原典講読『真のキリスト教』621(直訳[11]~[13]、訳文)

(2) 直訳
[11.] De Baptismo dixerunt, quod sit lavatio spiritualis, quae est reformatio et regeneratio; [11] 「洗礼」についてらはった、霊的な洗うことであること、それは改心と再生である。
et quod infans reformetur et regeneretur, dum adultus factus facit illa quae patrini pro illo spoponderunt, quae sunt duo, Paenitentia et Fides in Deum, nam primum spondent, ut abdicet Diabolum et omnia ejus opera; また幼児改心させられ、再生される、成人したときそれらをなうそれらは教父(名親)ちが彼のために誓約した、それらの二つのものである、悔い改めと神への信仰、なぜなら、最初誓約するからである、悪魔のすべてのきをえるように
secundum, ut credat in Deum. 第二に、神を信じるように。
Omnes infantes in caelo in illa duo initiantur, sed his Diabolus est infernum, ac Deus est Dominus. 天界の中のすべての幼児はそれらの二つのものの中に導かれる、しかしこれらの者に悪魔は地獄である、そして神は主である。
Praeterea baptismus est signum coram angelis quod homo sit ab ecclesia. さらに、洗礼は天使たちの前にしるしである、人間が教会から〔の者〕であること。
His auditis dixerunt e coetu, "Haec intelligimus." これらで聞いて集団から言った、「これらを私たちは理解する」。
[12.] Sed tunc audita est vox a latere, clamans, "Non intelligimus;" [12] しかし、その時、脇(側面)から声が聞かれた、叫んで、「私たちは理解しない」。
et alia vox, "Non volumus intelligere;" また他の声、「私たちは理解することを欲しない」。
et inquisitum a quibus illae voces; また質問された(調べられた)その声がだれからか。
et compertum quod ab illis, qui apud se confirmaverunt falsa fidei, et qui voluerunt credi ut oracula, et sic adorari. また彼らから〔である〕ことがわかった、その者は自分自身のもとで信仰の虚偽を確信した、またその者は神託として信じられることを欲した、またこのように崇拝されること。
Dixerunt angeli, "Ne miremini; 天使たちは答えた、「(あなたがたは)驚くな。
tales sunt hodie permulti; このような者が、今日、非常に多い。
apparent nobis e caelo sicut sculptilia tali arte facta ut possint movere labia, ac sonare sicut organa; 私たちに天界からこのような彫像に見える、技巧でつくられた、唇を動かすことができるような、そしてオルガン(風琴)のような聞こえる音で。
et non sciunt, num halitus, ex quo sonant, ex inferno sit, vel num e caelo, quia non sciunt num falsum sit, vel num verum; また知らない、息(気体の発散物)かどうか、それから音がする、地獄からである、あるいは天界からがどうか、虚偽であるのか、あるいは真理であるのか、知らないからである。
ratiocinantur et ratiocinantur; 推論する、また推論する。
tum confirmant et confirmant, nec vident quicquam num ita sit. なおまた説明するまた説明する(証明する)どんなものも見ない、そのようなものであるのか。
Sed sciatis quod ingenium humanum possit confirmare quicquid vult, usque ut appareat sicut ita sit; しかし、あなたがたは知っている、人間の才気は何でも欲するものを確信する(証明する)ことができること、そのようであるように見られるように。
quare hoc possunt haeretici, hoc impii, immo athei quod Deus non sit sed natura sola." それゆえ、このことをできる、異端者に、このことを不信心な者に、それどころか無神論者に、神が存在しないこと、しかし、自然だけ」。
[13.] Posthac coetus ille ex Anglis accensus desiderio sapiendi, dixit ad angelos, "Loquuntur tam varia de Sacra Cena; [13] その後、賢明になる願望に刺激されたイギリス人からのその集団は、天使たちに言った、「これほどにいろいろなことが〝聖餐“について語られている。
dicite nobis quid veritas." 私たちに教えよ、何が〝真理〟か」。
Responderunt angeli, "Veritas est, quod homo, qui spectat ad Dominum, et paenitentiam agit, per sanctissimum illud conjungatur Domino, ac introducatur in caelum." 天使たちは答えた、「〝真理〟である、人間は、その者は主へ目を向ける、また悔い改めを行なう、その最も聖なるものによって主に結合されること、そして天界の中に導き入れられること」。
Sed dixerunt e coetu, "Hoc mysterium est." しかし、集団から言った、「これは奥義である」。
Et responderunt angeli, "Est mysterium, sed usque tale, ut possit intelligi. また天使たちは言った、「奥義である、しかしこのようなもの、理解されることができるような。
Panis et vinum hoc non faciunt; パンとブドウ酒がこのことを行なわない。
non aliquid sanctum est ab illis; 何らかの聖なるものは、それらからない。
sed correspondent sibi mutuo panis materialis et panis spiritualis, ac vinum materiale et vinum spirituale, et panis spiritualis est sanctum amoris, et vinum spirituale est sanctum fidei, utrumque a Domino, et utrumque Dominus. しかし、それ自体に相互に対応する、物質的なパンと霊的なパン、そして物質的なブドウ酒と霊的なブドウ酒、また霊的なパンは愛の聖なるものである、また霊的なブドウ酒は信仰の聖なるものである、両方とも主から、また両方とも主〔である〕。
Inde conjunctio Domini cum homine, et hominis cum Domino; ここから、人間との主の結合が、また主のと人間の〔結合がある〕。
non cum pane et vino, sed cum amore et fide hominis qui paenitentiam egerat; パンとブドウ酒に〔結合は〕ない、しかし、人間の愛と信仰に〔結合がある〕その者は悔い改めを行なった。
et conjunctio cum Domino est quoque introductio in caelum." また主との結合は天界の中への導入でもある」。
Et postquam angeli docuerunt illos aliquid de correspondentia, dixerunt e coetu, "Nunc primum etiam hoc possumus intelligere." また、天使たちが彼らに対応について何らかのものを教えた後、集団から言った、「今や、初めて、このこともまた私たちは理解することができる」。
Et cum hoc dixerunt, ecce flammeum e caelo cum luce descendens consociavit illos cum angelis, et amaverunt se mutuo. またこのことが言われたとき、見よ、天界から炎が光とともに降り、彼らを天使の仲間とした、また互いに愛した。
 
@1 sit pro “fit” (vidi Apoc. Rev., n. 224). 注1 fit」の代わりにsit(『啓示された黙示録』224番を見よ)に)
 
(3) 訳文
621. これらに次のメモラビリアが加えられる。第一のもの――
 
 私は霊の集団を見た、すべての者はひざまずいて、自分たちに天使を遣わし、その者と面と向かって話し、またその者に自分の心の考え明らかにするように神へ祈っていた。
 また立ち上がったとき、彼らの視野の中に立っている麻布を着た三人の天使が見られた。また彼らは言った、「主イエス・キリストがあなたがたの祈りを聞いた、またそれゆえ、私たちをあなたがたへ派遣した。私たちにあなたがたの心の考えを明らかにせよ」。
[2] また彼らは言った、「聖職者たちは私たちに言った、神学の事柄の中で理解力は力がないこと、しかし信仰〔が力があり〕、また、賢明である人間から持ってくる、また神からでない知的な信仰は適当でないこと。
 私たちはイギリス人である、また私たちは私たちの聖なる召使いから多くのものを聞いた、それらを私たちは信じた。しかし、私たちが、自分自身を改革派教会の者と呼んだ他の者と、また自分自身をローマカトリック教徒と呼んだ他の者と、さらに分派の支持者(非国教徒)と話したとき、すべての者は学問のある者に見え、またそれでも多くの事柄の中である者は他の者と一致していない、またそれでもすべての者は、「私たちを信じよ」、また他の者は、「私たちは神の召使いである、私は知っている」と言った。
 しかし、私たちは、信仰のものと呼ばれ、教会のものである神的な〝真理〟は、ある者に生まれだけからでなく、遺伝からでもなく、しかし、神により天界から、またそれは天界への道を示す、そして仁愛の善と一緒の生活を入る、またこのように永遠のいのちへ導く、と知っているので、私たちは不安になり、またひざまずいて、神へ祈った」。
 [3] その時、天使たちは答えた、「みことばを読め、また主を信じよ、するとあなたがたは〝真理〟を見る、それらがあなたがたの信仰といのちのものになる。キリスト教世界の中のすべての者は、唯一の泉からのように、みことばからその教えの事柄を汲む」。
 しかし、集団から二人の者が言った、「私たちは読んだ、しかし、理解しなかった」。
 また天使たちは答えた、「あなたがたは、みことばである主に近づいていない、そしてまた、前もってあなたがたは虚偽を確信した」。
 またさらに天使たちは言った、「光なしに信仰とは何か、また理解することなしに考えることは何か? これは人間性ではない。カラスとカササギもまた理解力なしに話しことを学ぶことができる。
 私たちはあなたがたに断言することができる、霊魂から望む人間はだれでも、光の中でみことばの〝真理〟を見ることができる。食物を見る時、それが自分のいのちの食物であることを知らない動物は存在しない。人間は理性的で霊的な動物である。この者は、自分のいのちのものを、そのように身体のものでないものを、しかし信仰の真理である霊魂の食物を見る、もしそれに飢えるなら、主からそれを求める。
 [4] さらにまた理解力で受け入れないものは何でも、これは事柄に関して記憶に残らない、しかし単に音声に関して残る。それゆえ、私たちは天界から世の中に見おろした時、私たちは何も見ないで、しかし、大部分が不調和な単なる音声を聞いた。
 しかし、私たちは聖職者からの学問のあるものが、一つは世から、もう一つは天界からの理解力への二つの道があることをらないで、理解力から遠ざけた何らかのものをすっかり語る。また主が理解力を★照らす時、世から理解力を遠ざける。しかし、もし、理解力が宗教から閉ざされるなら、彼に天界からの道は閉ざされる、またその時、人間は、みことばの中に盲人よりもさらに見ない。私たちは、穴の中に落ち込んでしまって、それらから起き上がらなかったこのような多くの者を見ている。
[5] 説明の例がある――
 あなたがたは、何が仁愛か、また何が信仰か、仁愛は隣人に善く行なうことであること、また信仰はそれについて、また教会の本質的なものについて正しく考えることであること、またここから、善く行ない、また正しく考える者は、すなわち、善く生き、また正しく信ずる者は救われることを理解することができないのか?」
 これらに彼らは、理解している、と言った。
 [6] さらに天使たちは、罪からめをなわなければならないこと、人間は救われるために、また人間が悔い改めを行なわないなら、その中に生まれている罪の中に残ること、また悔い改めを行なうことは神に反するので悪を欲しないことであり、そして年の中に一度または二度、自分自身を調べること、自分の悪を見ること、それを神の前に告白すること、助けを切願すること、それらをやめること、また新しい生活を始めることである、と言ったまたこのことをなえばなうほどまた信じれば信じるほど、それだけ罪は赦される。
 その時、集団かららはった、「これらをまたこのようにまたしかたちは理解する」。
 [7] またその時、、実際に今は、神について、霊魂の不死性(不滅)ついて、再生について、また洗礼について、自分たちをさらに教えるように天使たちに懇願した。
 天使たちはこれらに答えた、「私たちは、あなたがたが理解するものでないなら、どんなものでも言わない。そうでなければ、私たちの話し、砂の中の、またそこに種の雨のようにむだである、その種はどれほど天から水をかけられても、それでもしおれ、滅びる」。
 また彼らは「神」について言った――
 「天界にやって来るすべての、そこに場所を割り当てられている。またここから、神の観念にしたがって、永遠しさある、この観念は普遍的にすべての礼拝の中で支配しているからである。
 霊としてのについての観念、霊がエーテルまたはのようにじられるとき、空虚観念であるしかし、人間としてのについての観念、正しい観念である
 というのは、神は神的神的知恵であるからそれらのそのようなすべてのものとともにまたこれらの主体人間でありエーテルまたはではない
 天界観念は、である観念であるそのそのえるように天地であるあなたがたの観念たちのものとしい、私たちは仲間となる」。
 これらをらがったとき、〔聞いた〕彼らのいた
 [8] 「霊魂不滅についてらはった――
「人間永遠きる、愛信仰によって結合されることができるからであるこのことをだれもができるこの可能性霊魂不滅をつくることをもしそのことについて多少でも深くあなたがたがえるならあなたがたは理解することができる」。
 [9] 「再生」について――
 「神が存在することを教えられただけで、それぞれの人間に神について考える、また考えない自由があることを、だれが見ないか? 
市民的なものと自然的なものの中のようにと等しく、霊的なものの中にも、そのような自由がある。
 主はこれを絶えずすべての者に与える。それゆえ、もし考えないなら罪が生ずる。
 人間はこの可能性から人間である、しかし、獣はこの可能性がないことから獣である。
 それゆえ、人間は、心から主からであることを認めさえすれば、自分自身を自分自身からのように改心することと再生することができる。
 悔い改めを行ない、主を信じるすべての者は、改心され、再生される〔が、その〕二つとも人間は自分自身からのように行なわなければならない、しかし「自分自身からのように」は、主からである。
 人間が自分自身からそれへ向けてどんなものにも少しも寄与することができないことは真理である。しかしながら、あなたがたは、それを主からあなたがたからのように行なうために、彫像〔として〕創造されていない、しかし人間〔として〕創造されている。この独特ななものは愛と信仰の相互のものであり、それを主は、人間からご自分に生じるために確かに欲している。
 一言でいえば、あなたがたから行なえ、また主からであることを信じよ。このように、あなたがたはあなたがたからのように行なう」。
 [10] しかし、その時、彼らは、自分自身からのように行なうことは、創造から人間に植え付けられているか質問した。
 天使は答えた、「植え付けられていない、自分自身から行なうことは神だけのものであるからである。しかし、絶えず与えられる、これは絶えず結び付けられる、またその時、人間は自分自身からのように善を行えば行なうほど、また真理を信じれば信じるほど、〔それだけ〕天界の天使である。しかし、悪を行なエば行なうほど、またここから虚偽を、そしてまた自分自身からであることを信じれば信じるほど、それだけ地獄の霊である。
 このこともまた自分自身からのようにであることを、あなたがたは驚く、しかしそれでも、あなたがたは、あなたがたが惑わされないように、ユダの中へのようにあなたがたの中に入らないように、あなたがたをすべての不正が満たし、そして霊魂と身体を滅ぼさないように、あなたがたが悪魔から守られるように祈る時、このことを見る。しかし、善あるいは悪であるものを自分自身から行なう、と信じるすべての者に罪が生ずる。しかし、自分自身からのように行なう、と信じる者に罪が生じない。なぜなら、自分自身から善を行なう、と信ずるなら、神のものであるものを自分自身に要求するからである。また、もし、自分自身から悪を行なう、と信ずるなら、悪魔のものであるものを自分自身に帰すからである。
 [11] 「洗礼」についてらは、霊的に洗うこと、それは改心と再生である、と言ったまた幼児、教父(名親)ちが彼のために、誓約した二つのもの、悔い改めと神への信仰を、成人したときそれらをなう時、改心させられ、再生される、なぜなら、最初、悪魔のすべてのきをえるように、第二、神じるように、誓約するからである。
 天界のすべての幼児はそれらのつのもののかれるしかしこれらの悪魔地獄でありそしてである
 さらに、洗礼天使たちの、人間教会からのであることのしるしである
 これらをいて集団からった、「これらをたちは理解する」。
 [12] しかしその時、脇から、「私たちは理解しない」と叫んでいるが、また、「私たちは理解することをしない」〔という〕他声が聞かれた。またそのがだれからか調べられた。自分自身のもとで信仰虚偽確信したまたその神託としてじられることをまたこのように崇拝されることをしたからであることがわかった
 天使たちはえた、「驚くいてはならないこのような、今日、非常。天界からたちに、技巧によって、唇かしそしてオルガンのような音を出すことができるような彫像えるまたそこからの地獄からあるいは天界からの発散物かどうからない、虚偽であるのかあるいは真理であるのか、知らないからである。推論、推論するなおまたそのようなものであるのかどんなものもないで、説明、説明する
しかしあなたがたは、人間才気でもするものをそのようであるようにられるように証明することができることをっているそれゆえこのことを、異端者このことを不信心にできるそれどころか無神論者、神存在しないことしかし、自然だけ存在することを証明することができる〕」。
 [13] その後、賢明になる願望に刺激されたイギリス人からのその集団は、天使たちに言った、「これほどにいろいろなことが〝聖餐“について語られている。私たちにえよ、何〝真理〟」。
 天使たちはえた、「主、悔めをなう人間そのなるものによって結合されることそして天界れられることは〝真理〟である」。
 しかし、集団からった、「これは奥義である」。
 また天使たちはった、「奥義であるしかし、理解されることができるようなものである
 パンとブドウは、このことをなわないそれらからは、何らかのなるものはないしかし、相互、物質的なパンと霊的なパンそして物質的なブドウ霊的なブドウ酒に対応する、霊的なパンはなるものでりまた霊的なブドウ信仰なるものでり、両方ともからまた両方とも主〔である〕。
 ここから、人間との主の結合が、また主のと人間の〔結合がある〕。パンとブドウ酒に〔結合は〕ない、しかし、悔い改めを行なった人間の愛と信仰に〔結合がある〕。また主との結合は天界の中への導入でもある」。
 また、天使たちが彼らに対応について何らかのものを教えた後、集団から言った、「今や、初めて、このこともまた私たちは理解することができる」。
 またこのことが言われたとき、見よ、天界から炎が光とともに降り、彼らを天使の仲間とした、また互いに愛した。
 
直訳の時、ここillumを「彼を」とし、間違えました。「それを」が正しいです、すなわち、「理解力を」です。