(3) 訳文
570. 第四のメモラビリア――
かつて私は新参の霊と話した、その者は世の中にいた時、天界と地獄について多くのものを熟考した。
新参の霊によって新たに死んだ人間が意味される、その者はその時、霊と呼ばれる霊的な人間であるからである。
彼は、霊界の中に入るとすぐに、天界と地獄について同様に熟考し始めた。また自分自身に、天界について〔熟考する〕とき、喜びの中に、また地獄について〔熟考する〕とき、悲しみの中に〔いるように〕見られた、彼は自分自身が霊界の中にいることを認めたとき、直ちに、天界がどこに、地獄がどこに、なおまた一つのもう一つが何か、どんなものか求めた。
〔そこにいる彼らは〕答えた、「天界はあなたの頭の上方にある、また地獄はあなたの足の下方にある、というのは、今や、あなたは天界と地獄の中央にある霊たちの世界の中にいるから。しかし、天界が何でどんなものか、また地獄が何でどんなものか、私たちは簡単に述べることができない。
その時、知ることの願望が燃え立ったので、ひざまづき、教えられるようにと、神に信心深く祈った。
すると、見よ、天使が右に現われ、彼を起こし、言った、「あなたは天界と地獄について教えられるようにと懇願した。何が「快さ」か探求し、学べ、するとあなたは知る」。
天使は、これらを言って、上げられた。
[2] その時、新参の霊は自分自身に言った、「これは何か、『何が快さか探求し、学べ、するとあなたは天界と地獄が何でどんなものか知る』?」
じきに、その場所から立ち去って、歩きまわった、また出会った者に話しかけて、言った、「お願いがあります、もしよろしかったら、何が快さか言ってください」。
また、ある者は言った、「この質問は何か、どんなものか? 何が快さか、だれが知らないか? 楽しさと喜びではないのか? それゆえ、あるものがもう一つのように、快さは快さである、私たちは違いを知らない。
他の者たちは、快さは心のほほえみであることを言った。「というのは、心がほほえむ時、顔は機嫌がよく、話し方は冗談まじりで、身ぶりはふざけている、また人間全体は快さの中にいるから。
けれども、ある者たちは言った、「快さは、宴会〔に出て〕、ごちそうを食べ、そして銘酒を飲んで酔うこと、またその時、いろいろな事柄についてお、特にウェヌスとクピドー(愛欲と欲望)☆の遊びについてしゃべりすること以外の他のものでは決してない」。
[3] これらを聞いて、憤慨した新参の霊は自分自身に言った、「これらの答えは田舎者のものである、また都会のものではない。これらの快さは天界でも地獄でもない。私は賢明な者に出会えればよいのに」。
彼らから去り、求めた、「賢明な者はどこに?」
また、その時、〔彼は〕天使的なある霊により見られた、その者は言った、「私は、あなたが天界の全般的なものまた地獄の全般的なものを知る願望にかき立てられていることを知覚した。またこのこと〔天界と地獄〕は快さであるので、私はあなたを丘の上に導く。そこに毎日、結果を調べる者、また原因を探し求める者、また目的を見つけ出す者が集まる――
また彼らは、その者は原因を求める、また彼らは、その者は目的を探し出す――
結果を調べる者は、知識の霊、また抽象的に「知識」と呼ばれる。原因を探し求める者は、知的な霊、また抽象的に「知性」と呼ばれる。目的を見つけ出す者は、知恵の霊、また抽象的に「知恵」と呼ばれる。彼らのまっ直ぐ上方に、天界の中に天使がいる、彼らは目的から原因を、また原因から結果を見る。これらの天使から、それらの三つの集団に照らしがある」。
[4] その時、彼は、新参の霊を、手をつかまえて、丘の上へ、また集団へ導いた、彼らは目的を調べる(見つけ出す)、また知恵と呼ばれる者たちであった。
彼らに言った、「私があなたがたへ上ることを許してください。その理由は、私は私の子供時代から天界と地獄について熟考したからです、またこの世界の中に近ごろ私はやって来て、私と仲間となったある者が、その時、ここに天界は私の頭の上方にある、そして地獄は私の足の下方にあると言った、しかし、一つともう一つのものが何か、どんなものか言いませんでした。 それゆえ、それらについて不断の思考から悩まされて、私は神に祈りました、またその時、天使がそばに立ち、また言いました、「何が「快さ」か探求し、学べ、するとあなたは知る」。
私は探求しました、しかし、依然としてむだ(むなしい)です――それで、お願いがあります、それでよろしかったら、何が快さかあなたがたが私を教えでください」。
[5] これに「知恵(の霊たち)」が答えた、「快さは、天界の中のすべての者のいのちのすべてである、また地獄の中のすべての者のいのちのすべてである――天界の中にいる者に、善と真理の快さがある。けれども、地獄の中にいる者に、悪と虚偽の快さがある。というのは、すべての快さは愛のものであり、また愛は人間のいのちのエッセ(存在)であるから。それゆえ、人間が自分の愛のどんなものかにしたがって人間であるように、そのように人間は自分の快さのどんなものかにしたがって人間である。愛の活動が快さの感覚をつくる。天界の中でその活動は知恵をともにある、また地獄の中でその活動は狂気をともにある。両方のものはその対象の中に快さを引き起こす。
けれども、天界のものと地獄のもの対立する快さの中にある。天界のものは善の愛の中に、またここから善を行なう快さの中に〔ある〕、けれども、地獄のものは悪の愛の中に、またここから悪を行なう快さの中に〔ある〕――それで、もしあなたが何が快さか知るなら、あなたは天界と地獄が何でどんなものであるか知るでしょう。
[6] 「しかし、何が快さか、原因を探し求める者た「知性」と呼ばれる者から、探求し、学べ。〔彼らは〕この場所から右側にいる」。
私は去り、また近づき、到来の理由を言い、何が快さか教えるように懇願した。
またこれらの者は質問からうれしがって言った、「真理である、快さを知る者が天界と地獄が何でどんなものであるか知るであろうこと。
意志は、それ〔意志〕から人間は人間であり、快さからでないなら、決して一瞬も歩きまわらない。なぜなら、本質的に眺められた意志は、愛の、そのように、快さの何らかの情愛でしかないから。というのは、何らかの心地よさとここからのえり好み(選択)であり、それが欲することを行なうから。また、意志は理解力を考えることへ駆り立てる、また意志の快さの流れ入るものからでないなら、最小量の思考も存在しない。
そのようであることの理由は、主は自分自身から流入によって、天使、霊、また人間のもとのすべての霊魂とすべての心を拍動させ、また愛と知恵の流入によって活動させ、またこの流入は活動そのものであり、それ〔活動〕からすべての快さがあり、その起源の中で祝福・至福・幸福と呼ばれ、また派生物の中で快さ、楽しさ・心地よさ、また全般的な意味で「善」と呼ばれるからである
しかし、地獄の霊は自分自身のもとのすべてのものを、そのように善を悪の中へ、また真理を虚偽の中へ、常に快さを持続しながら、逆にする。なぜなら、快さの持続なしに、彼らに意志は、感覚もなく、そのようにいのちはなかったであろうからである。
これらから、地獄の快さが何またどんなものか、またどこからか、なおまた天界の快さが何か、(また)どんなものか、またどこからであるか、明らかである。
[7] これらで聞いて、第三の集団へ導かれた、そこに結果を調べ、また「知識」と呼ばれる者がいた。
また、これらの者は言った、「より低い地の中に下れ、またより高い地の中に上れ、これらからあなたは、天界と地獄の快感を知覚し、感る」。
しかし、見よ、その時、隔たりに向かって(=ある程度の距離のところに)、その隔たりから地が開き、裂け目から三人の悪魔が、彼らの愛の快さから燃え立って上った。また新参の霊に仲間となった天使は、彼ら三人は摂理から、地獄から上ったことを知覚し、悪魔たちに叫んだ、「さらに近く、近づくな。しかし、あなたがたがいるその場所から、あなたがたの快さについて何らかのものを語れ」。
また、彼らは答えた、「それぞれの者が、あるいは善良な者あるいは悪い者と言われる、自分の快さの中にいることを知るとよい。善良な者と呼ばれる者は、自分のものの〔善の〕中に、また悪い者と呼ばれる者は、自分のものの〔悪の〕中に〔いる〕」。
また、質問した、「あなたがたの快さは何か?」
彼らは、淫行し、復讐し、だまし、冒涜する快さであったことを言った。
また再び質問した、「それらの快さはあなたがたに〔とって〕どんなものであるのか?」
彼らは言った、「他の者により、糞からの悪臭のように、また死体からの腐臭のように、またよどんだ尿からの臭いのように感じられる」。
また、質問した、「それらがあなたがたに快いものである〔のか〕?」
言った、「極めて快いものである」。
また言った、「その時、あなたがたは不潔な獣である、その獣はそれらの中で時を過ごす」。
また答えた、「もし私たちがそうである〔と思う〕なら、私たちはそうである☆。しかし、そのようなものが私たちの鼻を歓喜(するもの)である」。
また質問した、「もっと〔ほかに〕何が〔あるか〕?」
言った、それぞれの者が自分の快ささらにまた最も不潔なものと呼ぶような快さにの中にいることが、善い霊と天使を攻撃しないかぎり赦されていること。「しかし、私たちの快さから、他の者を攻撃すること以外に異なってできない、〔そうするとき〕私たちは強制収容所に中に投げ込まれ、そこできびしいことを被る。そこに私たちの快さの抑制と引っ込めることがある、〔それは〕地獄の責め苦と呼ばれ、そしてまた内的な苦しみである」。
また質問した、「なぜ、あなたがたは善良な者を攻撃するのか?」
言った、異なってできないこと。「私たちがある天使を見る、また彼らのまわりの主の神的なスフェアを感じる時、激怒が私たちに入り込むようである」。
そのことに私たちは言った、「その時、あなたがたもまた野獣のようである」。
またじきに、彼らが天使とともに新参の霊を見るとき、悪魔に激怒が出てきた、それは憎しみの火のように見えた。
それゆえ、害を加えないように、地獄の中へ投げ返された。
この後、目的から原因を、また原因を通して結果を見た天使たちが現われた、その者はそれらの三つの集団の上方の天界の中にいた、またこれらの者は白く輝く光の中で見られ、その光は曲がったらせん形を通って転がり落ち、〔天使は〕円形の花冠を持ってきた、(また花で)また新参の霊の頭の上に置いた。またその時、彼にここから声があった、「あなたは子供時代から天界と地獄について熟考したので、その理由のために、この月桂冠があなたに与えられる」。
☆ ウェヌスは別名ヴィーナス(ミロのヴィーナスが有名)であり、愛と美の女神です。クピドーは別名キューピッドです(恋の橋渡し役)。ここは砕けて言えば(自分自身のまた他人の)「恋愛談議」です。
☆ 接続法と直接法「もし私たちがそうであるなら、そうである」
原文はSi simus, sumusであり、直訳すれば「もし、私たちであるなら、私たちである」です。ラテン語にこのように簡潔でしかも明快な表現法、すなわち、接続法と直接法があることに、感心してしまいます。これを日本語で「そのようなもの〝である〟なら、そのようなもの〝である〟かもしれない」と言えば、これで意味が通じます、それでもこの二つの〝である〟の間に接続法と直接法が使われていて、しかも意味を持っています。すなわち認識上の「である」(接続法)、「あなたはそう思うかもしれない」というニュアンスと、事実上の「である」(直接法)、「それでもこれが私たちの実態である」のニュアンスです。このニュアンスの違いを、接続法と直接法を並び立てて明確にしかも簡略に表現しています。
月: 2015年6月
原典講読『真のキリスト教』571,572
(1) 原文
571. Postquam de Paenitentia actum est, sequitur in suo ordine de Reformatione et Regeneratione, quia hae paenitentiam sequuntur, et per paenitentiam promovent gradus. Sunt duo status, quos homo ingressurus et subiturus est, dum a naturali fit spiritualis. Primus status vocatur Reformatio, et alter Regeneratio. Homo in primo statu a naturali suo spectat ad spiritualem, et hunc desiderat; in altero statu fit spiritualis naturalis. Primus status formatur per vera quae erunt fidei, per quae spectat ad charitatem; alter status formatur per bona charitatis, et ab his intrat in vera fidei: seu quod idem est, primus status est cogitationis ex intellectu, alter autem est amoris ex voluntate. Quando hic status inchoat et progreditur, fit mutatio in mente, nam fit versura, quia tunc amor voluntatis influit in intellectum, ac agit et ducit illum ad cogitandum concorditer et congrue suo amori. Quare quantum tunc bonum amoris primas partes agit, et vera fidei secundas, tantum est homo spiritualis, et est nova creatura: et tunc ex charitate agit, et ex fide loquitur, et sentit bonum charitatis, et percipit verum fidei; et est tunc in Domino, inque pace, et sic regeneratus. Homo, qui in mundo primum statum inchoavit, ille post mortem potest introduci in alterum; at qui non in primum statum in mundo intravit, ille post mortem non potest in alterum introduci, ita non regenerari. Duo hi status comparari possunt cum progressione lucis et caloris in diebus tempore veris; primus cum diluculo seu [1]gallinaceo; alter cum mane et aurora, et progressio hujus status cum progressione diei ad meridiem, et sic in lucem et calorem. Comparari etiam potest cum messe, quae primum est herba, deinde crescit in aristas et spicas, et postea in his fit frumentum. Tum etiam cum arbore; quae primum ex semine e terra excrescit, postea fit caulis, e quo exeunt rami, et hi exornantur foliis, et dein efflorescit, et ex intimo florum initiat fructus, qui sicut maturescunt, nova semina, sicut novas proles, producunt. Status primus, qui est reformationis, etiam comparari potest cum statu bombycis, quando extrahit ex se et evolvit stamina serici, et post industrium suum laborem evolat in aerem, et se, non ut prius ex foliis, sed ex succis in floribus, nutrit.
@1 “gallinaceo:”―sic ed. prin.; forte praetuleris “gallicinio”
(2) 直訳
571. Postquam de Paenitentia actum est, sequitur in suo ordine de Reformatione et Regeneratione, quia hae paenitentiam sequuntur, et per paenitentiam promovent gradus. 悔い改めについて扱われた後、その順序で(適切な順序で)続けられる、改心と再生について、これらが悔い改めに続けられるから、また悔い改めによって段階を進める。
Sunt duo status, quos homo ingressurus et subiturus est, dum a naturali fit spiritualis. 二つの状態がある、それらを人間は入る、また上らなければならない、自然的なものから霊的なものになるとき。
Primus status vocatur Reformatio, et alter Regeneratio. 最初(第一)の状態は「改心」と呼ばれる、またもう一つ(第二)の〔状態〕は再生。
Homo in primo statu a naturali suo spectat ad spiritualem, et hunc desiderat; 人間は最初(第一)の状態の中で自分の自然的なものから霊的なものを眺める、またこれを願う。
in altero statu fit spiritualis naturalis. もう一つ(第二)の状態の中で霊的自然的なものになる。
Primus status formatur per vera quae erunt fidei, per quae spectat ad charitatem; 最初(第一)の状態は真理によって形成される、それは信仰のものとなる(未来☆)、それによって仁愛へ目を向ける。
☆ 未来形が使われているので一見妙ですが、この後、再生が行なわれる、そこから「本来」の信仰が生まれるので、それを見越しての未来形でしょう。
alter status formatur per bona charitatis, et ab his intrat in vera fidei: もう一つ(第二)の状態は仁愛の善によって形成される、またこれらから信仰の真理の中に入る。
seu quod idem est, primus status est cogitationis ex intellectu, alter autem est amoris ex voluntate. または同じことであること、最初(第一)の状態は理解力からの思考のものである、けれどももう一つ(第二)の〔状態〕は意志からの愛のものである。
Quando hic status inchoat et progreditur, fit mutatio in mente, nam fit versura, quia tunc amor voluntatis influit in intellectum, ac agit et ducit illum ad cogitandum concorditer et congrue suo amori. この〔後者の〕状態が始まり、進む時、心の中で変化が生ずる、なぜなら、逆転が生ずるから、その時、意志の愛が理解力の中に流入する、そして働き、またそれを導く、考えることへ向けて、調和してまた一致して、その愛に。
Quare quantum tunc bonum amoris primas partes agit, et vera fidei secundas, tantum est homo spiritualis, et est nova creatura: それゆえ、その時、どれだけ愛の善が第一の部分で働くかによって、また信仰の真理が第二の〔部分で〕、それだけ人間は霊的である、また新しい被造物である。
et tunc ex charitate agit, et ex fide loquitur, et sentit bonum charitatis, et percipit verum fidei; またその時、仁愛から行動する、また信仰から話す、また仁愛の善を感じる、また信仰の真理を知覚する。
et est tunc in Domino, inque pace, et sic regeneratus. またその時、主の中にいる、そして平和の中に、またこのように再生されている。
Homo, qui in mundo primum statum inchoavit, ille post mortem potest introduci in alterum; 人間は、その者は世の中で最初の状態を始めた、彼は、死後、第二の〔状態の〕中に導き入れられることができる。
at qui non in primum statum in mundo intravit, ille post mortem non potest in alterum introduci, ita non regenerari. しかし、最初の状態の中に世の中で入れられなかった者は、彼は、死後、第二の〔状態の〕中に導き入れられることができない、そのように再生されることが。
Duo hi status comparari possunt cum progressione lucis et caloris in diebus tempore veris; この二つの状態は光と熱の進行にたとえられることができる、春の時の日の中の。
primus cum diluculo seu [1]gallinaceo; 最初(第一)の〔状態〕は黎明(夜明け)またはおんどりの鳴く時のとき。
alter cum mane et aurora, et progressio hujus status cum progressione diei ad meridiem, et sic in lucem et calorem. もう一つ(第二)の〔状態〕は朝とあけぼののとき、またこの状態の進行は真昼へ向かって日の進行とともに〔である〕、またこのように光と熱の中へ。
Comparari etiam potest cum messe, quae primum est herba, deinde crescit in aristas et spicas, et postea in his fit frumentum. さらにまた、収穫物にたとえられることができる、それは最初、草本である、その後、のぎや穂の中で増える、またその後(続いて)、これらの中に穀物を生ずる。
Tum etiam cum arbore; なおまた、木にもまた。
quae primum ex semine e terra excrescit, postea fit caulis, e quo exeunt rami, et hi exornantur foliis, et dein efflorescit, et ex intimo florum initiat fructus, qui sicut maturescunt, nova semina, sicut novas proles, producunt. それは最初、地からの種から生長する、幹を生じた後、それから枝が出る、またこれらは葉で飾られる、またその後、花咲く、また花の最内部から実を導く、それは熟するように、新しい種を、新しい子孫のように、生み出す。
Status primus, qui est reformationis, etiam comparari potest cum statu bombycis, quando extrahit ex se et evolvit stamina serici, et post industrium suum laborem evolat in aerem, et se, non ut prius ex foliis, sed ex succis in floribus, nutrit. 最初(第一)の状態は、それは改心のものである、カイコの状態にもまたたとえられることができる、それ自体から絹の糸を引き出す、また広げる(?)、また、自分の労働(苦労)の精励の後、空中に飛び出す、また自分自身を、以前のように葉からでなく、しかし、花の中の汁から、養育する。
@1 “gallinaceo:”―sic ed. prin.; forte praetuleris “gallicinio” 注1 「gallinaceo」――このように初版に。おそらくあなたは「gallicinio」のほうを選ぶ。〔この注は無視してよいようです『レキシコン』参照〕
(3) 訳文
571. 悔い改めについて扱われた後、改心と再生についてその順序で続けられる、、これらが悔い改めに続き、また悔い改めによって段階を進めるからである。
人間が自然的なものから霊的なものになるとき、入り、また上らなければならない二つの状態がある。
第一の状態は「改心」、第二の状態は再生と呼ばれる。
人間は第一の状態の中で自分の自然的なものから霊的なものを眺め、またこれを願う。第二の状態の中で霊的自然的なものになる。
第一の状態は信仰のものとなる真理によって形成され、それによって仁愛へ目を向ける。第二の状態は仁愛の善によって形成され、これらから信仰の真理の中に入る――または同じことであるが、(第一の状態は理解力からの思考のものである、けれども、第二の状態は意志からの愛のものである。
後者の状態が始まり、進む時、心の中で変化が生ずる、なぜなら、逆転が生じ、その時、意志の愛が理解力の中に流入する、そして働き、それ〔理解力〕を、その愛に調和してまた一致して考えることへ向けて、導くからである。
それゆえ、その時、愛の善が第一の部分で、また信仰の真理が第二の部分で働けば働くほど、それだけ人間は霊的であり、新しい被造物である――またその時、仁愛から行動し、信仰から話す、また仁愛の善を感じ、信仰の真理を知覚する。またその時、主の中に、そして平和の中にいる、またこのように再生している。
人間は、世の中で第一の状態を始めた人間は、死後、第二の状態の中に導き入れられることができる。しかし、世の中で第一の状態の中に入れられなかった者は、死後、第二の状態の中に導き入れられること、そのように再生されることができない。
この二つの状態は、春の時の日の中の光と熱の進行にたとえられることができる。第一の状態は夜明けまたはおんどりの鳴く時のときである。第二の状態は朝とあけぼののときであり、この状態の進行は日の進行とともに真昼へ、またこのように光と熱の中へ向かう。
さらにまた、収穫物にたとえられることができる、それは最初、草であり、その後、のぎや穂の中で増え、また続いて、これらの中に穀物を生ずる。
なおまた、木にもまた〔たとえられる〕。それは最初、地からの種から生長し、幹を生じた後、それから枝が出、またこれらは葉で飾られ、またその後、花咲き、また花の最内部から実を導き、それは成熟するかのように、新しい子孫のように、新しい種を生み出す。
改心のものである第一の状態は、カイコの状態にもまたたとえられることができる。〔その後、カイコは〕それ自体から絹の糸を引き出し、また広げ、また、自分の労働に精励した後、空中に飛び出し、また自分自身を、以前のように葉からでなく、しかし、花の中の汁から養育する。
QUOD HOMO NISI DENUO GENERATUR, ET SICUT E NOVO CREATUR,
NON POSSIT INGREDI IN REGNUM DEI.
人間は再び再生されないなら、またこのように新しいものから創造されない、
神の国の中に入ることができないこと
イエスはニコデモに言った、「まことに、まことに(アーメン、アーメン)、わたしはあなたに言う、だれも再び生まれないなら、神の国を見ることができない」。また再び、「まことに、まことに(アーメン、アーメン)、わたしはあなたに言う、だれも水と霊から生まれないなら、神の国に入ることができない。肉から生まれた〔者は〕、肉であること、また霊から生まれた〔者は〕、霊であること」(3:3, 5, 6)。
「神の国」によって天界と教会が意味される、なぜなら、神の国は地の中の教会であるからである。
同様に、他の箇所に、そこに神の国が名前を挙げられている(例えば、マタイ11:11、12:28、21:43、ルカ4:43、6:20、8:1, 10、9:11, 60, 62、17:21、また他の箇所に)。
「水と霊によって再生されること」は信仰の真理によって、またそれにしたがった生活によって〔再生すること〕を意味する。「水」が真理を意味することは、『啓示された黙示録』の中に見られる(50, 614, 615, 685, 932番)。「霊」が神的な真理にしたがう生活を意味することは、「ヨハネ(福音書)」のもとの主のことばから明らかである(6:63)。「アーメン、アーメン」によって、〝真理〟であることが意味される。また主は〝真理〟そのものであったので、それゆえ、こんなにもしばしばそのことを言った。
その方もまた「アーメン〔である方〕」と呼ばれている(黙示録3:14)。
再生した者は、みことばの中で「神の息子」また「神により生まれた者」と呼ばれている。そして再生は「新しい心と新しい霊」によって記述されている。
原典講読『真のキリスト教』573,574
(1) 原文
573. Quoniam "creari" etiam significat regenerari, ideo dicitur qui denuo generatur et sicut e novo creatur. Quod "creari" id in Verbo significet, constat ex his locis:
"Cor mundum crea mihi Deus, et spiritum firmum innova in medio mei" (Psalm. li. 12 [B.A. 10]).
"Aperis manum, saturantur bono emittis.. spiritum, creantur" (Psalm. civ. 28, 30).
"Populus, qui creabitur, laudabit Jah" (Psalm. cii. 19 [B.A. 18]).
"Ecce Ego creaturus sum Hierosolymam exultationem" (Esai. lxv. 18).
"Sic dixit Jehovah, Creator tuus Jacob, Formator tuus Israel:.. Redemi te;…. omnem vocatum a nomine meo, in gloriam meam creavi eum" (Esai. xliii. 1, 7).
"Ut videant, cognoscant, attendant et intelligant.., quo….. Sanctus Israelis creaverit hoc" (Esai. xli. [1]20).
(Praeter alibi.)
Et ubi Dominus vocatur Creator, Formator et Factor. Inde patefit, quid intelligitur per haec Domini ad discipulos:
"Euntes in mundum universum, praedicate Evangelium omni creaturae" (Marc. xvi. 15);
per "creaturas" intelliguntur omnes qui regenerari possunt (Paritur Apoc. iii. 14; 2 Cor. v. 16, 17).
@1 20 (cum exemplo Auctoris,) pro “19”
(2) 直訳
573. Quoniam "creari" etiam significat regenerari, ideo dicitur qui denuo generatur et sicut e novo creatur. 「創造されること」もまた再生されることを意味するので、それゆえ、言われる、その者は再び生まれられる、また新たに創造されるように。
Quod "creari" id in Verbo significet, constat ex his locis: それがみことばの中で「創造されること」を意味することは、これらの箇所から明らかである――
"Cor mundum crea mihi Deus, et spiritum firmum innova in medio mei" (Psalm. li. 12 [B.A. 10]). 「きれいな心を私に創造せよ、神よ、また堅い霊を新たにせよ、私の真ん中で」(詩篇51:10)。
"Aperis manum, saturantur bono emittis.. spiritum, creantur" (Psalm. civ. 28, 30). 「あなたは手を開く、善いもので満たされる、あなたは送り出す……霊を、創造される」(詩篇104:28, 30)。
"Populus, qui creabitur, laudabit Jah" (Psalm. cii. 19 [B.A. 18]). 「民が、その者は創造される、ヤーを称賛する」(詩篇102:18)。
"Ecce Ego creaturus sum Hierosolymam exultationem" (Esai. lxv. 18). 「見よ、わたしはエルサレムを歓喜を創造する」(イザヤ65:18)。
"Sic dixit Jehovah, Creator tuus Jacob, Formator tuus Israel: 「エホバはこのように言った、ヤコブよ、あなたの創造主、イスラエルよ、あなたの形成者――
.. Redemi te; ……わたしはあなたをあがなった。
…. omnem vocatum a nomine meo, in gloriam meam creavi eum" (Esai. xliii. 1, 7). ……わたしの名前により呼ばれるすべての者は、わたしの栄光の中で、わたしは彼を創造した」(イザヤ43:1, 7)。
"Ut videant, cognoscant, attendant et intelligant.., quo….. Sanctus Israelis creaverit hoc" (Esai. xli. [1]20). 「見て、認めて、留意し、また理解するために……その者を……イスラエルの聖なる者がこれを創造した」(イザヤ41:20)。
(Praeter alibi.) (ほかに、他の箇所に)
Et ubi Dominus vocatur Creator, Formator et Factor. また、そこに主は創造者、形成者、また造物主(製作者)と呼ばれている。
Inde patefit, quid intelligitur per haec Domini ad discipulos: ここから明らかになる、何が意味されるか、弟子たちへの主のこれらによって――
"Euntes in mundum universum, praedicate Evangelium omni creaturae" (Marc. xvi. 15); 「あなたは全世界の中に行く(未来)、すべての造られた者に宣べ伝えよ」(マルコ16:15)。
per "creaturas" intelliguntur omnes qui regenerari possunt (Paritur Apoc. iii. 14; 2 Cor. v. 16, 17). 「造られた者」によってすべての者が意味される、その者は再生されることができる(同じく☆「黙示録」3:14、「コリントⅡ」5:16, 17)。
☆ ここにミスプリがあります。pariturはpariterです。初版は正しいです。
@1 20 (cum exemplo Auctoris,) pro “19” 注1 「19」の代わりに20(著者の写し(本)に)
(3) 訳文
573. 「創造されること」もまた再生されることを意味するので、それゆえ、再び生まれる者は、新たに創造される、と言われる。
それがみことばの中で「創造されること」を意味することは、これらの箇所から明らかである――
「神よ、きれいな心を私に造ってくださうい、私の真ん中で堅い霊を新たにしてください、」(詩篇51:10)。
「あなたは手を開く、善いもので満たされる。あなたは送り出す……霊を、創造される」(詩篇104:28, 30)。
「創造される民が、ヤーを称賛する」(詩篇102:18)。
「見よ、わたしはエルサレムを歓喜を創造する」(イザヤ65:18)。
「エホバは、ヤコブよ、あなたの創造主は、イスラエルよ、あなたの形成者は、このように言われた――
……わたしはあなたをあがなった。……わたしの名前により呼ばれるすべての者は、わたしの栄光の中で、わたしは彼を創造した」(イザヤ43:1, 7)。
「見て、認めて、留意し、また理解するために……その者を……イスラエルの聖なる者がこれを創造した」(イザヤ41:20)。
(ほかにも他の箇所に)
また、そこに主は、創造者、形成者、造物主と呼ばれている。
ここから、弟子たちへの主のこれらによって何が意味されるか、明らかになる――
「あなたは全世界の中に行け、すべての造られた者に宣べ伝えよ」(マルコ16:15)。
「造られた者」によって、再生されることができるすべての者が意味される(同じく「黙示録」3:14、「コリントⅡ」5:16, 17)。
(1) 原文
[1]574. Quod homo regenerandus sit, patet ex omni ratione; nascitur enim in mala omnis generis a parentibus, et haec insident naturali ejus homini, qui ex se e diametro est contra spiritualem hominem; et tamen natus est ad caelum, et ad caelum non venit, nisi spiritualis fiat, quod unice fit per regenerationem. Inde necessario sequitur, quod naturalis homo cum suis concupiscentiis sit domandus, subjugandus, et invertendus, et quod alioqui nullo passu appropinquare ad caelum possit, sed plus et plus se in infernum demittat. Quis hoc non videt, qui credit quod in mala omnis generis natus sit, et qui agnoscit quod bonum et malum sint, et quod unum sit contra alterum; et si credit vitam post mortem, ac infernum et caelum, quod mala faciant infernum, et bona caelum? Naturalis homo in se spectatus quoad naturam suam ne hilum differt a natura bestiarum, est similiter ferus, sed talis est quoad voluntatem: at differt a bestiis quoad intellectum; hic potest elevari supra concupiscentias voluntatis, et non modo videre illas, sed etiam moderari illas. Inde est, quod homo possit ex intellectu cogitare, et ex cogitatione loqui, quae bestiae nequeunt. Qualis homo est a nativitate, et qualis foret si non regeneraretur, videri potest ab omnis generis belluis, quod foret tigris, panthera, pardus, porcus silvestris, scorpius, tarantula, vipera, crocodilus, etc. Quare nisi per regenerationem transformaretur in ovem, quid aliud esset quam diabolus inter diabolos in inferno? Annon tunc, si non leges regni coercerent tales a ferocitatibus connatis, irrueret unus in alterum, et se mutuo trucidarent, aut usque ad femoralia despoliarent? Quot ex humano genere sunt, qui non nati sunt satyri et priapi, aut quadrupedes lacerti? et quis non ex his et illis, nisi regeneretur, fit simia? Moralitas externa, quae addiscitur causa operiendi interna sua, hoc facit.
@1 574 (cum exemplo Auctoris,) pro “474”
(2) 直訳
[1]574. Quod homo regenerandus sit, patet ex omni ratione; 人間が再生しなければならないことは、すべての理性から明らかである。
nascitur enim in mala omnis generis a parentibus, et haec insident naturali ejus homini, qui ex se e diametro est contra spiritualem hominem; というのは、すべての種類の悪の中に両親から生まれているから、またこれらが彼の自然的な人間に固く宿る、その者は自分自身から正反対に霊的な人間に対抗している。
et tamen natus est ad caelum, et ad caelum non venit, nisi spiritualis fiat, quod unice fit per regenerationem. またそれでも天界へ向けて生まれている、また天界へやって来ない、霊的なものにならないなら、それはもっぱら再生によってなる(生ずる)。
Inde necessario sequitur, quod naturalis homo cum suis concupiscentiis sit domandus, subjugandus, et invertendus, et quod alioqui nullo passu appropinquare ad caelum possit, sed plus et plus se in infernum demittat. ここから必然的にいえる、自然的な人間が自分の欲望とともに支配されなければならないこと、服従しなければならない、またひっくり返られなければならない、またそうでなければ何の歩みも天界へ近づくことができない、しかし、さらにまたさらに自分自身を地獄の中へ下げる。
Quis hoc non videt, qui credit quod in mala omnis generis natus sit, et qui agnoscit quod bonum et malum sint, et quod unum sit contra alterum; だれがこのことを見ないか、信じる者は、すべての悪の中に生まれていること、またその者は認める、善と悪があること、また一つはもう一つに反していること。
et si credit vitam post mortem, ac infernum et caelum, quod mala faciant infernum, et bona caelum? また、もし死後の生活を信じるなら、そして地獄と天界を、悪が地獄をつくること、また善が天界を?
Naturalis homo in se spectatus quoad naturam suam ne hilum differt a natura bestiarum, est similiter ferus, sed talis est quoad voluntatem: 本質的に見られた自然的な人間は、自分の性質に関して獣の性質からまったく異ならない、野獣と同様である、しかし、意志に関してこのようである。
at differt a bestiis quoad intellectum; しかし、獣から異なっている、理解力に関して。
hic potest elevari supra concupiscentias voluntatis, et non modo videre illas, sed etiam moderari illas. これは意志の欲望の上方に上げられることができる、またそれを見るだけでなく、しかしそれを抑制することもまた。
Inde est, quod homo possit ex intellectu cogitare, et ex cogitatione loqui, quae bestiae nequeunt. ここからである、人間は理解力から考えることができること、また思考から話すこと、それは獣にできない。
Qualis homo est a nativitate, et qualis foret si non regeneraretur, videri potest ab omnis generis belluis, quod foret tigris, panthera, pardus, porcus silvestris, scorpius, tarantula, vipera, crocodilus, etc. 人間が出生からどんなものであるか、またもし再生されないならどんなものになるか、すべての種類の猛獣から見られることができる、トラになること、ヒョウ☆、ヒョウ☆、森の(野生の)ブタ、サソリ、タランチュラ、マムシ、ワニなど。
☆ この二つの違いを私は知りません。
Quare nisi per regenerationem transformaretur in ovem, quid aliud esset quam diabolus inter diabolos in inferno? それゆえ、再生によって羊の中に変形されないなら、地獄の中の悪魔の間の悪魔以外の何らかの何か?
Annon tunc, si non leges regni coercerent tales a ferocitatibus connatis, irrueret unus in alterum, et se mutuo trucidarent, aut usque ad femoralia despoliarent? その時、もし王国の法律がこのような者を生来の凶暴から抑制しないなら、一人はもう一人に(互いに)突進する、また自分自身相互に皆殺しにする、またはズボン下(パンツ)までも強奪☆しないか?
☆ despolioは『レキシコン』にありませんがspolio(奪う)に強意(完全に、まったく)の接頭語de-がつているのでしょう。日本語なら「身ぐるみはがされる」。
Quot ex humano genere sunt, qui non nati sunt satyri et priapi, aut quadrupedes lacerti? 人類からどれほど多くいるか、その者はサテュロスとプリアーポスに生まれていない、または四足のトカゲ?
et quis non ex his et illis, nisi regeneretur, fit simia? まただれがこれらやそれらから、でないか、もし再生されないなら、サルとなる?
Moralitas externa, quae addiscitur causa operiendi interna sua, hoc facit. 外なる徳行(礼儀正しい振る舞い)は、それは学んで獲得される、自分の内なるものを隠す理由で、これを行なう。
@1 574 (cum exemplo Auctoris,) pro “474” 注1 「474」の代わりに574(著者の写し(本)に)
(3) 訳文
574. 人間が再生しなければならないことは、すべての理性から明らかである。というのは、すべての種類の悪の中に両親から生まれており、またこれらが彼の自然的な人に固く宿り、それは自分自身から正反対に霊的な人間に対抗しているから。またそれでも天界へ向けて生まれており、また霊的なものにならないなら天界へやって来ない、それはもっぱら再生によって生ずる。
ここから必然的にいえる、自然的な人が自分の欲望とともに支配され、服従し、またひっくり返られなければならないこと、またそうでなければ何の歩みも天界へ近づくことができない、しかし、さらにまたさらに自分自身を地獄の中へ下げる。
だれがこのことを見ないか、、すべての悪の中に生まれていることを信じる者は、善と悪があること、また一つはもう一つに反していることを認める。また、もし死後の生活を、そして地獄と天界を信じるなら、悪が地獄を、また善が天界をつくることを。
本質的に見られた自然的な人は、自分の性質に関して獣の性質とまったく異ならず、野獣と同様である、しかし、意志に関してこのようである――しかし、理解力に関して獣と異なっている。これは意志の欲望の上方に上げられ、それを見るだけでなく、しかしそれを抑制することもまたできる。
ここから、人間は理解力から考え、また思考から話すことができる、それは獣にできない。
人間が出生からどんなものであるか、またもし再生されないならどんなものになるか、すべての種類の猛獣から見られることができる、トラ、ヒョウ、ヒョウ、森のブタ、サソリ、タランチュラ、マムシ、ワニなどになる。
それゆえ、再生によって羊の中に変形されないなら、地獄の中の悪魔の間の悪魔以外の何か?
その時、もし王国の法律がこのような者を生来の凶暴から抑制しないなら、互いに突進する、また相互に皆殺しにし、またはパンツまでも強奪しないか?
人類から、サテュロスとプリアーポスに、または四足のトカゲに生まれていない者はどれほど多くいるか? また、これらやそれらから、もし再生されないなら、だれがサルとなないか?
学んで獲得される外なる徳行(礼儀正しい振る舞い)は、自分の内なるものを隠す理由で、これを行なう。
原典講読『真のキリスト教』575
(1) 原文
575. Qualis homo non regeneratus est, ulterius describi potest per comparationes et similitudines has, apud Esaiam:
"Possidebunt illum platea et anataria, et noctua, ac corvus, ibi habitabunt; extendet super illum lineam inanitatis, et perpendicula Vastitatis; …. unde ascendent [1]altaria ejus spina, carduus et sentis in munitionibus ejus, et fit habitaculum draconum; atrium filiabus noctuae; occurrentque, tziim cum ijim, et satyrus socio suo obviabit, immo quiesset ibi lilith….; ibi nidificabit [2]merula, et ponet, et colliget, et excludet in umbra ejus, immo ibi congregabuntur milvi, unus cum socio suo" (xxxiv. 11, 13-15).
@1 “altaria:”―sic ed. prin.; vide autem A.C., n. 7293, ubi legitur “palatia,” quod textum Hebraeum rectius interpretatur. @2 “merula:”―sic (cum Schmidio) ed. prin. Videatur autem Ind. Bib., s. v. Serpens; ubi dicitur, “Merula, lege Acontias vel Jaculus serpens.”
(2) 直訳
575. Qualis homo non regeneratus est, ulterius describi potest per comparationes et similitudines has, apud Esaiam: 再生されない人間がどんなものであるか、さらに記述されることができる、これらの比較(たとえ)と比喩(似たもの)によって、「イザヤ(書)」のもとに――
"Possidebunt illum platea et anataria, et noctua, ac corvus, ibi habitabunt; 「それをヘラサギと猛禽(フクロウ)が所有する、またフクロウが、そしてカラスがそこに住む。
extendet super illum lineam inanitatis, et perpendicula Vastitatis; その上に空虚な測り縄を張り、荒廃の測鉛を〔下ろす〕。
…. unde ascendent [1]altaria ejus spina, carduus et sentis in munitionibus ejus, et fit habitaculum draconum; ここからそのイバラが祭壇☆に上る、アザミとイバラがその要塞の中に、また竜の住まいとなる。
☆ これは宮殿としたほうがよいようです(注)。
atrium filiabus noctuae; 前庭〔になる〕フクロウの娘たちに。
occurrentque, tziim cum ijim, et satyrus socio suo obviabit, immo quiesset ibi lilith….; そして出会う、ツィイームがイッイームともに、またサテュロスが自分の仲間に出会う、それどころかそこに魔女☆が休む。
☆ Lilithは『レキシコン』になく、ラテン語ではなく、ヘブル語の音訳です(リーリート)。意味はこれでもよいでしょう。リーリートはヘブル語で「夜の亡霊」です。新改訳聖書は「こうもり」としています。
ibi nidificabit [2]merula, et ponet, et colliget, et excludet in umbra ejus, immo ibi congregabuntur milvi, unus cum socio suo" (xxxiv. 11, 13-15). そこにクロウタドリ☆が巣をつくる、また〔卵を〕置く、また集める、またその陰の中に孵化する、それどころか、そこにトビが集まる、一つがその仲間とともに」(34:11, 13-15)。
☆ ここは矢蛇がよいようです(注)。
@1 “altaria:”―sic ed. prin.; vide autem A.C., n. 7293, ubi legitur “palatia,” quod textum Hebraeum rectius interpretatur. 注1 「altaria」――このように初版に。けれども『秘義』7293番を見よ、そこに「palatial」が読まれる、それはヘブル原文を正しく翻訳している。
@2 “merula:”―sic (cum Schmidio) ed. prin. Videatur autem Ind. Bib., s. v. Serpens; ubi dicitur, “Merula, lege Acontias vel Jaculus serpens.” 注2 「merula」――このように初版に(シュミディウスにしたがって)。けれども『聖書の索引』に見られる、sub vero(~の項目を見よ) Serpensそこに「Merula(クロウタドリ)、矢蛇あるいは矢のヘビと読め」。
(3) 訳文
575. 再生されない人間がどんなものであるか、「イザヤ書」のこれらのたとえと比喩によってさらに記述されることができる――
「それをヘラサギと猛禽が所有する、またフクロウそしてカラスがそこに住む。その上に空虚な測り縄を張り、荒廃の測鉛を〔下ろす〕。……ここからそのイバラが宮殿(祭壇)に、アザミとイバラがその要塞の中に上る、また竜の住まいとなる。フクロウの娘たちの前庭〔になる〕。そして、ツィイームがイッイームともに出会う、またサテュロスが自分の仲間に出会う、それどころかそこに夜の亡霊(魔女)が休む。 そこに矢蛇(クロウタドリ)が巣をつくる、また〔卵を〕置く、また集める、またその陰の中に孵化する、それどころか、そこにトビが集まる、一つがその仲間とともに」(34:11, 13-15)。
原典講読『真のキリスト教』576
[II.]
QUOD NOVA GENERATIO SEU CREATIO FIAT A SOLO DOMINO
PER CHARITATEM ET FIDEM UT DUO MEDIA, COOPERANTE HOMINE.
新しい再生産、すなわち、創造は、主のみにより行なわれること、
仁愛と信仰によって、二つの手段のように、人間に協力して
(1) 原文
576. Quod regeneratio fiat a Domino per charitatem et fidem, sequitur ex demonstratis in capitibus de Charitate et de Fide, et in specie ab hoc ibi, Quod Dominus, charitas et fides unum faciant, sicut vita, voluntas et intellectus, et quod si dividuntur, unumquodvis ex illis pereat, sicut unio dilapsa in pollinem. Haec duo, charitas et fides, vocantur media, quia conjungunt hominem cum Domino, et faciunt quod charitas sit charitas, et quod fides sit fides; et hoc fieri non potest, nisi homo etiam partem habeat in regeneratione; quare dicitur, cooperante homine. In transactionibus quae praecedunt, aliquoties de cooperatione hominis cum Domino, actum est; sed quia mens humana talis est, ut non aliter percipiat id, quam quod homo ex suamet potentia id efficiat, quare id iterum illustrabitur. In omni motu, et inde in omni actione, est activum et passivum; hoc est, quod agens agat, ac patiens agat, ex agente; inde ex utroque fit una actio; comparative sicut mola a rota, currus ab equo, motus a conatu, effectus a causa, vis mortua a viva, in genere, sicut instrumentale a principali; quod haec duo simul faciant unam actionem, quisque novit. Quoad charitatem et fidem, Dominus agit, et homo agit ex Domino; est enim activum Domini in passivo hominis: quare potentia bene agendi est a Domino, ac inde voluntas agendi est sicut hominis; quia est in libero arbitrio, ex quo potest una agere cum Domino, et sic se conjungere, et potest ex potentia inferni, quae est extra, agere, et sic se separare. Actio hominis concors cum actione Domini est quae hic intelligitur per cooperationem. Ut hoc evidentius percipiatur, illustrabitur adhuc per comparationes infra.
(2) 直訳
576. Quod regeneratio fiat a Domino per charitatem et fidem, sequitur ex demonstratis in capitibus de Charitate et de Fide, et in specie ab hoc ibi, Quod Dominus, charitas et fides unum faciant, sicut vita, voluntas et intellectus, et quod si dividuntur, unumquodvis ex illis pereat, sicut unio dilapsa in pollinem. 再生は主により仁愛と信仰によって生ずることは、「仁愛について」と「信仰について」の章の中に示されたことからいえる、また特にそこにこれらから、「主・仁愛・信仰は一つをつくっていること、いのち・意志・理解力のように、またもし分割されるなら、それらからのそれぞれのものは滅びること、真珠が粉々にされるように粉末の中へ。
Haec duo, charitas et fides, vocantur media, quia conjungunt hominem cum Domino, et faciunt quod charitas sit charitas, et quod fides sit fides; これら二つのものは、仁愛と信仰は、方法と呼ばれる、人間を主に結合させるので、またつくる、仁愛が仁愛であること、また信仰が信仰であること。
et hoc fieri non potest, nisi homo etiam partem habeat in regeneratione; またこのことは生ずることができない、人間もまた部分(役割)を持たないなら、再生の中に。
quare dicitur, cooperante homine. それゆえ、言われる、協力して人間で。
In transactionibus quae praecedunt, aliquoties de cooperatione hominis cum Domino, actum est; 論文(章)の中で、それは先行する、数回、主との人間の協力について、扱われた。
sed quia mens humana talis est, ut non aliter percipiat id, quam quod homo ex suamet potentia id efficiat, quare id iterum illustrabitur. しかし、人間の心はこのようなものであるので、そのことを異なって知覚しないような、人間は自分自身の力からそれを引き起こすこと以外に、それゆえ、そのことが再び説明されなければならない。
In omni motu, et inde in omni actione, est activum et passivum; すべての運動の中に、またここからすべての活動の中に、能動的なもの(原動力)と受動的なものがある。
hoc est, quod agens agat, ac patiens agat, ex agente; すなわち、動因(働きかける力)が働く、そして働きかけられるものが働く、動因(働きかける力)から。
inde ex utroque fit una actio; ここから、両方のものから一つの活動が生ずる。
comparative sicut mola a rota, currus ab equo, motus a conatu, effectus a causa, vis mortua a viva, in genere, sicut instrumentale a principali; 比較によって、〔水車の〕輪からのひき臼のよう〔である〕、馬からの馬車、努力からの運動、原因からの結果、活動的なものから無活動のもの〔への〕力☆、全般的に、主要なものから手段となるもののように。
☆ 直訳は「力、生きている(生き生きとしたもの)から死んだもの(活力のないもの)」です、ここがよくわからなかったので他の訳書をも見てみました。それを(4)で述べます(久々に)。
quod haec duo simul faciant unam actionem, quisque novit. これらの二つのものが同時に一つの活動をつくることは、それぞれの者(だれも)知った(知っている)。
Quoad charitatem et fidem, Dominus agit, et homo agit ex Domino; 仁愛と信仰に関して、主は働く、また人間は主から働く。
est enim activum Domini in passivo hominis: というのは、主の能動的なもの(原動力)は人間の受動的なものの中にあるから――
quare potentia bene agendi est a Domino, ac inde voluntas agendi est sicut hominis; それゆえ、善く行動する力が主からある、そして、ここから人間のもの〔である〕ように働く意志がある。
quia est in libero arbitrio, ex quo potest una agere cum Domino, et sic se conjungere, et potest ex potentia inferni, quae est extra, agere, et sic se separare. 選択の自由の中にあるからである、そのことから主とともに一緒に働くことができる、またこのように自分自身を結合すること、また地獄の力から働くことができる、それは外にある、またこのように自分自身を〔主から〕分離すること。
Actio hominis concors cum actione Domini est quae hic intelligitur per cooperationem. それは主の活動と調和する人間の活動である、これは協力によって意味される〔ものは〕。
Ut hoc evidentius percipiatur, illustrabitur adhuc per comparationes infra. このことがさらにはっきりと知覚されるために、さらに説明される、下のたとえによって。
(3) 訳文
576. 再生は主により仁愛と信仰によって生ずることは、「仁愛について」と「信仰について」の章の中に示されたことからいえる、また特にそこにこれらから、「主・仁愛・信仰は一つをつくっていること、いのち・意志・理解力のように、またもし分割されるなら、それらからのそれぞれのものは真珠が粉々にされるように粉末の中へ滅びること」。
これら二つのもの、仁愛と信仰は、方法と呼ばれ、人間を主に結合させるので、、仁愛が仁愛であること、また信仰が信仰であることをつくる。またこのことは、人間もまた再生の中に役割を持たないなら、生ずることができない。それゆえ、人間と協力して、と言われる。
先行する章の中で、数回、主との人間の協力について、扱われた。しかし、人間の心は、そのことを、人間は自分自身の力からそれを引き起こすとしか知覚しないようなものであるので、それゆえ、そのことが再び説明されなければならない。
すべての運動の中に、またここからすべての活動の中に、能動的なものと受動的なものがある。すなわち、働きかける力が働き、そして働きかける力から働きかけられるものが働く。
ここから、両方のものから一つの活動が生ずる。比較すれば(たとえれば)、〔水車の〕輪からのひき臼、馬からの馬車、努力からの運動、原因からの結果、活動的なものから無活動のものへの力、全般的に、主要なものから手段となるものに働くようなものである。これらの二つのものが同時に一つの活動をつくることは、だれもが知っている。
仁愛と信仰に関して、主は働き、人間は主から働く。というのは、主の能動的なものは人間の受動的なものの中にあるから――それゆえ、善く行動する力が主からあり、そして、ここから人間のものであるように働く意志がある。選択の自由の中にいるからであり、そのことから主とともに一緒に働くこと、またこのように自分自身を結合することができ、また外にある地獄の力から働くこと、またこのように自分自身を〔主から〕分離することができる。
協力によって意味されるものは、主の活動と調和する人間の活動である。
このことがさらにはっきりと知覚されるために、以下のたとえによってさらに説明される。
(4) 「活動的なものから無活動のものへの力」について他の訳は
柳瀬訳は「不動は勢力によって征服され……」とありました! 最初は何のことか全然わかりませんでした、訳してある場所も本来の場所と違っています。他の読者も、これは理解に苦しむ文章でしょう(そして果たしてこんなことが原文に書いてあるのだろうか? という疑問がわくのではないでしょうか? それとも納得するのか?)。
長島訳は「死の力は、生の力によります」でした、なんとなくわかるような、わからないような訳ですが、やはりわかりません。というの「死の力」はと何か? 「生の力」――これはなんとなくわかりますが、それがどのように「死の力」に働きかけることができるのか? という疑問がわいてくるからです。いずれにせよ、疑問がわくような、またわいても、それを解消するようなことをどこかで述べて、そのままとするような文章をスヴェーデンボリが書くはずがありません。
それで私もここがよくわからなかったので、他の訳も調べてみたらこの結果でした。手前味噌ながら新訳の必要性を感じます(『真のキリスト教』の上巻はこの秋、刊行予定です、「読者の会」の皆様は「会報」をごらんください)。