(3)
訳文(『天界の秘義』3488番)
7 ゆがめられた教会の第二の状態が、福音書の主のそれらの言葉によって述べられたことは、それらの内意から明らかであり、それは次のようなものである――
「これらのすべてのことは苦痛の始まり〔です〕」は、先行すること、すなわち、ゆがめられた教会の最初の状態を意味する、それは、〔前に〕言われたように、もはや何が善で、何が真理か知らないことが始まり、(しかし)それらについて彼らの間で論争すること、それらから虚偽が、それゆえに異端があることである。このようなことが、教会を何世紀も前にゆがめたことは、教会がキリスト教世界の中で分裂したことから明らかである。またこのことは善と真理についての見解にしたがっており、そのように、ゆがめられた教会は、前から多くの時代に始まっていた〔のである〕。
[2]「その時、〔彼らは〕あなたがたを艱難の中に引き渡し、あなたがたを殺します」は、善と真理が、最初に「艱難」によって、すなわち、曲解によって、その後、それらを「殺す」ことによって、すなわち、否定によって、失われることを意味する。「殺すこと」が善と真理について述べられるとき、そのように否定することであることは、3387, 3395番に見られる。「あなたがた」によって、すなわち、使徒たちによって、全体として一つの中の、そのようにその善も真理も信仰のすべてのものが意味される。十二の使徒たちによって、それらが意味されることは、577, 2089, 2129, 2130 f., 3272, 3354番に見られる、またここにはっきりと明らかである、というのは、使徒の属性についてではなく、しかし、世代の完了(世の終わり)について扱われているから。
[3]「わたしの名前のために、あなたがたはすべての国民から憎まれます」は、善と真理に属するすべてのものに対する軽蔑と離反を意味する。「憎むこと」は軽蔑することと退けることである、というのは、これらは憎しみであるから。「すべての国民から」は、悪の中にいる者からである。「国民」が彼らであることは、1259, 1260, 1849, 1868番, 2588番以降に見られる。「わたしの名前のために」は、主のために、そのようにその方からのすべてのもののために、である。「主の名前」が、それによって礼拝される全体として一つの中のすべてのもの、そのようにその方の教会に属するすべてのものであることは、2724, 3006番〔に見られる〕。
[4]「またその時、多くの者がつまずき、互いに引き渡し、また互いに憎みます」は、それらに対する敵意を意味する。「多くの者がつまずく」は、彼らの間の敵意である。敵意は主の人間性そのものに対してである。それがつまずき(妨害)とつまずきの石(反感)であることは、みことばの中のあちこちに言われている。「自分自身を相互に引き渡す」は、真理に対する虚偽からの、彼らの間の敵意である。「また互いに憎みます」は、善に対する悪からの、彼らの間の敵意である。
[5]「また多くの偽預言者が起こり、多くの者を惑わします」は、虚偽の説教を意味する。「偽預言者」が、虚偽を教える者、そのように虚偽の教えであることは、2534番に見られる。「また多くの者を惑わす」は、ここから派生するものがあることである。
[6]「また不正が増されるために多くの者の仁愛が冷たくなります」は、信仰とともに仁愛の死を意味する。「不正が増されるために」は、信仰の虚偽にしたがって、である。「多くの者が仁愛は冷たくなります」は、仁愛の死である。というのは、二つとも、足並みをそろえて見られるから。信仰のないところに、仁愛がなく、仁愛のないところに、信仰がなく、しかし、信仰を受けるものが仁愛であり、仁愛が何もないものは信仰を追い払う。ここから、すべての虚偽とすべての悪の起源がある。
[7]「けれども、終わりまで続ける者は救われます」は、仁愛の中にい者の救いを意味する。
‘perseverans
in finem’ est qui se non seduci patitur, ita qui non in {6}tentationibus
succumbit. 「終わりまで続ける者」は、自分自身が惑わされることに許す(甘んずる)者である、そのように試練の中で屈服しない者。
[8]「またこの王国の福音が全居住地の中に、すべての国民への証しとして宣べ伝えられます」は、このことが最初にキリスト教世界の中で知られるようになることを意味する。「宣べ伝えらる」は、よく知られるようになることである。「この王国の福音」は、そのような〔宣べ伝えられる〕真理である。「福音」は知らせであり、「王国」は真理である。王国が真理であることは、1672, 2547番に見られる。「全居住地の中に」は、すなわち、地には、キリスト教世界に、である。「地」が、そこに、そのようにキリスト教世界に、教会がある地域であることは、662, 1066, 1068, 1262, 1733, 1850,
2117, 2118, 2928, 3355番に見られる。
教会は、信仰の生活から、すなわち、真理のものである善の生活から、ここに「居住地」と呼ばれている、というのは、「住むこと」は内意で生きること、また「住民」は真理の善であるから、1293, 2268, 2451, 2712, 3384番。「証しとして」は、知るように、知らなかったことを口実としないように、である。「すべての国民に」が悪い者に、であることは、1259, 1260, 1849, 1868, 2588番。というのは、虚偽と悪の中にいるとき、もはや何が善で、何が悪か知らず、その時、虚偽を真理であり、悪を善であることを、また逆に〔真理が虚偽、善が悪と〕、信じるからである。教会がこの状態の中にあるとき「その時、終わりがやって来ます」。
さて、続けられている、また「創世記」の章の〔始まる〕前に続けられ〔て書かれてい〕るそれらの中で、主の神的な慈悲から、教会の「荒廃の忌まわしいもの」と呼ばれる状態について扱われ、それが第三の状態であることが説明される。