原典講読『世の終わりと最後の審判』 52(訳文),53

 

(3)
訳文(天界の秘義4809)


52 「人の子がご自分の栄光の中にやって来る時」は、神的な真理がその光の中に見られる時を意味し、それは人間のそれぞれの者に死ぬとき生ずる。というのはその時、天界にやってその中で、何が真理と善か、またここから〔それが〕どんなものであるか認めることができるから。「人子」、みことばの内意で、神的な真理に関する主、このように主からの神的な真理である。「栄光」、知性知恵でありそれらはここから、光のようにまた天使たちのきのようにられるこのが、その中に主からの神的な真理あって、みことばの中で「栄光」と呼ばれるものである。「人の子」が内意の中で神的な真理であることは、2159, 2803, 2813, 370番に見られる。


[2] またすべての聖なる天使たちがその方とともに」は、天使たちの天界を意味する。「聖なる天使たち」は主の神的な善からの真理である、なぜなら、みことばの中の「天使」によって天使たちではなく、主からのものが意味されるから、〔そのことは〕1925, 4085番に見られる。というのは、天使たちは主の神的な善から発出している真理のいのちを受け入れるものであるから。ここから、「天使たち」はそれらの真理であることが明らかである。ここに、死後、それぞれの者の状態が、そして生活にしたがったそれぞれの者の審判について扱われているのは、「すべての聖なる天使たちがその方とともに」と言われていて、また、そのことによって、天界を通して審判があることが意味されるからである。というのは、神的な真理のすべての流入は天界を通して生じ、直接の流入は、だれによっても受け入れられることができないから。


[3] その時、その方は栄光の王座の上に座る」は、審判を意味する、というのは「王座」は主の王権について言われ、そして主の王権が神的な真理であるから1728, 2015, 3009, 3670番、また神的な真理は、そこから、またそれにしたがって審判があるから。


[4] 「またそのにすべての国民が集められる」は、すべての善と真理が明らかになることを意味する。というのは、みことばの内意で、「国民」によって善が、また正反対の意味で悪が意味されるから。このように善と悪が神的な光の中で見られることが、すなわち、神的な真理からの光の中で、「そのにすべての国民が集められる」ことによって意味される。


[5] またそれらを、羊飼いが羊を山羊から分離するように相互から分離する」は、悪からの善の分離を意味する。というのは、「羊」は善の中にいる者、また「山羊」は悪の中にいる者であるから。「羊」は仁愛の中に、またここから信仰の中にいる者と正しく言われる、〔けれども〕「山羊」は信仰の中にいても、仁愛の中にいない者である。その両者についてここに扱われている。「羊」が、仁愛の中に、またここから信仰の中にいる者であることは、2088, 4169番に見られる。また「山羊」が信仰の中にいて、仁愛の中にいない者であることは、4769番。


[6] かに自分右側しかし,山羊左側に」は、善からの真理にしたがった分離を、また悪からの虚偽にしたがった分離を意味する。実際、来世の中で、善からの真理の中にいる者は右側に、悪からの虚偽の中にいる者は左側に見られる。ここから、右側にと左側に置かれることは、生活にしたがって秩序づけられることである。


 


(1) 原文「4810番」


53 Ex his patet quid haec verba Domini involvunt, et quod non secundum
litteram intelligenda sint, nempe quod Dominus aliquo ultimo tempore venturus
sit in gloria, et tunc omnes sancti angeli cum Ipso, et sessurus super throno
gloriae, et congregatas coram Ipso omnes gentes judicaturus; sed quod
unusquisque secundum vitam suam, cum transit e vita in mundo in vitam aeternam,
judicabitur.


 


(2)
直訳


53
Ex his patet quid haec verba Domini involvunt, et quod non
secundum litteram intelligenda sint, nempe quod Dominus aliquo ultimo tempore
venturus sit in gloria, et tunc omnes sancti angeli cum Ipso, et sessurus super
throno gloriae, et congregatas coram Ipso omnes gentes judicaturus;
 これらかららかである、何がこれらの主のことばに含まれるか、また文字どおりの意味にしたがって理解されてはならないこと、すなわち、主が何らかの最後の時に栄光の中にやって来ること、またその時、すべての聖なる天使たちがその方とともに〔やって来る〕、また栄光の王座の上に座る、またその集められたべての国民がさばかれること。


sed quod unusquisque secundum vitam suam, cum
transit e vita in mundo in vitam aeternam, judicabitur.
 しかしそれぞれの者が、自分の生活にしたがって、世の中の生活から永遠の生活の中に移るとき、さばかれる。


 


(3)
訳文(天界の秘義4810)


53 これらから、何がこれらの主のことばに含まれるか、また文字どおりの意味にしたがって理解されてはならないこと、すなわち、主が何らかの最後の時に栄光の中にやって来ること、またその時、すべての聖なる天使たちがその方とともにやって来て、栄光の王座の上に座り、その集められたべての国民がさばかれること、しかしそれぞれの者が、自分の生活にしたがって、世の中の生活から永遠の生活の中に移るとき、さばかれることが明らかである


原典講読『世の終わりと最後の審判』 54

 

(1) 原文「4954番」


54 In praemissis ante caput praecedens, explicata sunt quae Dominus
locutus est de judicio super bonos et malos apud Matthaeum xxv 31-33, quae videantur n. 4807-4810; veniunt nunc
explicanda quae ordine ibi sequuntur, nempe haec verba,


 


 Tunc {1}dicet Rex iis qui a dextris
Ipsius, Venite benedicti Patris Mei, possidete paratum vobis regnum a
fundatione mundi: esurivi enim et dedistis Mihi edere; sitivi et potastis Me;
peregrinus fui et collegistis Me; nudus et circuminduistis Me; aegrotus fui et
visitastis Me; in carcere fui et venistis ad Me, vers. 34-36.


 


@1 dicit I


 


(2)
直訳


54
In praemissis ante caput praecedens, explicata sunt quae Dominus
locutus est de judicio super bonos et malos apud Matthaeum xxv 31-33, quae videantur n. 4807-4810;
 先行する、序文(前文)、説明されたそれらは主が善い者と悪い者の上の審判について話された、「マタイ(福音書)25:31-33のもとに、それらは4807-4810番〔本講座5053〕に見られる。


veniunt nunc explicanda quae ordine ibi
sequuntur, nempe haec verba,
 今、説明すべきものやってているそれらはそこに続いている、すなわち、これらの言葉〔である〕、


 


Tunc {1}dicet Rex iis qui a dextris
Ipsius, Venite benedicti Patris Mei, possidete paratum vobis regnum a
fundatione mundi:
 その時、王らにそのはその右側〔いる〕、『やって来い、わたしの父に祝福された者たちよ、世の創造からあなたがたに用意された王国を所有せよ』。


esurivi
enim et dedistis Mihi edere;
 というのは、わたしが飢えた、そしてあなたがたはわたしに食べることをした(与えた)から


sitivi et
potastis Me;
 わたしが渇いた、そしてあなたがたはわたしを飲ませた。


peregrinus
fui et collegistis Me;
 わたしが異国人として生活した、そしてあなたがたはわたしを迎え(入れ)


nudus et
circuminduistis Me;
 裸〔であった〕そしてあなたがたはわたしを着せた。


aegrotus
fui et visitastis Me;
 わたしが病んでいた、そしてあなたがたはわたしを訪ねた。


in carcere
fui et venistis ad Me, vers. 34-36.
 わたしが牢の中にいた、そしてあなたがたはわたしにやって来た、34-36節。


@1 dicit I 注1 初版はdicitである。


 


(3)
訳文(天界の秘義4954)


54 先行する序文、主が「マタイ福音書」25:31-33で善い者と悪い者の審判について話されたことが説明され、それらは4807-4810番〔本講座5053〕に見られる。


 今、そこに順続いている説明すべきものにやってている、すなわち、次の言葉〔である〕、


 


その時、王はその右側、「やって来い、わたしの父に祝福された者たちよ、世の創造からあなたがたに用意された王国を所有せよ。というのは、わたしが飢え、あなたがたはわたしに食べることをした。わたしが渇き、あなたがたはわたしを飲ませた。わたしが異国人として生活し、あなたがたはわたしを迎え入れた。裸であって、あなたがたはわたしを着せた。わたしが病んでいて、あなたがたはわたしを訪ねた。わたしが牢の中にいて、あなたがたはわたしにやって来たから」。34-36節。