[5.] Postea locutus sum cum angelis illis de mirabilibus, quae ex influxu mundi spiritualis in naturalem existunt; [5] その後、それらの天使たちと驚くべきことについて話した、それらは霊界から自然界の中への流入が存在すること。
ut de vermibus dum fiunt papiliones, tum de apibus et fucis, et mirabilia de bombycibus, et quoque de araneis, et quod incolae telluris addicant illa luci et calori solis, et sic naturae; 例えば、チョウになる時の虫について、なおまハチと雄ハチについて、またカイコについての驚くべきこと、そしてまたクモについて、また地の住民がそれらを太陽の熱と光に帰していること、またこのように自然に。
et quod saepius miratus sum, per illa confirmant se pro natura, et per confirmationes pro natura somnum et letum inducunt mentibus, et fiunt athei. また、しばしば私が驚いたこと、それらによって自然に賛成して(のために)自分自身を確信させた、また自然に賛成して(のために)確信によって眠りと死を心にひき起こす、また無神論者になる。
Post haec narravi mirabilia de vegetabilibus, quod omnia illa a semine usque ad nova semina in justo ordine succedant, prorsus sicut terra sciret commodare et accommodare sua elementa prolifica seminis, et ex hoc educere germen, et hoc dilatare in caudicem, et ex hoc emittere ramos, et hos investire foliis, et postea insignire floribus, et ab interioribus horum initiare et producere fructus, et per hos, ut renascatur, semina ut proles. これらの後、私は植物について驚くべきことを語った、それらのすべてのものは種から新しい種まで正しい順序で続くこと、完全に地が貸し出すことと適用させることを知っているように、その種の生殖力の要素を、またこのことから芽を引き出すこと、またこれを茎(幹)の中に広げること、またこれから枝を出すこと、またこれに葉でつつむ(おおう)こと、またその後、花で飾ること、またこれらの内的なものから実を導くことと生み出すこと、またこれらによって、再生する(生まれ変わる)ように、子孫のように種を。
Sed haec quia per continuum aspectum, et perennem recursum solita, sueta et communia facta sunt, non ut mirabilia aspectant, sed ut meros effectus naturae; しかし、これらは絶え間のない見ることによって、持続するもの、繰り返すもの、普通のもの、ありふれたものと通常のものになるので、驚くべきものとして見られない、しかし自然の単なる結果として〔見る〕。
et hoc opinantur unice ex causa quia ignorant quod mundus aliquis spiritualis sit, et quod hic ab interiori operetur et actuet omnia et singula quae in mundo naturae, et super tellure ejus, existunt et formantur (et operatur sicut mens humana in corporis sensus et motus), et quod singula naturae sint sicut tunicae, vaginae et indusia, quae incingunt spiritualia, et proxime producunt effectus fini Dei Creatoris correspondentes. またこのことはひとえに理由(原因)から意見が持たれる、(ある種の)霊界があることを無視するからである、またこれが内的なものからすべてと個々のものに働きかける、また活動的にする、それらは自然界の中に、またその地の上に、存在するようになり、形成される(また、人間の心のように、身体の中の感覚、運動に働きかける)、また自然の個々のものは下着、鞘、衣服のようである、それらは霊的なものを取り囲む、またまもなく生み出す、創造の神の目的に対応する結果を。
(3) 訳文
695. 第四のメモラビリア――
死後のいのちを信じる今日の大部分の者は、さらにまた、天界の中で、彼らの思考は献身(信心)以外の、話すことは祈り以外の他のものでない、そしてこれ〔後者〕やそれ〔前者〕は顔の顔つき(要望)と身体の行動と一緒に、神の栄光以外の〔他のものではない〕と信じる。またこのように彼らの家はそれだけ多くの礼拝の家または宗教儀式の会館、またこのようにすべてのものが神の聖職者になる〔と信じる〕。
しかし、私は、そこ〔天界〕に教会の神聖さが、たとえ純粋で内的であってもそこに神の礼拝が行なわれる心と家を、世の中で以上にさらに占めていないこと、しかしそこに市民の思慮分別に属すいろいろなものがあり、また理性的な者の学識(知識)に属すいろいろなものがあり、それらはその卓越の中にある、と断言することができる。
[2] かつて、ある日、私は天界の中に上げられ、またある社会へ導かれた、そこに賢人がいた、その者は古代の時代に、理性と同時に役立ちのものであったようなものの中での研究と熟考から学識ですぐれていた、また現在、神を信じたので、また今や、主を〔信じ〕、また自分自身のように隣人を愛したので天界の中にいる。
またその後、私は彼らの集会の中へ導き入れられ、またそこで、私がどこからであるか質問された。また私は自然界の中で身体に、しかし、あなたがたの霊界の中で霊にいることを明らかにした。
これらを聞いて、それらの天使たちは喜び、また尋ねた、「そこにあなたは身体でいる世の中で、何が、〝流入〟について知り、理解されているか?」
またその時、私はそれについて、有名な話しと書かれたものから私が吸収した何かを思い出した後、私は、まだだれも霊界から自然界の中への流入を知らないこと、しかし、自然〔界〕から自然界の中への流入を〔知っている〕と答えた。例えば、太陽からの生命のある身体の中への熱と光の流入について、そのようにまた木と果実の中に、ここからこれらとそれらの活性化、また逆に、冷たさが同じものの中に〔流入すると〕そこからそれらの壊死〔があることである〕。またほかに、目の中への光の流入について、そこから視覚〔があり〕、耳の中への音の流入について、そこから聴覚〔があり〕、そしてまた鼻の中へのにおいの流入について、そこから嗅覚〔があることである〕、その他。
[3] これらのほかに、この時代の学者は、身体の中への霊魂の流入、また霊魂の中へのこの流入について、いろいろと推論し。またこれについて三つの部分の中に分かれている。すなわち、誘因的なものと呼ぶ、機会から身体の感覚の中へ作用する身体の中に霊魂の流入があるかどうか。あるいは、対象が感覚の中に、またこれらから霊魂の中へ作用するので物質的なものと名づける霊魂の中へ身体の流入があるかどうか。あるいは、身体の中へまた同時に)霊魂の中へ、それを予定されたものと名づける同時のまた即時の流入があるかどうか。
しかしながら、それぞれの者は自分の流入について、自然の内部に存在すると考えている。
ある者は霊魂がエーテルの小部分または一滴であること、ある者はそれを熱や光のボール球または小粒であること、ある者はそれ自体を脳の中に隠しているある種の存在物であることを信じる。しかし、この者やその者は、彼らに霊魂は、確かに霊的なものと呼ばれるが、しかし、霊的なものによって純粋な自然的なものが意味される〔と信じる〕、というのは、霊界についてどんなものでも知らない、また自然界の中へのこの流入について、それゆえ、自然のスフェア(範囲)の内部にとどまる〔からである〕。また、その中を上り、また下り、またその中で空中のワシのように自分自身を上げる(称賛する)。また自然の中にとどまる者は、海の中の何らかの島の原住民のようであり、その者はそれ以外に何らかの地が存在することを知らない。また、川の中の魚のようであり、その者はそれらの水の上の空気が存在することを知らない。天使や霊が住んでいる彼らから別個の世界が存在すること、そこに、またここからすべての流入が人間の中に、そしてまた、木の中に内的な〔流入がある〕を言及すると、幽霊についての幻想を、または占星術師のたわごとを聞くかように、不思議そうに立ちつくす。
[4] ほかに、私たちの世界の中の哲学者は、そこに私は身体でいるが、杯の中へのワインの流入について以外に、胃の中への食べ物と飲み物の流入について、また舌の中への味覚、そしてまた、おそらく、肺の中への空気の流入について、その他について他の流入について考えないし、話さない。
しかし、これらの者は、もし、霊界から自然界の中への流入について聞くなら、「流入すると言えば、流入すると言える☆、このことを知ることで、何が押しつけるか、また何に役立ちであるか?」と言う。
そして、立ち去り、またその後、その流入について聞いたことについて話す時、それについて、ある者が指の間で小石ともに遊ぶように遊ぶ」。
[5] その後、それらの天使たちと驚くべきことについて話した、それらは霊界から自然界の中への流入が存在することである。例えば、チョウになる時の虫について、なおまハチと雄ハチについて、またカイコについての驚くべきこと、そしてまたクモについて、また地の住民がそれらを太陽の熱と光に、またこのように自然に帰していること。また、しばしば私が、それらによって自然に賛成して自分自身を確信させ、また自然に賛成した確信によって眠りと死を心にひき起こす、また無神論者になるこのに驚いたことである。
これらの後、私は植物について驚くべきことを語った。それらのすべてのものは種から新しい種までその種の生殖力の要素を、またこのことから芽を引き出すこと、またこれを茎(幹)の中に広げること、またこれから枝を出すこと、またこれに葉でつつむこと、またその後、花で飾ること、またこれらの内的なものから実を導くことと生み出すこと、またこれらによって、生まれ変わるように、子孫のように種を。完全に地が貸し出すことと適用させることを知っているように正しい順序で続くことである
しかし、これらは絶え間く見ることによって、持続するもの、繰り返すもの、普通のもの、ありふれたものと通常のものになるので、驚くべきものとして見られない、しかし自然の単なる結果として見られる。またこのことはひとえに霊界があることを無視するという理由からその見解が抱かれる。霊界が内的なものからすべてと個々のものに働きかけ、また活動的にする、それらは自然界の中に、またその地の上に、存在するようになり、形成される(また、人間の心のように、身体の中の感覚、運動に働きかける)、また自然の個々のものは下着、鞘、衣服のようであり、それらは霊的なものを取り囲み、またまもなく、創造の神の目的に対応する結果を生み出す。
☆ 「流入する」が直接法と接続法で述べられています。日本語には「直接法と接続法」といった表現がありませんから、解説的に述べれば、もし「流入する」のが事実であれば(直接法)、「流入する」のだろう(接続法)、「流入する」といったことも考えられる(接続法)のニュアンスです。