともに、第四日にペテロとともに、第五日にヤコブとともに、第六日にヨハネとともに、第七日にパウロとともに、また他の者と順に第十五日まで食べるといった様式で、そこから再び、同様の順序で祝宴が、座席を変えて更新され、またこのように、永遠に〔続けられる〕。
[3] この後、天使は群れの男を招集し、彼らに言った、「これらすべての者は、あなたがたともに、天界の楽しさ、またここから永遠の幸福ついて想像上の同様の思考の中にいた、それらの者をあなたがたは食卓で見る。また、彼ら自身が、主の許しによりこのような宴会の場面から、自分の考え(概念)の空虚さを見る、またそれらから導き出され、教えられるためである。
あなたがたが食卓の頭に見たそれらの長は、大部分の者は田舎の(野暮な)人々からの、〔長の〕役を演じる老人であった。その者はひげがあり、またある富から他の者よりも傲慢〔であった〕、その者に、昔のこれらの父祖(族長)であった幻想が引き起こされた。
[4] しかし、(あなたがたは)私に、この舞台(競技場)から出口の道に従え」。また従った、ここに五十〔人〕、またそこに五十〔人〕を見た。吐き気がするまで食べ物を胃に詰め込んだその者は、自分の家の家族へ、ある者は自分の職務へ、ある者は自分の商売へ、またある者は自分の仕事へ戻ることを熱望した。しかし、多くの者は森の見張り番により制止され、彼らの宴会の日数について、また、ペテロとのまたパウロとの食卓で食べたか、まだかどうか質問された、またもし〔その〕前に出て行くなら、このことは、ふさわしくない(不作法)なので、彼らに恥となる。しかし、大部分の者は答えた、「私たちは楽しみに飽きた、食べ物は私たちにまずいものになり、味覚は干し上がった、胃はそれらを受けつけない、私たちはそれらを味わうことに耐えられない、私たちは数日、数夜、それらのぜいたくの中でだらだらとしてきた、私たちを出してくれるよう、私たちは本気で懇願する」――そして(去ることを)許されて、霊であえぐ〔ようにして〕また急ぎの駆け足で、家へ逃げ去った。
[5] この後、天使は群れの男を呼び、また道の途中で、天界についてこれらを彼らを教えた――
「天界の中に世の中と等しく、食べ物や飲み物、宴会や食卓仲間がある。また長のもとの食卓に、それらの上に豊富(豪華)なごちそう、菓子や珍味があり、それらで心(アニムス)は喜ばされ、活気づけられる。遊びや観劇もまたある。音楽の演奏や歌がある。またそれらのすべてのものは最高の完全さの中に〔ある〕。彼らにもまたそのようなものが楽さの中にある、しかし、幸福の中にない。これ(幸福)は、楽しさの中に、またここから、楽しさからなければならない。楽しさの中の幸福が、〔楽しさを〕楽しさであるようにし、それらを豊かにし、また価値がなくならないように、また嫌気がしないように保つ。またこの幸福は、それぞれの者に自分の役目の中の役立ちからある。
[6] それぞれの天使の意志の情愛の中に隠れている何らかの水脈があり、それは心を行なうべき何らかのものへ引き寄せる。これによって心は鎮まり、満足する。この満足感とその静けさが、主からの、愛の役立ちを受け入れることができる心の状態をつくる。この受け入れから天界の幸福があり、それは前に記された彼らの楽しさのいのち(生活)である。
天界の食べ物は、その本質で、役立ちと一緒の愛と知恵、すなわち、愛からの知恵を通しての役立ち以外の他のものではない。その理由で、天界の中のそれぞれの者に果たした役立ちにしたがって、身体のために食べ物が与えられる。すぐれた役立ちの中にいる者にみごとな食べ物がが、中間の(中位の)段階の役立ちの中にいる者に、小さいものが、しかし味のよいものが、また卑しい(価値のない)役立ちの中にいる者に卑しい(価値のない)食べ物が〔与えられる〕、しかし、怠け者には何も〔与えられ〕ない」。