原典講読『真のキリスト教』697(直訳[11]と訳文)

(2) 直訳
[11.] His dictis adplaudebant multi, sed aliqui dicebant, "Expendemus." [11] これらで聞いて、多くの者は拍手喝さいした、しかし、ある者たちは言った、「私たちは熟考する(した)」。
Ego tunc abivi domum; 私は、その時、家を(へ)立ち去った。
et ecce super gymnasio illo, loco prioris meteori apparuit nubes candida absque striis seu radiis inter se dimicantibus; また見よ、その(高等)学校の上方に、以前の大気現象に代わって白く輝く雲が見られた、細い帯または光線なしに、互いに争って(闘う)。
quae nubes penetrans tectum intravit, ac illustravit parietes; その雲が屋根を貫通して入った、そして壁を照らした。
et audivi, quod viderint scripturas, ac inter alias etiam hanc, また、私は聞いた、彼らが書かれたものを見ていること、そして他のものの間にこれもまた〔見た〕、
 
"Jehovah Deus ….inspiravit in nares hominis Animam vitarum, et factus est homo in Animam viventem" (Gen. ii. 7). 「神エホバが……人間の鼻の中にいのちを息(霊魂)を吹き込んだ、また人間は生きている霊魂になった」(創世記2:7)
 
@1 vi. (cum exemplo Auctoris,) pro “v.” 注1 v.」の代わりにvi(著者の本(写し)に)
@2 12 (cum exemplo Auctoris,) pro “11” 注2 11」の代わりに12(著者の本(写し)に)
@3 13 (cum exemplo Auctoris,) pro “14” 注3 14」の代わりに13(著者の本(写し)に)
@4 37 (cum exemplo Auctoris,) pro “3” 注4 3」の代わりに37(著者の本(写し)に)
 
(3) 訳文
697. 第六のメモラビリア――
 
 かつて私から遠くない〔ところに〕私は大気現象を見た――私は小さい雲に分かれた雲を見た、それらのあるものは空色、またあるものは暗い色。また私は、互いに戦っているようなものを見た。細い帯の光線がそれらを輝き貫いき、それはある時は切っ先のように鋭く、ある時は折れた剣のように鈍く見えた。それらの光線はある時は向かい合って伸び、ある時はそれ自体の中に(それ自体を)っ込め、完全に拳闘家たちのよう〔であった〕。そのようにそれらのいろいろな色の小さな雲は、互いに闘っていた〔ように〕見えた、しかし、遊んでいた。
また、この大気現象は私から遠くない〔ところに〕見られたので、私は目を上げた、そして〔目の〕鋭さを注いだ、また私は、少年、若者、老人を、家の中に入っている者たちを見た、その家は大理石から、土台は班岩から造られていた。この家の上方にその現象があった。
 またその時、入っていく者たちからのある者に話しかけて、私は質問した、「ここに何が?」また答えた、「学校である、そこで若者たちが知恵に属するいろいろなものの中で手ほどきされる」。
 [2] 私はこれを聞いて、彼らと入った。私は霊の中に、すなわち、、その中に霊界の人間がいる、その者は霊と天使たちと呼ばれる、それと似た状態の中にいた――また見よ、その学校の中に前部に特別席が、真ん中に長椅子、脇に、まわりに座席、また入り口の上方に天井さじき(貴賓席)☆1が見られた。特別席☆2は、示されようとしている〔機会、場合に〕そ討議の議題に答える若者のためにあった長椅子は聴衆のために、脇の座席は以前に賢明に答えた者のために、また天井さじき(貴賓席)は判断し、判定する者である長老のためにあった。天井さじき(貴賓席)の中央に演壇かあった、そこに賢明な男が座っていた、その者を校長と呼んだ、その者は討議の議題を示した、それへ特別席の若者が答える。
またその後、〔彼らが〕集められ、演壇から男が立ち上がり、言った、「答えよ、今、私は『何が霊魂か、またその性質(どんなものか)?』この討議の議題に向けて尋ねる、また、もしあなたがたができるなら、それを解け」。
 [3] これらを聞いて、すべての者は驚いた、また(不平を)つぶやいた、また長椅子の上の集団からある者は叫んだ、「人間のだれが黄金時代(サートゥルヌスの時代)らこの私たちの時代まで、何が霊魂か、またさらにましてその性質を(それがどんなものか)理性のどんなものも思考で見ることまた把握することができたか? 
 これはすべての者の理解力のスフェア(領域)の上にあるのではないか?」
 しかし、これらに天井さじき(貴賓席)から言い返された、「これは理解力の上方にない、しかし、その中に、またその前に〔ある〕。ただ(単に)答えよ」。
 また、特別席にあがり、討論の議題に答える若者たちが、その日に選ばれて、立ち上がった。五人いた、その者は長老たちにより探し出され、そして、賢明を賦与されている者〔であると〕見つけられ、またその時、座席の脇に、列の上に座っている〔者であった〕。またこれらの者はその後、順にのぼって、その上に座った。まただれもがのぼるとき、オパールのような色の絹でできたシャツを、またその上に柔らかな羊毛のトーガを着せられた、それに花〔模様〕が織り込まれていた、またほかに帽子、そのてっぺんの上に小さいサファイアで取り囲まれたロザリオ〔のような飾り〕があった。
 [4] また私は、そのように着せられ、のぼる最初の者を見た、その者は言った、「霊魂とその性質は何か、創造の日からだれにも啓示されていない。神おひとりの宝庫の中の秘義である。
 しかし、霊魂は人間の中で女王のように住んでいることが明らかにされている――けれども、その宮殿がどこにあるか、学者たちは根拠を推測した。ある者は、大脳と小脳の間の小さな結節の中にあること〔を推測した〕、それは松果体と呼ばれる。この中に霊魂の座を想定した、その理由は、人間全体がこれらの二つの脳から統制されていて、またその結節がそれらを制御するからである。それゆえ、脳が意のままに制御する、これは人間全体もまた頭からかかとまで制御する」。
 また、言った、「ここから、このことは真理またはもっともらしいもののように世の中の多くの者に見られた、しかし、時代の後、このことは作り事として捨てられた」。
 [5] これを言い終わっ後、トーガ、シャツと帽子を脱いだ、それらを選ばれた者たちからの第二の者が受け入れ、そして座席に入った。
 霊魂について、天界全対の中に、また世全対の中に、霊魂とその性質が何か知られていないことの発言であった。
 「このことは、あること、また人間の中にあることが知られている、しかし、どこに〔あるの〕か推測されている。このことは、頭の中にあること確実がである、理解力(知力)がそこで考える、また意志がそこに意図する、また頭の中の正面方向に顔に、人間の五感があるので。これらやそれらに別の者は、頭の中の内部に住んでいる霊魂以外に、いのちを与えない、しかし、その集会所がそこにどこにあるか、あえて私は発言しない、しかし、私は彼らに同意した、その者はそれに脳の三つの脳室の中に、ある時にはそこの線条体の中に、ある時には両方の脳の髄質の中に、ある時には皮質の中に、ある時には硬膜の中に座を割り当てた。というのは、それぞれの座に対しての確信からの白色の小石☆3(=賛成票)を欠いていなかったから。
 脳の三つの脳室に対する〔賛成の〕小石(票)は、それらは霊魂精気と脳のすべてのリンパ液の容器であることであった。線条体に対する〔賛成の〕小石(票)は、これらは髄質をつくること、それによって神経が出る、またそれによって両方の脳が脊柱の中に続けられる、またこれから、またそれから繊維が突出する、それらから身体全体が構成されるからであった。両方の脳の髄質に対する〔賛成の〕小石(票)は、それがすべての繊維の集めることと積み重ねであること、それらは人間全体の最初の段階であるからであった。皮質に対する〔賛成の〕小石(票)は、そこに最初のものと最後のものの目的があること、またここからすべての繊維の始まり、またこのように感覚と運動〔がある〕からあった。硬膜に対する〔賛成の〕小石(票)は、それらは両方の脳の共通のおおいであること、またここからある連続(するもの)よってそれ自体を、心臓の上に、また身体の内臓の上に伸ばしているからであった。
 私に関しては、私は判断しない、あるものについてさらに、他のものについてよりも。あなたがたは、どうぞ、何が好ましいものか判断せよ、また選べ。
 [6] これらをって、座席からりたまた第三シャツトーガと帽子したその座席にのぼってこれらをした――
 「若者の私に、このように高尚な論証とともに何が〔あるのか〕?
私はここに脇へ座っている学者へ訴える、私は天井さじき(貴賓席)の中のあなたがた、賢明な者に訴える、それどころか、私は最高の天界の天使に訴える、だれが自分の理性的な光から霊魂について何らかの観念を自分自身に得ることができるのか。
 しかし、人間の中のその座について私は他の者のように(典拠確かに)表明することができる。また私は、心臓の中とここから血の中にあることを(典拠確かに)表明する。またこの私のものは(典拠確かに)表明される、心臓はその血によって身体と頭とを統制するからである。というのは、大動脈と呼ばれる大きな血管を全身の中に送り出す、そして頸動脈と呼ばれる血管を頭全体の中に送り出すから。ここから普遍的に同意されている、霊魂は心臓から血によって、(身体の)器官の全組織を、身体も頭も維持している、滋養物を与えている、生かしていること。この信念の主張に向けて、聖書の中に「霊魂と心臓(心)」がこれほど何度も言われているという事実がある、例えば、
 
 あなたは神を「全部の霊魂から、また全部の心(心臓)から」愛さなければならないこと。また神は人間の中に「新しい霊魂と新しい心(心臓)を」創造すること(申命記6:5、10:12、11:13、26:16、エレミヤ32:41、マタイ22:37、マルコ12:30, 33、ルカ10:27また他の箇所に)。そして、あからさまに、血は肉の霊魂であること(レビ記17:11, 14)」。
 
 これらを聞いて、ある者は、「学者らしい、学者らしい」と言って、声を上げた。聖職者からであった。
 [7] この後、この衣服第四、特別席に入って、言った――
「わたしもまた、何が霊魂か、またその性質が何か、吟味することができるような、だれかがこれほどに透徹したまた鋭利な才気がないことの疑念を抱く――それゆえ、私は思う、それ〔霊魂とその性質〕を調べることを欲する者のもとに、不必要な(余分な)精妙なもの(微妙な議論)浪費されている。しかしそれでも、子供時代から私は見解の信念の中にとどまった、その中に古代人はいた、人間の霊魂はその全体の中に、またこの全部の部分の中に、またこのように頭の中にも、またその個々のものの中に、身体の中にも、その個々のものの中にあること。また現代著述家によりされた空虚なことれにどこかに座を定めること、またどこでもなく。霊魂霊的実体でもあるそれについて拡大も場所も属性づけられない、しかし、住むことと充満〔が属性づけられる〕。
 さらにまた、霊魂のことを時、〔そのいのちは全部にまたどんなものでも部分にあるいのちをだれが理解しないか?」。
 これらをいて、講堂くの賛同した
 [8] この後、第五がったそして装飾って、特別席からこのこと()した――
 「霊魂がどこにあるか、何らかの部分にかあるいは全部のどこでもかうことをにしないしかし、私の蓄えと倉庫から私は、何が霊魂か、またその性質(どんなものか) このことについて心を開く。
 霊魂はある者により、純粋な何かのようにしか考えられていない、それはエーテルのまたは空気のまたは風になぞらえられる、その中に推理力からの生命力がある、それは人間に獣よりもある。
 この見解を私は、人間は最期の息を吐く時、霊魂または霊を息を吐き出すことまたは出すことが言われることの上に建てた。ここからもまた、死後に生きている霊魂はこのような息(発散気)あることが信じられている、その中に思考力のあるいのちがある、それは霊魂と呼ばれる。他の何が霊魂であることができるのか?
しかし、私は、霊魂についての討議の議題、霊魂は何か、その性質が〔何〕であるか、理解力の上方にない、しかし、その中に、またその前に〔ある〕ことを、天井桟敷(貴賓席)ら言っているのを聞いたので、私はこの永遠の秘義をあなたがた自身が明らかにするように求め、また願う」。
 [9] また、天井桟敷(貴賓席)の中の長老が討議の議題示した校長を覗き込んだその者は身振りから、下り、教えるように欲していることを理解した。また直ちに、彼は講壇から下り、講堂を通り抜け、また特別席に入り、またそこで手を伸ばして、言った。
「どうか、聞いてください。霊魂が人間の最内部の最も鋭敏な本質(エッセンス)とエッセ(存在)であることを、だれが信じないか? しかし、何らかの形なしの本質とは、創造の所産以外の何か?
それゆえ、霊魂は形である、しかし、形がどんなものであるか言われる。愛のすべてのものと知恵のすべてのものの形である。愛のすべてのものは情愛と呼ばれ、知恵のすべてのものは知覚と呼ばれる。それらからまたそれらとともにこれらは一つの形をつくる、その中に無数のものが一つの存在物(個体)と呼ばれることができるような秩序、連鎖と密着性の中にある。また、一つの存在物(個体)と呼ばれることができる、そのようなものであるために、ここから何らかのものを取り去ること、それへ何らかのものとを加えることもできないからである――このような形でないなら、何が人間の霊魂か? 愛のすべてのものと知恵のすべてのものがその形の本質的なものではないのか、またこれらが人間のもとに、霊魂の中にまた霊魂から、頭と身体の中にある。
 [10] あなたがたはや天使と呼ばれている。またあなたがたは世の中で、霊や天使は風またはエーテル、またこのように心とアニムス☆4のようであること信じた。また、今や、はっきりとあなたがたは、真に、実際に、事実上、人間であることを見る、その人間は、あなたがたが物質的な身体の中で生きた、また考えた世の中で、またあなたがたが、物質的な身体が生き、考えないと知った、しかしその身体の中の霊的な実体が〔生き、考えたと知った〕、またこれをあなたがたは霊魂と呼ぶ、またその形を知らなかった、またそれでも今や、あなたがたは見てきた、また見ている。
あなたがた、すべての者は霊魂であり、それらの不死性についてこのように多くのものを聞き、考え、言い、また書かれた。また、あなたがたは神からの愛と知恵の形であるので、永遠に死ぬことができない。
 そこで、霊魂は人間の形である、それについて少しも取り去ることができない、またそれに加えることもできない、そして最内部の形、身体全体のすべての形である。また外にある形は、最内部のものから本質と形とを受けるので、それゆえ、あなたがたは、あなたがたや私たちの前に見られているように、霊魂である。一言でいえば、霊魂は、最内部の人間であるので人間そのものであり、それゆえ、その形は十分に、完全に人間の形である。けれども、いのちではない、しかし、神からのいのちの最も近い容器、またこのように神の住まいである」。
 [11] これらを聞いて、多くの者は拍手喝さいした、しかし、ある者たちは言った、「私たちは熟考する」。
 私は、その時、家去った。また見よ、その)学校の上方に、以前の大気現象の場所に互いに争って(闘う) 細い帯または光線なしに白く輝く雲が見られた。その雲が屋根を貫通して入った、そして壁を照らした。また、私は書かれたものを見ていること聞いた、そして〔その書かれた〕他のものの間にこれもまた〔あった〕、
 
 「神エホバが……人間の鼻の中にいのちを息(霊魂)を吹き込まれた、人間は生きている霊魂になった」(創世記2:7)
 
 
☆1 古代ギリシアでは舞台前の合唱隊席をオーケストラと言い、その後、オペラが上演されるときの楽団席がオーケストラ席であり、ここからいわゆる管弦楽団を「オーケストラ」というようになりました。古代ローマ劇場では舞台前の「貴賓席」です。
 
2 「特別席」と意訳した原語cathedraは座席という意味ですが、単なる座席ではなく、正式な特別な座席です。通常は司教(主教)の席を意味します。その席が備わっている教会が「司教(主教)座教会」すなわち、カテドラル(大聖堂)となります。
 
3 古代では投票に小石を用いました、賛成が白石、反対が黒石です。ここでは「欠いていなかった」、とは、どれも「確信」からの賛意を得ていないこともなかった、すなわち、どれも、それなりに確信されていた、という意味です。
 
4 ここの心(mens)は特に「知的な心」を意味します、この意味で「知性」とも訳せます。アニムス(animus)は心でも特に「外的な、また自然的な心」を意味します。気質、性格とも訳せます。

原典講読『真のキリスト教』698,699

Caput Decimum Tertium.
13

 

DE SANCTA CENA.
聖餐について

 
[I.]

QUOD ABSQUE NOTITIA DE CORRESPONDENTIIS NATURALIUM CUM SPIRITUALIBUS,
NEMO SCIRE POSSIT USUS FRUCTUS SANCTAE CENAE.
自然的なものと霊的なものの対応について知ることなしに、
だれも聖餐の役立ちと成果を知ることができないこと。

 
(1) 原文
698. Haec quoad partem explicata sunt in capite de Baptismo, ubi ostensum est, Quod absque cognitione de Sensu spirituali Verbi, non possit sciri, quid duo sacramenta, Baptismus et Sancta Cena, involvunt et efficiunt (quae videantur, n. 667-669). Hic dicitur, Quod absque notitia de Correspondentiis naturalium cum spiritualibus; quod idem est, quia sensus naturalis Verbi vertitur in spiritualem per correspondentias in caelo; inde est, quod duo illi sensus sibi mutuo correspondeant, quare qui novit correspondentias, nosse potest sensum spiritualem. Quid vero et quales correspondentiae sunt, videri potest in capite de Scriptura Sacra a principio ad finem, et quoque in Explicatione Decalogi a primo praecepto ad ultimum; et singulariter in Apocalypsi Revelata.
 
(2) 直訳
698. Haec quoad partem explicata sunt in capite de Baptismo, ubi ostensum est, Quod absque cognitione de Sensu spirituali Verbi, non possit sciri, quid duo sacramenta, Baptismus et Sancta Cena, involvunt et efficiunt (quae videantur, n. 667-669). このことは部分に関して「洗礼」についての章に中に説明されている、そこに示されている、みことばの霊的な意味についての知識なしに、知られることができないこと、何か、二つの典礼(秘跡)、洗礼と聖餐、含み、引き起こすか(それらは見られる、667-669)
Hic dicitur, Quod absque notitia de Correspondentiis naturalium cum spiritualibus; ここに〔表題に〕言われている、「自然的なものと霊的なものの対応について知ることなしに」と。
quod idem est, quia sensus naturalis Verbi vertitur in spiritualem per correspondentias in caelo; 同じことであること、みことばの霊的な意味は対応によって天界の中で霊的なもの(意味)変わるので。
inde est, quod duo illi sensus sibi mutuo correspondeant, quare qui novit correspondentias, nosse potest sensum spiritualem. ここからである、二つのそれらの意味がそれら自体に互いに対応していること、それゆえ、対応を知る者は、霊的な意味を知ることができる。
Quid vero et quales correspondentiae sunt, videri potest in capite de Scriptura Sacra a principio ad finem, et quoque in Explicatione Decalogi a primo praecepto ad ultimum; けれども、何かまた対応がどんなものであるか、「聖書」についての章の中に見られることができる、最初から最後まで、そしてまた「十戒の説明」の中に最初の戒めから最後のものまで。
et singulariter in Apocalypsi Revelata. また、『啓示された黙示録』の中に詳細に。
 
(3) 訳文
698. このことは部分に関して「洗礼」についての章に中に説明されている、そこに、みことばの霊的な意味についての知識なしに、知られることができないこと、二つの典礼洗礼と聖餐が、何を含み、引き起こすか示されている(それらは見られる、667-669)
 ここに〔表題に〕、「自然的なものと霊的なものの対応について知ることなしに」と言われている。これは、みことばの霊的な意味は対応によって天界の中で霊的なもの(意味)変わるので同じことである。ここから、二つのそれらの意味がそれら自体に互いに対応していること、それゆえ、対応を知る者は、霊的な意味を知ることができる。
 けれども、何かまた対応がどんなものであるか、「聖書」についての章の中に、最初から最後まで、そしてまた「十戒の説明」の中に最初の戒めから最後のものまで、また、『啓示された黙示録』の中に詳細に見られることができる。
 
(1) 原文
699. Quis vere Christianus non agnoscit, quod duo illa sacramenta sint sancta, immo quod sint sanctissima cultus in Christianismo? Sed quis novit ubi illorum sanctitas residet, aut unde illa est? In institutione Sanctae Cenae ex sensu naturali, non plus scitur, quam quod Christi Caro ad manducandum, et Ipsius Sanguis ad bibendum dentur, et quod pro illis sint panis et vinum. Quis inde aliter potest cogitare, quam quod sancta sit solum propter mandatum e Domino? Quare sagacissimi ab ecclesia tradiderunt, quod dum accedit Verbum ad elementum fiat sacramentum. Sed quia haec origo sanctitatis ejus, non cadit in intellectum, nec apparet in elementis seu symbolis ejus, sed modo in memoriam, quapropter quidam ex fiducia, quod peccata per illam remittantur, obeunt illam, quidam quia credunt quod sanctificet, quidam quia fidem corroborat, et sic etiam promovet salutem. Illi autem qui leve de illa cogitant, ex sola consuetudine a pueritia frequentant illam; et quidam quia nihil rationis de illa vident, omittunt illam. Impii vero avertunt se ab illa, et secum dicunt, "Quid illa, nisi quaedam ceremonia, pro qua sanctitas impressa est a clero? nam quid ibi nisi panis et vinum? et quid nisi quam figmentum, quod corpus Christi, quod pependit super cruce, et quod sanguis Ipsius qui tunc effusus est, una cum pane et vino communicantibus distribuantur?" praeter alia.
 
(2) 直訳
699. Quis vere Christianus non agnoscit, quod duo illa sacramenta sint sancta, immo quod sint sanctissima cultus in Christianismo? 真のキリスト教徒のだれが認めないか、二つのそれらの典礼(秘跡)が聖なるものであること、それどころか、キリスト教の中の最も聖なる礼拝であること?
Sed quis novit ubi illorum sanctitas residet, aut unde illa est? しかし、だれも知らない、それらの神聖さ(聖性)がどこに住んでいるか、またはそれがどこからであるか?
In institutione Sanctae Cenae ex sensu naturali, non plus scitur, quam quod Christi Caro ad manducandum, et Ipsius Sanguis ad bibendum dentur, et quod pro illis sint panis et vinum. 「聖餐」の制定(の中)で、自然的な意味から、さらに知らない、キリストの肉を食べることへ向けて、またその方の血を飲むことへ向けて与えられること以外に、またそれらの代わりに、パンとブドウ酒を。
Quis inde aliter potest cogitare, quam quod sancta sit solum propter mandatum e Domino? だれがここから異なって考えることができるか、ただ主から命令されたために神聖であること?
Quare sagacissimi ab ecclesia tradiderunt, quod dum accedit Verbum ad elementum fiat sacramentum. それゆえ、最も鋭敏な者が教会から伝えたこと、みことばを要素に加える時、典礼(秘跡)となること。
Sed quia haec origo sanctitatis ejus, non cadit in intellectum, nec apparet in elementis seu symbolis ejus, sed modo in memoriam, quapropter quidam ex fiducia, quod peccata per illam remittantur, obeunt illam, quidam quia credunt quod sanctificet, quidam quia fidem corroborat, et sic etiam promovet salutem. しかし、その神聖さのこの起源は、理解力の中に落ち込まないので、その要素または象徴の中にも見られない、しかし単に記憶の中に〔ある〕、そのために、ある者は信頼から、罪がそれらによって赦されること、それらに出席する、ある者は信じるので、清める(神聖なものとする)こと、ある者は信仰を強くするので、またこのように救いもまた促進する。
Illi autem qui leve de illa cogitant, ex sola consuetudine a pueritia frequentant illam; けれども彼らは、その者はそれらについて軽いものを(重要でないと)考える、子供時代からの単なる週間からそれらにしばしば臨む。
et quidam quia nihil rationis de illa vident, omittunt illam. またある者は、それらについて理性的な者を何も見ないので、それらを捨てる〔臨席しない〕。
Impii vero avertunt se ab illa, et secum dicunt, "Quid illa, nisi quaedam ceremonia, pro qua sanctitas impressa est a clero? けれども、不信心な者はそれらから自分自身を背かせる、また自分自身に言う、「それらは何か、ある種の儀式でないなら、それに対して(ために)神聖さが聖職者により印象付けられる(聖職者から与えられる)
nam quid ibi nisi panis et vinum? et quid nisi quam figmentum, quod corpus Christi, quod pependit super cruce, et quod sanguis Ipsius qui tunc effusus est, una cum pane et vino communicantibus distribuantur?" なぜなら、何がそこに〔あるのか〕パンとブドウ酒でないなら? 何が〔あるのか〕作り事以外でないなら、キリストの身体が、それは十字架の上にかかった、またその方の血が、それはその時、流された、パンとブドウ酒と一緒に共有する者に分配されること?」
praeter alia. ほかに他のこと。
 
(3) 訳文
699. 真のキリスト教徒のだれが、二つのそれらの典礼が聖なるものであること、それどころか、キリスト教の中の最も聖なる礼拝であることを認めないか しかし、だれも知らない、それらの神聖さがどこに住んでいるか、またはそれがどこからであるのか?
 「聖餐」の制定で、自然的な意味から、さらに知らない、キリストの肉を食べるようと、またその方の血を飲むようにと、またそれらの代わりにパンとブドウ酒が与えられること以外に。
 だれがここから、ただ主から命令されたために神聖であることと異なって考えることができるか?
 それゆえ、最も鋭敏な者が教会から、みことばを要素に加える時、典礼となることを伝えた
 しかし、その神聖さのこの起源は、理解力の中に落ち込まない、その要素または象徴の中にも見られない、しかし単に記憶の中に〔ある〕ので、そのために、ある者は信頼から、罪がそれらによって赦され、それらに出席し、ある者は、清められることを信じ、ある者は信仰を強くし、またこのように救いもまた促進するので〔出席する〕。
 けれども、それらについて重要でないと考える者は、子供時代からの単なる週間からそれらにしばしば臨む。またある者は、それらについて理性的な者を何も見ないので、それらに臨席しない。
 けれども、不信心な者はそれらから背く、また自分自身に言う、「それらは何か、ある種の儀式でないなら、そのために神聖さが聖職者から与えられる。なぜなら、パンとブドウ酒でないならそこに何が〔あるのか〕? 十字架にかかったキリストの身体が、またその時、流されたその方の血が、パンとブドウ酒と一緒に共有する者に分配されることが作り事以外でないなら何が〔あるのか〕?」ほかに他のこと〔を言う〕。