(3) 訳文
69. 最初に、「キリスト」が「メシア」、「油を注がれた者」、「王」と同じであることについて、みことばの中の次の箇所から明らかである。「ヨハネ福音書」に、
アンデレは自分の兄弟シモンを見つけ、彼に言った、「私たちはメシア、すなわち、翻訳すれば、キリストに出会った」1:42。
同書に、
〔この〕ことばを聞いている群衆からの多くの者は、「これは真に預言者である」と言った。他の者たちは、「これはキリストである」と言った。しかし、ある者たちは、「それゆえに、ガリラヤからキリストがやってくるのか? 聖書は、ダビデの子孫から、またダビデがいた町ベツレヘムから、キリストがやって来る、と言っていないか?」と言った。7:40-42。
「メシア」として明らかに「キリスト」が述べられており、彼らはその者を待ち望んでいる。
同書に、
それゆえ、指導者たちは、この者が真にキリストであることを真に認めたのか。しかし、「私たちはこの者がどこからであるか知っている、けれども、キリストがやって来るとき、どこからであるか、だれも知らない」。7:25-27。
「メシア」として「キリスト」が述べられている。「どこからであるかだれも知らない」のは、認められないからであった。
同書に、
ユダヤ人たちはイエスを取り巻き、彼に言った、「いつまで、あなたは私たちのアニムス(心)を宙ぶらりんにしておくのか? もし、あなたがキリストであるなら、私たちに自由に話して言え」。イエスは彼らに答えられた、「わたしはあなたがたに言った、しかし、あなたがたは信じなかった」10:24, 25。
ここにもまた、「メシア」として「キリスト」がのべられており、彼らはその者を待ち望んでいる。
同書に、
群衆は答えた、「私たちは律法から、キリストが永遠にとどまることを聞いた」。12:34。
「メシア」として「キリスト」が述べられている――同書に、
マルタは言った……「私は、あなたが世にやって来られることになっていたキリスト、神の子であることを信じます」。11:27。
すなわち、メシア〔である〕こと〔を信じたのである〕。「ルカ福音書」に、
エルサレムにシメオンという名前の人がいた……彼に聖霊から、主のキリストを見るよりも前に、死を見ることがない、と答えがなされていた。2:25, 26。
メシア、すなわち、主の油注がれた者として〔のキリストを見ることである〕。
同書に、
イエスは弟子たちに言われた、「しかし、あなたがたは、わたしを、だれであるとを言うか?」ペテロが答えて言った、「神のキリスト〔です〕」9:29、「マルコ」8:29。
ほかに他の箇所に、例えば、「マタイ福音書」26:63, 64、「ヨハネ福音書」6:68, 69、「マルコ福音書」61, 62。
[2] さて、「キリスト」と「メシア」が同じであるので、またギリシア語の「キリスト」とへブル語の「メシア」が「油注がれた者」を意味するので、ここから「キリスト」は「油注がれた者」と同じで、なおまた王とも同じであることが明らかである、なぜなら、王はみことばの歴史として書かれたものから明らかであるように、その箇所の多くのものから、なおまた預言の中にもまた、一般的に油注がれた者と呼ばれたから、例えば「ダビデ〔の詩篇〕」に、
地の王たちは逆らい、指導者たちは一緒に、エホバについて、またその方の油を注がれた者について諮った、「詩篇」2:2。
同書に、
今や、私は知る。エホバはご自分の油注がれた者を救われる、自分の聖なる天から、その右手の救いの力の中で答えられることを。「詩篇」20:6。
同書に、
エホバは彼らの力、またご自分の油注がれた者の救いの力。「詩篇」28:8。
「サムエル記」に、
主はご自分の王に力を与え、またご自分の油注がれた者の角を持ち上げられる。「サムエル記Ⅰ」2:10。
そこにまた多くの原語の中で「メシア」が読まれる他の箇所に、王として「油注がれた者」が述べられている。それらの預言で、内意では主について扱われている。
王〔である〕こともまた新約聖書の中の箇所から明らかである。
例えば、「マタイ福音書」に、
総督はイエスに質問した、「あなたはユダヤの王なのか?」 イエスは彼に言われた、「あなたは〔それを〕言う」。27:11。
「ルカ福音書」に、
ピラトはイエスに言って質問した、「あなたはユダヤの王のか?」 その方は彼に答えて言われた、「あなたは〔それを〕言う」。23:3。マルコ15:2。
「ヨハネ福音書」に、
彼らは叫んだ、「ホサナ、祝福〔あれ〕、主の名前の中にやって来る者、イスラエルの王〔に〕」。12:13。
同書に、
ナタナエルは言った、「ラビ(先生)、あなたは神の子です、あなたはイスラエルの王です」。1:50。