原典講読『世の終わりと最後の審判』 13(~[2])(直訳)

 

(2)
直訳


13 Quod ‘Judaea’ in Verbi sensu
interno non significet Judaeam, sicut nec ‘Hierosolyma’ Hierosolymam, constare
potest a pluribus locis in Verbo:
 みことばの内意ユダヤがユダヤを意味しないことはそのように「エルサレム」もエルサレムを〔意味し〕ない、みことばの中の多くの箇所から明らかにすることができる。


in Verbo non ita nominatur Judaea, sed terra
Jehudae, et per eam ibi sicut per terram Canaanem significatur regnum Domini,
proinde etiam Ecclesia, nam haec est regnum Domini in terris;
 みことばの中で、そのように(それほどに)ダヤは名前を挙げられていない、しかし、ユダの地は、またそれによってそこにカナンの地によってのように主の王国が意味される、それゆえに、教会もまた〔意味される〕、なぜなら、これは地の中の主の王国であるから。


et hoc ideo quia per Jehudam seu per Judaicam
gentem repraesentatum est regnum caeleste Domini, et per Israelem seu
Israeliticum populum regnum spirituale Ipsius;
 またこのことはそれゆえユダによって、またはユダヤ民族(国民)によって主の天的な王国が表象されているからである、また、イスラエルによって、またはイスラエル民族(人民)によってその方の霊的な王国が。


et quia repraesentatum, ideo quoque in Verbo
cum nominantur, in sensu ejus interno non aliud significatur;
 また表象〔されているのでそれゆえみことばのでもまた、名前げられるときその内意ものは意味されない。


[2] quod illa significentur, patebit ex illis
quae in sequentibus de Jehuda et terra Jehudae, ex Divina Domini Misericordia,
dicentur;
 [2] それらが意味されることはそれらかららかである(未来)それらはユダヤとユダの地について続くものの中に〔ある〕、主の神的な慈悲から、言われる。


ac interea
ex paucis his apud Prophetas;
 そしてその間に、預言者の(書の)もとのこれらのわずかなものから〔明らかである(未来)〕。


apud Esaiam, 「イザヤ()」に、


 


Vinea fuit
dilecto Meo in cornu filii olei, circumdedit illam et elapidavit illam, et
plantavit illam vite nobili, et aedificavit turrim in medio ejus, et etiam
torcular excidit in illa, et exspectavit ut faceret uvas, sed fecit labruscas;
 ブドウ畑はわたしの愛されたものであった、油の息子の角の中の、〔彼は〕それを〔垣で〕取り囲んだ、またそれを石を取り除いた、またそれを植えた、みごとな(高貴な)ブドウで、またその真ん中に塔を建てた、さらにまたその中にブドウ搾り機(酒ぶね)を切り出した、またブドウが生じるように期待した、しかし、野ブドウの実が生じた。


et jam habitator Hierosolymae, et vir Jehudae, judicate quaeso inter Me et
inter vineam Meam;
 また今、「エルサレムの住民」と「ユダの男」、どうぞ(願わくば)、さばけ、わたしの間とわたしのブドウ畑の間を。


…ponam
illam in desolationem,…
 わたしはそれ〔ブドウ畑〕を荒廃(荒れ果てた状態)の中に置く。


quia vinea
Jehovae Zebaoth domus Israelis, et vir Jehudae plant deliciarum Ipsius;
 万軍のエホバのブドウ畑は「イスラエルの家」、「ユダの男」はその方の歓喜の植えたもの〔である〕からである。


et
exspectavit judicium sed ecce suppuratio, justitiam sed ecce clamor, v 1-3, 6,
7;
 またわたしは審判☆1を期待した、しかし、見よ、流血☆2、公正☆3を、しかし、見よ、叫び☆35:1-3, 6, 7


1 新改訳聖書では「公正」としていますが、へブル語のミシュパートは「審判」です。


2 suppratioは「レキシコン」にありません。へブル語ではミスパーで「流血」です。すなわち、この部分は原語へブル語で読むとわかるのですが「語呂合わせ」をしています。


3 ついでにこの部分のへブル語はそれぞれツェダーカーとツェアーカーでやはり「語呂合わせ」です。 


ibi in
sensu litterae de perverso statu Israelitarum et Judaeorum agitur, in sensu
autem interno de perverso statu Ecclesiae per Israelem et Jehudam
repraesentatae;
 そこに文字どおりの意味の中で、イスラエル(の人々)とユダヤ(の人々)のゆがんだ状態について扱われている、けれども内意の中で、イスラエルとユダの表象(するもの)によって教会のゆがんだ状態について〔扱われている〕。


‘habitator
Hierosolymae’ est bonum Ecclesiae;
 「エルサレムの住民」は教会の善である。


quod
‘habitator’ sit bonum, seu quod idem, qui in bono, videatur n. 2268, 2451,
2712, 3613, et quod ‘Hierosolyma’ sit Ecclesia, n. 402, 2117;
 「住民」が善であることは、すなわち同じこと〔であるが〕、善の中〔にいる〕者、2268, 2451, 2712, 3613番に見られる、また「エルサレム」が教会であることは、402, 2117番。


‘domus
Israelis’ similiter;
 「イスラエルの家」は同様に。


quod
‘domus’ sit bonum, n. 710, 1708, 2233, 2331, 3142, 3538, et quod ‘Israel’
Ecclesia, n. 3305;
 「家」が善であること、710, 1708, 2233, 2331, 3142, 3538番、また「イスラエル」が教会〔である〕こと、3305番。


‘vir Jehudae’ consimiliter,
per ‘virum’ enim significatur verum, n. 265, 749, 1007, 3134, 3310, 3459, et
per ‘Jehudam’ bonum, sed cum differentia quod ‘vir Jehudae’ sit verum ex bono
amoris in Dominum, quod verum caeleste vocatur, hoc est, illi qui in tali vero:
 「ユダの男」はまったく同様に、というのは「男」によって真理が意味されるから、265, 749, 1007, 3134, 3310, 3459番、また「ユダ」によって善が、しかし相違とともに、「ユダの男」は主への愛の善からの真理であること、それは天的な真理と呼ばれる、すなわち、彼ら、その者はそのような真理の中に〔いる〕。

原典講読『世の終わりと最後の審判』 13(~[2])(訳文)

 

(3)
訳文(天界の秘義3654)


13 みことばの内意ユダヤがユダヤをそのように「エルサレム」もエルサレムを意味しないことは、みことばの中の多くの箇所から明らかにすることができる。みことばの中に、それほどユダヤは名前を挙げられていないが、しかし、ユダの地は、またそれによってそこのカナンの地によるように主の王国が、それゆえ、教会もまた意味される、なぜなら、これは地の中の主の王国であるから。それゆえまたこのことはユダまたはユダヤ民族によって主の天的な王国が、イスラエルまたはイスラエル民族によってその方の霊的な王国が表象されているからである。また表象されているのでそれゆえみことばのでもまた、名前げられるときその内意ものは意味されない。


[2] それらが意味されることは、主の神的な慈悲から、ユダヤとユダの地について続くものの中で言われることからそしてその、次預言のわずかなものかららかにされる「イザヤ」に、


 


油の息子の角の中のブドウ畑は、わたしの愛したものであった。〔息子は〕それを垣で取り囲み、石を取り除き、みごとなブドウ植え、その真ん中に塔を建て、さらにまたその中に酒ぶねを切り出した。そしてブドウが生じるように期待した、しかし、野ブドウの実が生じた。


 今、「エルサレムの住民」と「ユダの男」よ、願わくば、わたしの間とわたしのブドウ畑の間をさばけ。……わたしはそれ〔ブドウ畑〕を荒廃の中に置く。


万軍のエホバのブドウ畑は「イスラエルの家」、「ユダの男」はその方の歓喜の植えたものであるから。


わたしは審判を期待した、しかし、見よ、流血。公正を〔期待した〕、しかし、見よ、叫び、5:1-3, 6, 7


 


 そこに文字どおりの意味で、イスラエルの人々とユダヤの人々のゆがんだ状態について扱われている、けれども内意で、イスラエルとユダの表象によって教会のゆがんだ状態について扱われている。エルサレムの住民」は教会の善である。「住民」が善、すなわち同じこと〔であるが〕、善の中にいる者であることは、2268, 2451, 2712, 3613番に、また「エルサレム」が教会であることは、402, 2117番に見られる。「イスラエルの家」も同様である。「家」が善であることは、710, 1708, 2233, 2331, 3142, 3538番、また「イスラエル」が教会であることは、3305番。「ユダの男」もまったく同様である、というのは「男」によって真理が意味されるから、265, 749, 1007, 3134, 3310, 3459番。また「ユダ」によって善が〔意味されるが〕、しかし、「ユダの男」は、天的な真理と呼ばれる、すなわち、真理の中にいる者にあるような、主への愛の善からの真理である、という相違がある。


原典講読『世の終わりと最後の審判』 13([3]~[5])

 

(1) 原文「3654番」

 [3] apud eundem, 


Tollet signum gentibus, et
congregabit expulsos Israelis, et dispersa Jehudae colliget a quatuor alis
terrae: tunc recedet aemulatio Ephraimi, et hostes
Jehudae
exscindentur; Ephraim non aemulabitur cum Jehuda, et Jehudah non
angustabit Ephraimum: … devovebit Jehovah linguam maris Aegypti; et agitabit
manum super fluvium cum vehementia spiritus Sui; … tunc erit semita reliquiis
populi Ipsius, quae residuae erunt ab Asshure, xi 12, 13, 15, 16; 
 


agitur ibi
in sensu litterae de reductione Israelitarum et Judaeorum e captivitate, sed in
sensu interno de Ecclesia nova in communi, et apud unumquemvis in particulari
qui regeneratur seu fit Ecclesia; ‘expulsi Israelis’ pro illorum veris, ‘dispersa
Jehudae’ pro eorum bonis; ‘Ephraim’ pro intellectuali illorum, quod non amplius
repugnabit; ‘Aegyptus’ pro scientificis, et ‘Asshur’ pro {1}ratiocinatione
inde, quae perverterunt; ‘expulsi, dispersa, reliquiae, et residui’ pro veris
et bonis quae supersunt; quod ‘Ephraim’ sit intellectuale, patebit alibi; quod ‘Aegyptus’
sit scientificum, videatur n. 1164, 1165, 1186, 1462, 2588, 3325; quod ‘Asshur’
sit ratiocinatio, n. 119, 1186, et quod ‘reliquiae’ sint bona et vera a Domino
recondita in interiore homine, n. 468, 530, 560, 561, 660, 661, 798, 1050,
1738, 1906, 2284: [4] apud eundem,
 


Audite hoc domus Jacobi, vocati
nomine Israelis, et ex aquis Jehudae exiverunt, …quia ab
urbe sanctitatis vocantur, et super Deo Israelis nituntur, xlviii 1, 2;


‘aquae
Jehudae’ pro veris quae sunt ex bono amoris in Dominum, vera illa inde sunt
ipsa bona charitatis, quae bona spiritualia vocantur et faciunt Ecclesiam
spiritualem, internam quae ‘Israel,’ et externam quae ‘domus Jacobi’; inde
patet quid significant ‘domus Jacobi vocati nomine Israelis, et ex aquis
Jehudae exiverunt’: [5] apud eundem,
 


Producam ex Jacobo semen, et ex Jehudah heredem montium Meorum, et
possidebunt eum electi Mei, et servi Mei habitabunt ibi, lxv 9;


 


‘ex Jehudah heres montium’ in
supremo sensu pro Domino, in sensu repraesentativo pro illis qui in amore in
Ipsum, ita in bono utriusque amoris; quod ‘montes’ sint illa bona, supra n.
3652 ostensum est:

(2) 直訳

[3] apud
eundem,
 [3] 同書に、 


Tollet
signum gentibus, et congregabit expulsos
Israelis
, et dispersa Jehudae
colliget a quatuor alis terrae:
 〔主は〕国々〔のため〕にしるし()を上げる、また「イスラエルの追い出された者」を集める(未来)また「ユダの追い散らされた者」を地の四つの脇から迎える(集める)

もとの動詞はそれぞれexpellodispergoです。


tunc
recedet aemulatio Ephraimi, et hostes
Jehudae
exscindentur;
 その時、エフライムの競争(張り合うこと)は去る(引っ込む)、また「ユダの敵」は取り除かれる(断ち切られる)

Ephraim non
aemulabitur cum Jehuda, et Jehudah non angustabit Ephraimum:
 エフライムはユダと張り合わない(ねたまない)、またユダはエフライムを苦しめない。


devovebit Jehovah linguam maris Aegypti;
 ……エホバはエジプトの海の舌をのろう。

et agitabit
manum super fluvium cum vehementia spiritus Sui;
 また、手を川の上に動かす(未来)ご自分の息()の激しさをもって。

… tunc
erit semita reliquiis populi Ipsius, quae residuae erunt ab Asshure, xi 12, 13,
15, 16;
 ……その時、小道(街道)がある、ご自分の民の残りの者〔のため〕に、彼らはアッシリアから残される(未来)11:12, 13, 15, 16 


agitur ibi
in sensu litterae de reductione Israelitarum et Judaeorum e captivitate, sed in
sensu interno de Ecclesia nova in communi, et apud unumquemvis in particulari
qui regeneratur seu fit Ecclesia;
 ここに文字どおりの意味の中で扱われている、捕(捕虜)から、イスラエル(の人々)とユダヤ(の人々)帰還について、しかし内意の中で、全般的に新しい教会について、また個別的に(特定的に)それぞれの者のもとの〔新しい教会が扱われている〕、その者は再生される、すなわち、教会となる。

‘expulsi
Israelis’ pro illorum veris, ‘dispersa Jehudae’ pro eorum bonis;
 「イスラエルの追い出された者」として彼らの真理が、「ユダの追い散らされた者」として彼らの善が〔意味される〕。


‘Ephraim’
pro intellectuali illorum, quod non amplius repugnabit;
 「エフライム」として彼らの知性(知力)が、それはもはや抵抗しない(未来)

‘Aegyptus’
pro scientificis, et ‘Asshur’ pro {1}ratiocinatione inde, quae
perverterunt;
 「エジプト」として記憶知(記憶知の能力)が、また「アッシリア」としてここからの(誤った)推論が、それらは☆曲解する(ゆがめる)

「それら」は記憶知と推論の両者です。

‘expulsi,
dispersa, reliquiae, et residui’ pro veris et bonis quae supersunt;
 「追い出された者、追い散らされた者、残りの者、残される者」が真理と善として、それらは生き残る。

quod
‘Ephraim’ sit intellectuale, patebit alibi;
 「エフライム」が知性(知力)あることは、他の箇所に明らかである。

quod
‘Aegyptus’ sit scientificum, videatur n. 1164, 1165, 1186, 1462, 2588, 3325;
 「エジプト」が記憶知であることは、1164, 1165, 1186, 1462, 2588, 3325番に見られる。


quod
‘Asshur’ sit ratiocinatio, n. 119, 1186, et quod ‘reliquiae’ sint bona et vera
a Domino recondita in interiore homine, n. 468, 530, 560, 561, 660, 661, 798,
1050, 1738, 1906, 2284:
 「アッシリア」が(誤った)推論であることは、119, 1186番、「残りの者」が、主により内的な人の中に秘められた善と真理であることは、468, 530, 560, 561, 660, 661, 798,
1050, 1738, 1906, 2284
番〔に見られる〕。

[4] apud
eundem,
 [4] 同書に、 


Audite hoc
domus Jacobi, vocati nomine Israelis,
et ex aquis Jehudae exiverunt,
…quia ab urbe sanctitatis vocantur, et super Deo Israelis nituntur, xlviii 1,
2;
 このことを聞け、ヤコブの家よ、〔あなたは〕「イスラエル」の名前で呼ばれる、また「ユダの水から出た」……神聖な都から、と呼ばれる、またイスラエルの神(の上)に寄りかかって(あてにして)るからである、48:1, 2 


‘aquae
Jehudae’ pro veris quae sunt ex bono amoris in Dominum, vera illa inde sunt
ipsa bona charitatis, quae bona spiritualia vocantur et faciunt Ecclesiam
spiritualem, internam quae ‘Israel,’ et externam quae ‘domus Jacobi’;
 「ユダの水」が、真理として〔意味されている〕、それらは主への愛の善から〔のもの〕である、真理は、それらはここから、仁愛の善そのものである、それらは霊的な善と呼ばれる、また霊的な教会をつくる、また〔その教会の〕内なるものは、それは「イスラエル」、また外なるものは「ヤコブの家」〔である〕。


inde patet
quid significant ‘domus Jacobi vocati nomine Israelis, et ex aquis Jehudae
exiverunt’:
 ここから明らかである、何を意味するか、「ヤコブの家がイスラエルの名前で呼ばれること、またユダの水から出る」ことが。

[5] apud
eundem,
 [5] 同書に、


Producam ex
Jacobo semen, et ex Jehudah heredem
montium Meorum,
et possidebunt eum electi Mei, et servi Mei habitabunt ibi,
lxv 9;
 わたしは、ヤコブから子()を、また、ユダからわたしの山々の相続人を生み出す、それをわたしの選ばれた者が所有する(未来)、またわたしのしもべがそこに住む(未来)65:9 


‘ex Jehudah
heres montium’ in supremo sensu pro Domino, in sensu repraesentativo pro illis
qui in amore in Ipsum, ita in bono utriusque amoris;
 「ユダから〔生まれる〕わたしの山々の相続人」が、最高の意味の中で、主として、表象的な意味の中で、彼らとして、その者はその方への愛の中に〔いる〕、そのように両方の愛の善の中に〔いる〕。

quod
‘montes’ sint illa bona, supra n. 3652 ostensum est:
 「山々」がそれらの善であることは、上の3652番に示されている。

@1
ratiociniis
 注1 ratiociniisratiocinationeに換えた。〔どちらも似たような意味なので、私にはどうしてこのように変更したのかわかりません〕

(3)
訳文(天界の秘義3654)

[3] 同書〔イザヤ書〕 

 〔主〕国々〔のため、「イスラエルのされた者」ユダのらされた者」四隅からめられるその時、エフライムの競争去り、「ユダの敵」かれる

 エフライムはユダとわないユダはエフライムをしめない

エホバはエジプトの海の舌をのろう。また、ご自分の息の激しさをもって御手を川の上に動かされる。 その時、アッシリアから残されるご自分の民の残りの者〔のため〕に、街道がある、11:12, 13, 15, 16 

 ここには文字どおりの意味で、イスラエル(の人々)とユダヤ(の人々)囚からの帰還について扱われている、しかし内意で、全般的に新しい教会について、また個別的に、再生される、すなわち、教会となるそれぞれの者のもとの新しい教会について扱われている。

 「イスラエルの追い出された者」は彼らの真理を、「ユダの追い散らされた者」は彼らの善を〔意味する〕。「エフライム」は、もはや抵抗しない彼らの知性を、「エジプト」は記憶知を、また「アッシリア」は、ここからのゆがめる推論を、「追い出された者、追い散らされた者、残りの者、残される者」は、生き残る真理と善を意味する。「エフライム」が知性(知力)あることは、他の箇所に明らかである。「エジプト」が記憶知であることは、1164, 1165, 1186, 1462, 2588, 3325番、「アッシリア」が(誤った)推論であることは、119, 1186番、「残りの者」が、主により内的な人の中に秘められた善と真理であることは、468, 530, 560, 561, 660, 661, 798,
1050, 1738, 1906, 2284
番に見られる。

[4] 同書に、 

 このことを聞け、ヤコブの家よ。〔あなたは〕「イスラエル」の名前で呼ばれる。また「ユダの水から出た」……神聖な都から、と呼ばれる。イスラエルの神に寄りかかっているからである、48:1, 2 

 「ユダの水」は、真理を意味し、それらは主への愛の善からのものであり、真理は、ここから、仁愛の善そのものである。それらは霊的な善と呼ばれ、霊的な教会をつくり、〔その教会の〕内なるものは「イスラエル」、外なるものは「ヤコブの家」である。ここから、「ヤコブの家がイスラエルの名前で呼ばれること、またユダの水から出る」ことが何を意味するか、明らかである。

[5] 同書に、 

 わたしは、ヤコブから子孫を、また、ユダからわたしの山々の相続人を生み出す。わたしの選んだ者がそれを所有し、わたしのしもべがそこに住む65:9

 

 「ユダから〔生まれる〕わたしの山々の相続人」が、最高の意味の中で、主を、表象的な意味の中で、その方への愛の中にいる者を、そのように両方の愛の善の中にいる〔者を意味する〕。「山々」がそれらの善であることは、前の3652番に示されている。