(2) 直訳
[3.] Ex orationibus praelectis ante accessionem ad Sanctam Cenam in toto Christiano orbe: [3] 全基督教界の中で聖餐に近づく前に読まれる祈りから――
In illis ubivis serio admonentur ut sint in charitate per reconciliationem et paenitentiam, ex quibus hic solum transcribam haec ex oratione ad communicantes in Anglia. それらの中のどこでも、重く(まじめに)警告されている和解と悔い改めによって仁愛の中にいるように、それらからここに私はこれだけを写す、イギリスの中の聖餐に与る者への祈りから☆
☆ 次の箇所は本書の526番と同じです。
"Haec est via, et hoc est medium, ut quis fiat dignus particeps Sanctae Cenae: 「これが道である、またこれが手段である、だれかが聖餐をあずかるのにふさわしい者となるための――
primarium est, ut exploret suae vitae facta et commercia secundum normam praeceptorum Dei; 初のものである、神の戒めを基準にしたがって、自分の生活の行為と交際を調べること。
et in quibuscunque animadvertit se offendisse voluntate et loquela, aut factis, tunc deploret vitiosam suam naturam, et confessionem faciat coram omnipotente Deo, cum pleno proposito emendandi vitam. 意志と話し、あるいは行動のどんなもの〔でもそ〕の中に、違反していることに気づく〔なら〕、その時、自分の性質の欠点を悔やんで、生活を改善しようとする十分な意図とともに、〔それを〕全能の神の前に告白をしなければならない。
Et si animadvertit offensas ejus esse tales, ut non modo sint contra Deum, sed etiam contra proximum, tunc reconciliabit se illi, et promptus erit ad restitutionem et satisfactionem ex omni potentia sua, propter injurias et mala alicui facta, et similiter promptus erit ad remittendum aliis offensas, quemadmodum vult ut offensae suae remittantur a Deo; また、もし神に反しているだけでなく、隣人にもまた反しているような罪(違反)に気づいたなら、その時、彼と和解し、自分の力のかぎり、すぐにも他の者に行なった損害と悪のためのつぐないと謝罪をしなくてはならない。同様に、自分の罪が神から赦されることを望むように、すぐにも他の者に罪を赦すようにしなければならない。
alioqui receptio Sanctae Cenae non facit nisi quam aggravet damnationem. さもないと、聖餐を受けることは断罪を重くすることにしかならない。
Quapropter si quis vestrum est blasphemator Dei, obtrectator et sugillator Verbi Ipsius, ([1]aut adulter,) aut in malitia vel in malevolentia, aut in alio enormi crimine, paenitentiam a peccatis age; それゆえ、もしあなたがたのだれかが神を冒涜する、その方のみことばをそしるか侮辱する、または姦淫する、あるいは悪意またはねたみの中に、または何らかの他の憎むべき罪悪の中にいるなら、罪からの悔い改めを行なえ。
si non, ad Sanctam Cenam ne accedas: もし〔そうし〕ないなら、聖餐に近づいてはならない。
alioqui post receptionem Sanctae Cenae diabolus intraturus est in te, sicut intravit in Judam, et impleturus te omni iniquitate, et destructurus et corpus et animam. さもないと、聖餐を受けた後、悪魔がユダに入ったように、あなたの中に入ってきて、あなたをすべての不法で満たし、身体と霊魂を滅ぼすであろう」。
[4.] Quod Fides in Dominum sit tertium medium dignae fruitionis Sanctae Cenae, est quia charitas et fides unum faciunt, sicut calor et lux tempore veris, ex quibus duobus conjunctis renascitur omnis arbor; [4] 聖餐の享受にふさわしい「第三の手段が主への信仰である」ことは仁愛と信仰が一つのものとなっているからである、春の時の熱と光のように、それらの二つの結合からすべての木は再生する。
similiter ex calore spirituali, qui est charitas, et ex luce spirituali, quae [2]est veritas fidei, vivit omnis homo. 同様に、霊的な熱から、それは仁愛である、また霊的な光から、それは信仰の真理である、すべての人間は生きる。
Quod fides in Dominum hoc faciat, constat ex his locis: 主への信仰がこのことを行なうことは、これらの箇所から明らかである――
"Qui credit in Me,…non morietur in aeternum," sed vivet (Joh. xi 25, 26). 「わたしを信じる者は……永遠に死なない」、しかし、生きる(ヨハネ11:25, 26)。
Haec est voluntas Patris, ut omnis qui credit in Filium, habeat vita aeternam (Joh. vi. 40). これが父のみこころである、子を信じるすべての者が、永遠のいのちをもつこと(ヨハネ6:40)。
"Adeo..dilexit Deus mundum, ut Filium suum unigenitum dederit, ut omnis qui credit in Ipsum….habeat vitam aeternam" (Joh. iii. 15, 16). 「これほど……神は世を愛した、ご自分のひとり子を与えたほどに、その方を信じるすべての者が……永遠のいのちを持つために」(ヨハネ3:15, 16)。
"Qui credit in Filium, habet vitam aeternam; 「子を信じる者は、永遠のいのちを持つ。
qui vero non credit Filio, non videbit vitam, sed ira Dei manet super illo" (Joh. iii. 36). けれども、子を信じない者は、いのちを見ない、しかし、神の怒りが彼の上にとどまる」(ヨハネ3:36)。
"Sumus in veritate, in Filio Dei Jesu Christo; 「私たちは真理の中にいる、子なる神イエス・キリストの中に。
Hic est verus Deus et vita aeterna" (1 Joh. v. 20, 21 (B.A. 20)). この方は真の神である、また永遠のいのち」(ヨハネⅠ5:20)。
@1 aut adulter:―sic exemplum Auctoris. 注1 aut adelter:――このように著者の写し(本)に
@2 est (cum exemplo Auctoris,) pro “et” 注2 「et」の代わりにest(著者の写し(本)に)
日: 2015年11月7日
原典講読『真のキリスト教』722(訳文)
(3) 訳文
722. 神・仁愛・信仰が教会の三つの普遍的なものであるのは救いの普遍的な手段であるからであり、みことばを学ぶキリスト教徒のそれぞれの者に、知られ、認められ、知覚されている。
ある者に宗教があり、その中に何らかの教会があるために、神を認めなくてはならないことは、理性そのものが断言する。それゆえ、聖餐に近づき、神を認めない者は、それを冒涜する、というのは、目でパンとブドウ酒を見、また舌でそれらを味わう、しかし心で、「これは無意味な事柄でないなら何か? 私の食卓の上の似た物と何が相違するのか? それでも私はそのことを、聖職者から、またここから大衆から、私が無神論者であるという悪評で批難されないために行なう」と考えるから。
[2] 神の認知の後、だれかを〔聖餐に〕近づくのにふさわしいようにするものの第二の手段が、仁愛であることは、みことばからも、全キリスト教界の中で近づくことの前に朗誦される祈りからも明らかである。
みことばからは――
すべてのものにまさって 神を、また隣人をそれ自身のように愛することが第一の命令と戒めである(マタイ22:34-39、ルカ10:25-28)。
なおまたパウロ〔の手紙〕に、
救いへ寄与する三つのものがあり、それらの最大のものは仁愛であること(コリントⅠ13:13)。
例えばまたこれらから――
「私たちは知っている、神は罪人〔の言うこと〕を聞かれない、しかし、もしだれかが神を礼拝し、そのみこころを行なうなら、この者を聞かれること」(ヨハネ9:31)。
「善い実を結ばないすべての木は、切り倒され、火の中に投げ込まれる」(マタイ7:19, 20、ルカ3:8, 9)。
[3] 全キリスト教界の中で聖餐に近づく前に読まれる祈りからは――
それらの中のどこでも、和解と悔い改めによって仁愛の中にいるように重く警告されており、それらからここに私は、イギリスの中の聖餐に与る者への祈りから、これだけを写す☆。
「だれかが聖餐を与るのにふさわしい者となるためのこれが道であり、これが手段である――最初初のものは、神の戒めを基準にしたがって、自分の生活の行為と交際を調べることである。意志と話しの中の、あるいは行動の中のどんなものでもその中に違反しているものに気づく〔なら〕、その時、自分の性質の欠点を悔やんで、生活を改善しようとする十分な意図とともに、〔それを〕全能の神の前に告白をしなければならない。
また、もし神に反しているだけでなく、隣人にもまた反しているような罪に気づいたなら、その時、彼と和解し、自分の力のかぎり、すぐにも他の者に行なった損害と悪のためのつぐないと謝罪をしなくてはならない。同様に、自分の罪が神から赦されることを望むように、すぐにも他の者に罪を赦すようにしなければならない。さもないと、聖餐を受けることは断罪を重くすることにしかならない。
それゆえ、もしあなたがたのだれかが神を冒涜し、その方のみことばをそしるか侮辱し、または姦淫する、あるいは悪意またはねたみの中に、または何らかの他の憎むべき罪悪の中にいるなら、罪からの悔い改めを行なえ。もしそうしないなら、聖餐に近づいてはならない。さもないと、聖餐を受けた後、悪魔がユダに入ったように、あなたの中に入ってきて、あなたをすべての不法で満たし、身体と霊魂を滅ぼすであろう」。
[4] 聖餐の享受にふさわしい「第三の手段が主への信仰である」ことは、春の時の熱と光の二つものの結合からすべての木が再生するのように、仁愛と信仰が一つのものとなっているからである。同様に、仁愛である霊的な熱から、また信仰の真理である霊的な光から、すべての人間は生きる。
主への信仰がこのことを行なうことは、これらの箇所から明らかである――
「わたしを信じる者は……永遠に死なない」、しかし、生きる(ヨハネ11:25, 26)。
子を信じるすべての者が、永遠のいのちをもつこと、これが父のみこころである、(ヨハネ6:40)。
「ご自分のひとり子を与えたほどに、これほど神は世を愛された、その方を信じるすべての者が……永遠のいのちを持つためである」(ヨハネ3:15, 16)。
「子を信じる者は、永遠のいのちを持つ。けれども、子を信じない者は、いのちを見ない、しかし、神の怒りが彼の上にとどまる」(ヨハネ3:36)。
「私たちは真理の中に、子なる神イエス・キリストの中にいる。この方は真の神であり、永遠のいのちである」(ヨハネⅠ5:20)。
☆ この箇所は本書の526番と同じです。