(3) 訳文
570. 第四のメモラビリア――
かつて私は新参の霊と話した、その者は世の中にいた時、天界と地獄について多くのものを熟考した。
新参の霊によって新たに死んだ人間が意味される、その者はその時、霊と呼ばれる霊的な人間であるからである。
彼は、霊界の中に入るとすぐに、天界と地獄について同様に熟考し始めた。また自分自身に、天界について〔熟考する〕とき、喜びの中に、また地獄について〔熟考する〕とき、悲しみの中に〔いるように〕見られた、彼は自分自身が霊界の中にいることを認めたとき、直ちに、天界がどこに、地獄がどこに、なおまた一つのもう一つが何か、どんなものか求めた。
〔そこにいる彼らは〕答えた、「天界はあなたの頭の上方にある、また地獄はあなたの足の下方にある、というのは、今や、あなたは天界と地獄の中央にある霊たちの世界の中にいるから。しかし、天界が何でどんなものか、また地獄が何でどんなものか、私たちは簡単に述べることができない。
その時、知ることの願望が燃え立ったので、ひざまづき、教えられるようにと、神に信心深く祈った。
すると、見よ、天使が右に現われ、彼を起こし、言った、「あなたは天界と地獄について教えられるようにと懇願した。何が「快さ」か探求し、学べ、するとあなたは知る」。
天使は、これらを言って、上げられた。
[2] その時、新参の霊は自分自身に言った、「これは何か、『何が快さか探求し、学べ、するとあなたは天界と地獄が何でどんなものか知る』?」
じきに、その場所から立ち去って、歩きまわった、また出会った者に話しかけて、言った、「お願いがあります、もしよろしかったら、何が快さか言ってください」。
また、ある者は言った、「この質問は何か、どんなものか? 何が快さか、だれが知らないか? 楽しさと喜びではないのか? それゆえ、あるものがもう一つのように、快さは快さである、私たちは違いを知らない。
他の者たちは、快さは心のほほえみであることを言った。「というのは、心がほほえむ時、顔は機嫌がよく、話し方は冗談まじりで、身ぶりはふざけている、また人間全体は快さの中にいるから。
けれども、ある者たちは言った、「快さは、宴会〔に出て〕、ごちそうを食べ、そして銘酒を飲んで酔うこと、またその時、いろいろな事柄についてお、特にウェヌスとクピドー(愛欲と欲望)☆の遊びについてしゃべりすること以外の他のものでは決してない」。
[3] これらを聞いて、憤慨した新参の霊は自分自身に言った、「これらの答えは田舎者のものである、また都会のものではない。これらの快さは天界でも地獄でもない。私は賢明な者に出会えればよいのに」。
彼らから去り、求めた、「賢明な者はどこに?」
また、その時、〔彼は〕天使的なある霊により見られた、その者は言った、「私は、あなたが天界の全般的なものまた地獄の全般的なものを知る願望にかき立てられていることを知覚した。またこのこと〔天界と地獄〕は快さであるので、私はあなたを丘の上に導く。そこに毎日、結果を調べる者、また原因を探し求める者、また目的を見つけ出す者が集まる――
また彼らは、その者は原因を求める、また彼らは、その者は目的を探し出す――
結果を調べる者は、知識の霊、また抽象的に「知識」と呼ばれる。原因を探し求める者は、知的な霊、また抽象的に「知性」と呼ばれる。目的を見つけ出す者は、知恵の霊、また抽象的に「知恵」と呼ばれる。彼らのまっ直ぐ上方に、天界の中に天使がいる、彼らは目的から原因を、また原因から結果を見る。これらの天使から、それらの三つの集団に照らしがある」。
[4] その時、彼は、新参の霊を、手をつかまえて、丘の上へ、また集団へ導いた、彼らは目的を調べる(見つけ出す)、また知恵と呼ばれる者たちであった。
彼らに言った、「私があなたがたへ上ることを許してください。その理由は、私は私の子供時代から天界と地獄について熟考したからです、またこの世界の中に近ごろ私はやって来て、私と仲間となったある者が、その時、ここに天界は私の頭の上方にある、そして地獄は私の足の下方にあると言った、しかし、一つともう一つのものが何か、どんなものか言いませんでした。 それゆえ、それらについて不断の思考から悩まされて、私は神に祈りました、またその時、天使がそばに立ち、また言いました、「何が「快さ」か探求し、学べ、するとあなたは知る」。
私は探求しました、しかし、依然としてむだ(むなしい)です――それで、お願いがあります、それでよろしかったら、何が快さかあなたがたが私を教えでください」。
[5] これに「知恵(の霊たち)」が答えた、「快さは、天界の中のすべての者のいのちのすべてである、また地獄の中のすべての者のいのちのすべてである――天界の中にいる者に、善と真理の快さがある。けれども、地獄の中にいる者に、悪と虚偽の快さがある。というのは、すべての快さは愛のものであり、また愛は人間のいのちのエッセ(存在)であるから。それゆえ、人間が自分の愛のどんなものかにしたがって人間であるように、そのように人間は自分の快さのどんなものかにしたがって人間である。愛の活動が快さの感覚をつくる。天界の中でその活動は知恵をともにある、また地獄の中でその活動は狂気をともにある。両方のものはその対象の中に快さを引き起こす。
けれども、天界のものと地獄のもの対立する快さの中にある。天界のものは善の愛の中に、またここから善を行なう快さの中に〔ある〕、けれども、地獄のものは悪の愛の中に、またここから悪を行なう快さの中に〔ある〕――それで、もしあなたが何が快さか知るなら、あなたは天界と地獄が何でどんなものであるか知るでしょう。
[6] 「しかし、何が快さか、原因を探し求める者た「知性」と呼ばれる者から、探求し、学べ。〔彼らは〕この場所から右側にいる」。
私は去り、また近づき、到来の理由を言い、何が快さか教えるように懇願した。
またこれらの者は質問からうれしがって言った、「真理である、快さを知る者が天界と地獄が何でどんなものであるか知るであろうこと。
意志は、それ〔意志〕から人間は人間であり、快さからでないなら、決して一瞬も歩きまわらない。なぜなら、本質的に眺められた意志は、愛の、そのように、快さの何らかの情愛でしかないから。というのは、何らかの心地よさとここからのえり好み(選択)であり、それが欲することを行なうから。また、意志は理解力を考えることへ駆り立てる、また意志の快さの流れ入るものからでないなら、最小量の思考も存在しない。
そのようであることの理由は、主は自分自身から流入によって、天使、霊、また人間のもとのすべての霊魂とすべての心を拍動させ、また愛と知恵の流入によって活動させ、またこの流入は活動そのものであり、それ〔活動〕からすべての快さがあり、その起源の中で祝福・至福・幸福と呼ばれ、また派生物の中で快さ、楽しさ・心地よさ、また全般的な意味で「善」と呼ばれるからである
しかし、地獄の霊は自分自身のもとのすべてのものを、そのように善を悪の中へ、また真理を虚偽の中へ、常に快さを持続しながら、逆にする。なぜなら、快さの持続なしに、彼らに意志は、感覚もなく、そのようにいのちはなかったであろうからである。
これらから、地獄の快さが何またどんなものか、またどこからか、なおまた天界の快さが何か、(また)どんなものか、またどこからであるか、明らかである。
[7] これらで聞いて、第三の集団へ導かれた、そこに結果を調べ、また「知識」と呼ばれる者がいた。
また、これらの者は言った、「より低い地の中に下れ、またより高い地の中に上れ、これらからあなたは、天界と地獄の快感を知覚し、感る」。
しかし、見よ、その時、隔たりに向かって(=ある程度の距離のところに)、その隔たりから地が開き、裂け目から三人の悪魔が、彼らの愛の快さから燃え立って上った。また新参の霊に仲間となった天使は、彼ら三人は摂理から、地獄から上ったことを知覚し、悪魔たちに叫んだ、「さらに近く、近づくな。しかし、あなたがたがいるその場所から、あなたがたの快さについて何らかのものを語れ」。
また、彼らは答えた、「それぞれの者が、あるいは善良な者あるいは悪い者と言われる、自分の快さの中にいることを知るとよい。善良な者と呼ばれる者は、自分のものの〔善の〕中に、また悪い者と呼ばれる者は、自分のものの〔悪の〕中に〔いる〕」。
また、質問した、「あなたがたの快さは何か?」
彼らは、淫行し、復讐し、だまし、冒涜する快さであったことを言った。
また再び質問した、「それらの快さはあなたがたに〔とって〕どんなものであるのか?」
彼らは言った、「他の者により、糞からの悪臭のように、また死体からの腐臭のように、またよどんだ尿からの臭いのように感じられる」。
また、質問した、「それらがあなたがたに快いものである〔のか〕?」
言った、「極めて快いものである」。
また言った、「その時、あなたがたは不潔な獣である、その獣はそれらの中で時を過ごす」。
また答えた、「もし私たちがそうである〔と思う〕なら、私たちはそうである☆。しかし、そのようなものが私たちの鼻を歓喜(するもの)である」。
また質問した、「もっと〔ほかに〕何が〔あるか〕?」
言った、それぞれの者が自分の快ささらにまた最も不潔なものと呼ぶような快さにの中にいることが、善い霊と天使を攻撃しないかぎり赦されていること。「しかし、私たちの快さから、他の者を攻撃すること以外に異なってできない、〔そうするとき〕私たちは強制収容所に中に投げ込まれ、そこできびしいことを被る。そこに私たちの快さの抑制と引っ込めることがある、〔それは〕地獄の責め苦と呼ばれ、そしてまた内的な苦しみである」。
また質問した、「なぜ、あなたがたは善良な者を攻撃するのか?」
言った、異なってできないこと。「私たちがある天使を見る、また彼らのまわりの主の神的なスフェアを感じる時、激怒が私たちに入り込むようである」。
そのことに私たちは言った、「その時、あなたがたもまた野獣のようである」。
またじきに、彼らが天使とともに新参の霊を見るとき、悪魔に激怒が出てきた、それは憎しみの火のように見えた。
それゆえ、害を加えないように、地獄の中へ投げ返された。
この後、目的から原因を、また原因を通して結果を見た天使たちが現われた、その者はそれらの三つの集団の上方の天界の中にいた、またこれらの者は白く輝く光の中で見られ、その光は曲がったらせん形を通って転がり落ち、〔天使は〕円形の花冠を持ってきた、(また花で)また新参の霊の頭の上に置いた。またその時、彼にここから声があった、「あなたは子供時代から天界と地獄について熟考したので、その理由のために、この月桂冠があなたに与えられる」。
☆ ウェヌスは別名ヴィーナス(ミロのヴィーナスが有名)であり、愛と美の女神です。クピドーは別名キューピッドです(恋の橋渡し役)。ここは砕けて言えば(自分自身のまた他人の)「恋愛談議」です。
☆ 接続法と直接法「もし私たちがそうであるなら、そうである」
原文はSi simus, sumusであり、直訳すれば「もし、私たちであるなら、私たちである」です。ラテン語にこのように簡潔でしかも明快な表現法、すなわち、接続法と直接法があることに、感心してしまいます。これを日本語で「そのようなもの〝である〟なら、そのようなもの〝である〟かもしれない」と言えば、これで意味が通じます、それでもこの二つの〝である〟の間に接続法と直接法が使われていて、しかも意味を持っています。すなわち認識上の「である」(接続法)、「あなたはそう思うかもしれない」というニュアンスと、事実上の「である」(直接法)、「それでもこれが私たちの実態である」のニュアンスです。このニュアンスの違いを、接続法と直接法を並び立てて明確にしかも簡略に表現しています。