原典講読『みことばとその内意』 56(白い馬3,4)(訳文)

 

(3) 訳文


56. 「馬」が理解力を意味することは、来世の中の表象ら以外の他の源泉からやって来ない。しばしば、霊たちの世界の中に、そこに馬が、多くのいろいろなものとともに、そしてまた馬に座る者も見られ、また見られるたびごとに理解力を意味している。このような絶え間ない表象が霊たちのもとにある。


理解力である「馬」の表象から、みことばの中で馬が話しに出されるとき、人間のもとの霊と天使たちは、扱われているものについて理解力であることをすぐさま知る。さらにまたここから、別の場所のある世界から、ある霊たちが知性と知恵が教え込まれ、霊たちの世界から天界の中へ上げられるとき、火のように輝く馬が見られる。その馬もまた、彼らが上げられるとき、私に見られた。


[2] ここから、エリシャに見られた「火の戦車と火の馬」によって、何が意味されるか、それはエリアが旋風によって天の中に上ったときであるが、私に明らかすることができた。なおまたその時のエリシャの叫び声によって何が意味されるかも、


 


 わが父、わが父、イスラエルの戦車とその騎手たち、「列王記Ⅱ」2:11, 12


 


 また、イスラエルの王ヨアシュがエリシャが死ぬときに同様に言ったことによって、


 


 わが父、わが父、イスラエルの戦車とその騎手たち、「列王記Ⅱ」13:14


 


 エリアとエリシャによって、みことばに関する主が表象されることは、主の神的な慈悲から、他の箇所で言われる。すなわち、愛と仁愛の教えが「火の戦車」によって、またここからの信仰の教えが「火の馬」によって表象されることである。信仰の教えとは、内的なもの、すなわち、内意に関して、みことばの理解と同じである。


[3] 戦車と馬が天界の中で霊と天使たちのもとに見られることは、「ザカリヤ書」1:8-106:1-7、また他の箇所のように預言者にだけでなく、エリシャの若者にもまた見られたことから明らかにすることができる、そのことについては次のように「列王記」の中に、


 


 エホバはエリシャの若者の目を開け、若者は見た。見よ、山は、エリシャのまわりに、多くの馬で、また火の戦車で〔満ちていた〕、「列王記Ⅱ」6:17


 


 さらに、霊たちの世界の中で知的な者と賢明な者の住まいがあるところに、戦車と馬が絶えず見られる、〔前に〕言われたように、戦車と馬によって知恵のものと知性のものが意味される理由からである。


 死後、生き返った者は、来世の中に入り、馬に座っている、またその後、馬から降りている若者の表象を見る。またそれによって、天界の中にやって来ることができる前に、善と真理の知識で教えられなければならないことが意味される(「第一部」の187, 188番☆1に見られる)。


 「馬と戦車」がそれらを意味したことは、古代教会の中で、古代教会の書物である「ヨブ記」からもまた明らかにすることができるように、最もよく知られていた、そこには次のことが〔述べられている〕、


 


 神がそれに知恵を忘れさせ、それに知性を与えらなかった。〔それは〕高いところに上がる時のように、馬とその騎手をあざ笑った、39:17-19


 


[4]「馬」の意味が理解力であることは、古代教会からまわりの賢人たちへ、さらにまたギリシアへ導かれた。ここから彼らは、愛が意味される太陽を描いた(2441, 2495番☆2〔参照〕)、そこに自分の知恵と知性の神を置いたこと、またその神に戦車と四つの火の馬があるとした。また、海の神を述べたとき、海によって全般的に知識が意味されたので(28, 2120番〔参照〕)、その神にもまた馬を持たせた。理解力からの知識の起源を述べるとき、ひづめが泉を破り、そこ〔泉〕には知識である処女たち〔がいた〕飛ぶ馬を描いた。またトロイの馬によって、城壁を破壊するための彼らの理解力からの人為的なもの以外に他のものは意味されなかった。


 今日、確かに、古代人から彼らに受け入れられた習慣から、知的なものを述べるとき、飛ぶ馬、すなわち、ペーガソスによって、また学問を述べるとき、泉によって述べる習慣である、しかしほとんど者は、「馬」が神秘的な味で理解力を、また「泉」が真理を意味することを知らない。


 まして、それらの表象が古代教会から異教徒へと導かれたことも。


 


1 本講座『驚くべきこと』20, 21番。


2 本講座の追加箇所(88)


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