原典講読『世の終わりと最後の審判』 1(sedとatの違い)

 

(4) sedatの違い。接続詞について。


 sedatはどちらも「しかし」の意味で、問題ありませんが、ここのように同じ文脈の中ででてくると、「使い分けているのかな? そうだとすれば、どのような意味合いでつかいわけているのだろうか?」とそのの違いが気になりましたので、述べてみます。


 話しは少し脇道にそれて、接続詞の一般論:接続詞は、文章中で大小の構成要素間の特別な関係を示すために使われます。節読師は言語の要素としてしばしば最も軽く見られてしまいますが、しかし、意味の微妙なあやを生き生きと伝えるものです。なぜなら、しばしば正確な意味を定義しにくいように思える抽象的な性質の間の関係を示すからです」(教科書『スヴェーデンボリのラテン語』より)


スヴェーデンボリの文章の場合、論理的に構成されているので、この「接続詞」をきちんと把握することが、読解の鍵になることが多いです。


接続詞は大別すれば「順接と逆接」また「選択」もあります(他は省略)。その逆接の接続詞の代表格がsedであり、その適用も広いようです。それでも(これも接続詞)、他の接続詞もあるので、述べてみます。


 ある文法書に「(否定の)強弱」がありました。その文法書では「等位」(二つの命題を結ぶ)と「従位」(主文に付属命題を結びつける)接続詞があり、等位のうち「対立」について、


atは強い対立、②sedverumは中間対立、③autemvero(一つの語の後に置くが)弱い対立を示す、とありました。これでよいようです、その訳語は文脈から決定すればよいでしょう。


 すなわち、一番強い対立(否定)at「しかし」であり、これを「これに反して」と訳すこともあります。sedはそれほど否定が強くなく、単に文の転移を述べる場合があります、それでそのようなときは「けれども」「~でも」のニュアンスとなり、その訳語を使うこともあります。veroは「けれども」「とはいえ」となります。不等号()を使って、書き表わしておきます。


 「atsed, verumautem, vero


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