[3.] Omnes illi qui conscientiam habent, ex corde loquuntur quae loquuntur, et ex corde faciunt quae faciunt; [3] すべての者は、彼らは、その者は良心を持っている、心から話す、それを話す、また心から行なう、それを行なう。
habent enim illi mentem non divisam, nam secundum id quod intelligunt et credunt verum et bonum esse, loquuntur et faciunt. というのは、彼らは分割された心を持たないから、なぜなら、それにしたがって、それを真理と善を理解し、信じる、話し、行なうからである。
Exinde sequitur quod conscientia perfectior possit dari apud illos, qui in veris fidei sunt prae aliis, et qui in clara perceptione prae aliis, quam apud illos qui minus illustrati sunt, et in obscura perceptione. このゆえに、いえる、彼らのもとにさらに完全な良心が存在することができる、その者は他の者よりも信仰の真理の中にいる、またその者は他の者よりも明るい知覚の中に、彼らのもとよりも、その者はより少なく照らされている、また暗い(不明瞭な)知覚の中に〔いる〕。
In vera conscientia est ipsa vita spiritualis hominis, est enim ibi ejus fides conjuncta charitati; 真の良心の中にある、人間の霊的ないのちそのものは、というのは、そこに彼の信仰は仁愛に結合しているから。
quapropter facere ex conscientia est illis facere ex vita sua spirituali; そのために、良心から行なうことは、〔良心を持つ〕彼らに〔とって〕自分の霊的ないのちから行なうことである。
et facere contra conscientiam, est illis facere contra illam suam vitam. また良心に反して行なうことは、彼らに自分のそのいのちに反して行なうことである。
Praeterea, quis non ex communi sermone scit quid conscientia? さらに、だれが通常の会話から知らないか、何が良心か?
ut cum dicitur de aliquot, "Hic conscientiam habet," nonne etiam tunc intelligitur, hic justus homo est? 例えば、いくつかのことについて言われるとき、「この者は良心を持っている」、その時、さらにまた意味されないか、この者が正しい(公正な)人間である?
ac vicissim cum dicitur de aliquot, "Hic non conscientiam habet," nonne tunc etiam intelligitur, hic injustus est?" そして逆に、いくつかのことについて言われるとき、「この者は良心を持っていない」、その時、さらにまた意味されないか、この者が不正な(不公平な)人間である?
[4.] Angelus dum haec edixerat, subito sublatus est in suum caelum, et quatuor coetus coiverunt in unum, et postquam aliquantum inter se collocuti sunt de effatus angeli, ecce interum divisi sunt in quatuor coetus, sed in alios quam prius; [4] 天使は、これらを言い表わした時、急に、自分の天界の中に上げられた、また四つの集団は一つの中にいっしょになった、またいくらか後に、自分たちの間で天使の発言について話した、見よ、再び☆四つの集団に分かれた、しかし前のものよりも他のものの中に。
☆ ここに誤植があります、interumでなくiterumです。初版は正しいです。interumが何だかわからないで、おかしいな、と思って英訳書を見ているうちに、気づきました。
なお、長島訳はこれを「内部で分離が始まり……」と訳しています。「始まる」は余計ですし、なによりもinterumなどという言葉は存在しないのに勝手に「内部で」としています。でたらめです。
in unum ubi illi qui comprehenderunt verba angeli, et assenserunt; 一つの場所の中に、彼らは、その者は天使の言葉を把握した、また同意した。
in alterum ubi illi, qui non comprehenderunt, sed usque faverunt; もう一つの場所の中に、彼らは、その者は把握しなかった、しかしそれでも好感をもった(賛同した)。
in tertium ubi illi, qui non voluerunt comprehendere, dicentes "Quid nobis cum conscientia?" 第三の場所の中に、彼らは、その者は把握することを欲しなかった、言って、「何が私たちに〔関係あるのか〕良心に?」
et in quartum ubi illi qui irridebant, dicentes, "Quid conscientia nisi flatus?" また第四の場所の中に、彼らは、その者はあざけった、言って、「何が良心か? 吹くこと(息)☆でないなら」。
☆ ここではこれは胃腸内にたまったガスを意味します、それで「げっぷ」または「おなら」です。
Et vidi illos secedentes a se invicem, et tunc duos coetus priores abeuntes ad dextrum, et duos coetus posteriores ad sinistrum; また私は彼らを見た、自分たちからお互いに去っている(離れている)、またその時、前の二つの集団が右へ去っている、また後の二つの集団は左へ。
et hos descendentes, illos autem ascendentes. またこれらの者(後者)は降っている者たち、それらの者(前者)はのぼっている者たち。
@1 conscientiam (cum Doctore Tafel,) pro “conscientia” 注1 「conscientia」の代わりにconscientiam(ターフェル博士にしたがって)
@2 Sic pro “Sit” 注2 「Sit」の代わりにSic
(3) 訳文
666. 四つの集団から言い表わされたこれらすべてを、彼らの上にいた天使たちは聞き取った。また自分たちの間で言った、「私たちは、キリスト教界の中のだれも何が良心か知らないことを知覚する。それゆえ、私たちは私たちからある者を降ろす、その者が教える」。
また直ちに、その時、彼らの真ん中に天使が、白い衣服で立った、その頭の周りに輝く帯が見られ、その中に小さな星があった。
またこの者は四つの集団に話しかけて言った。
「私たちは天界の中で聞いた、あなたがたが順に良心について表明したこと、そしてあなたがたがすべてのものを、何らかの心の苦痛であること、それは重苦しさで頭とここから身体を、または身体とここから頭を悩ますものであると思ったことを。
しかし、本質的に見られた良心は何らかの苦痛ではなく、宗教と信仰のものであるそれらにしたがって行なおうとする霊的な意志である。
ここから、良心を授けられている者は、良心にしたがって行なうとき、平和の静けさと内なる幸福(の状態)の中に、またそれに反して行なうとき、ある種の安らぎの欠如の中にいる。けれども、あなたがたは良心であると信じている心の苦痛は、良心ではなく、試練であり、それは霊と肉の戦いである。またこれが霊的である時、水脈を良心から引き寄せる(得る)。しかし、もし単に自然的であるなら、起源を医師たちがここで列挙した病気から引き寄せる(得る)」。
[2] 「けれども、何が良心か、例によって説明されることができる――
自分の群れが救われるようにとの目的のために真理を教えようとする霊的な意志がある聖職者は、良心を持っている。しかし、目的としてどんなものでも他の理由のために(教える)者は、良心を持っていない。
ひとえに公正(正義)を眺め、またこれを思慮分別をもって行なう裁判官は、良心を持っている。しかし、最初にわいろ、友情また好意を眺める者は、彼は良心を持っていない。
さらに、他の者に知られないで、またこのように法律〔からの罰〕、そして名誉と名声の損失の恐れなしに、他の者の財産を自分自身のもとに持っていて、それをもうけることができるすべての人間は、もしそれでも、自分のものでないからと他の者に戻すなら、彼は良心を持っている、なぜなら、公正のために公正を行なうからである。
このようにまた、役目の中にやって来ることができ、しかし、他の者が、その者もまた得ようとする、社会にさらに役立つことを知っている者は、もし社会の善のために他の者に場所を譲るなら、彼は良心の善を持っている。他のものも同様〔である〕。
[3] 良心を持っているすべての者は、話すものを心から話す、また行なうものを心から行なう。というのは、彼らは分割された心を持たないから、なぜなら、真理と善を理解し、それを信じ、それにしたがって、話し、行なうからである。
このゆえに、他の者よりも信仰の真理の中にいる者は、また他の者よりも明るい知覚の中にいる者は、より少なく照らされている、また暗い(不明瞭な)知覚の中に〔いる〕者よりも、さらに完全な良心が存在することができる、といえる。
人間の霊的ないのちそのものは真の良心の中にある、というのは、そこに彼の信仰は仁愛に結合しているから。そのために、良心から行なうことは、〔良心を持つ〕彼らに〔とって〕自分の霊的ないのちから行なうことである。また良心に反して行なうことは、彼らに自分のそのいのちに反して行なうことである。
さらに、だれが通常の会話から何が良心か知らないか? 例えば、いくつかのことについて、「この者は良心を持っている」と言われるとき、その時、さらにまた、この者が正しい人間であることが意味されないか? そして逆に、いくつかのことについて、「この者は良心を持っていない」と言われるとき、その時、さらにまた、この者が不正な人間であることが意味されないか?
[4] 天使は、これらを言い表わした時、急に、自分の天界の中に上げられた、また四つの集団は一つの中にいっしょになった、またいくらか後に、自分たちの間で天使の発言について話した、見よ、再び四つの集団に、しかし前のものから他のものに分かれた。一つの場所の中に、天使の言葉を把握し、また同意した者。もう一つの場所の中に、把握しなかった、しかしそれでも好感をもった者。第三の場所の中に、「何が私たちに良心と〔関係あるのか〕?」と言って把握することを欲しなかった者。また第四の場所の中に、「屁のようなものでないなら、何が良心か?」と言って、あざけった者。
また私は、自分たちからお互いに去っている、またその時、前の二つの集団が右へ、また後の二つの集団は左へ去っている彼らを見た。また後者は降っている者たち、前者はのぼっている者たちであった。
◎これで第11章は終わりです。
続いて第12章「洗礼」第13章「聖餐」第14章「新教会」、それと「追加」であり、これらはどれも1カ月以内に終えることのできる内容です。それで長かった『真のキリスト教』も今年中に終わるでしょう。