原典講読『みことばとその内意』 55(白い馬2)(訳文)

 

(3) 訳文


55.「白い馬」が、みことばの理解力であることは、その内的なもの、すなわち、同じことであるが、みことばの内意に関して、「馬」の意味が知力(知性)であることから明らかである。みことばの預言の中にしばしば馬と騎手の名前が挙げられている、しかし、今まで、だれにも、「馬」が知力(知性)を、また「騎手」が知的な者を意味すること知られなかった。


 例えば、その時、イスラエルであったヤコブの預言の中に、ダンについて、


 


 ダンは道の上の蛇、小道の上の矢蛇、馬のかかとをかむ、騎手は彼の後方に倒れる。エホバよ、私はあなたの救いを待ち望む、「創世記」49:17, 18


 


 「蛇」が、神的なアルカナ(奥義)について感覚的なものと記憶知から推論する者であることは、195番に、「道」と「小道」が真理であることは、627, 2333番に、「かかと」が最低の自然的なものであることは、259番に見られる。「馬」は、みことばの理解力であり、また「騎手」は、教えることである。ここから、これらの預言が何を意味するか明らかである、すなわち、信仰の真理について感覚的なものと記憶知から推論する者は、単に最低の自然的なものの中にしがみつき、このように何も信じないことである、それが「後方に倒れること」であり、それゆえ、「エホバよ、私はあなたの救いを待ち望む」と付加されている。


[2] 「ハバクク書」に、


 


 神よ、あなたはあなたの馬の上に乗られる、あなたの戦車は救い〔である〕…あなたはあなたの馬を海の中へ踏みつけるようにされた、3:8, 15


 


 そこに「馬」は、みことばの中にある神的な真理を表わし、「戦車」は、ここからの教えを表わし、「海」は、知識を表わすものとして、〔述べられていることは〕28, 2120番〔参照〕、それらは神からのみことばの理解力であるので、「あなたの馬を海の中へ踏みつけるようにされた」と言われる。ここに馬は、前のところの「黙示録」の中のように神に帰せられているが、同様のものを意味することなしにその方に帰せられることはできない。


[3] ダビデ〔の書〕に、


 


 神に〔向かって〕歌え、その方の名前に〔向かって〕歌え、雲の中に乗る者を高めよ、その方の名前、ヤーの中に、「詩篇」68:4


 


「雲の中に乗ること」は、内的なもの、すなわち、内意に関して、みことばの理解力を表わす。「雲」が文字の中に、その中に内意がある、みことばであることは、「創世記」第18章への序文☆に見られ、そこに、「主が天の雲の中に、力と栄光とともにやって来る」ことが何を意味するか説明されている。


[4] 同書に、


 


エホバは天を押し曲げ、降りられた。暗黒はご自分の足の下に〔あった〕、ケルブの上に乗られた、「詩篇」18:9,10


 


 ここに「暗黒」は、雲として、「ケルブの上に乗ること」は、人間が自分自身からみことばの中の信仰の神秘(奥義)の中に入らないような主の摂理を表わすものとして〔述べられていることは〕、308番〔参照〕。


「ゼカリヤ書」に、


 


 その日に、馬の鈴の上に、エホバの聖なるものがある、14:20


 


「馬の鈴」は、みことばの霊的な理解力を表わし、それは聖なるものである。


[5] 「エレミヤ書」に、


 


王たちと首領たちは、この都の門を通って入る。ダビデの王座の上に座って、彼らは、彼らの首領たちは、ユダの男、またエルサレムの住民は、戦車の上に、馬の上に乗る。この都は永遠に住む〔ところとなる〕、17:25, 2622:4


 


 「エルサレムの都」は、主の霊的な王国と教会を表わす。「王たち」は、真理を表わすものとして〔述べられていることは〕、1672, 2015, 2069番。「首長たち」は、真理の主要な戒めを表わすものとして〔述べられていることは〕、1482, 2089番。「ダビデ」は、主を表わすものとして〔述べられていることは〕、1888番。「ユダの男とエルサレムの住民」は、愛と仁愛と信仰の善の中にいる者を表わすものとして〔述べられていることは〕、2268, 2451, 2712番。そのように「戦車の上に、また馬の上に乗ること」は、みことばの内なるものの理解力から真理の教えを教えられること〔を表わすもの〕として。


[6] 「イザヤ書」に、


 


 その時、あなたはエホバを喜ぶ。わたしはあなたを地の高いところの上に乗させる、またわたしはあなたをヤコブの相続を食べさせる、58:14


 


「地の高いところのうえに乗ること」は知性を表わす。


ダビデ〔の書〕に、


 


 愛の歌…あなたの剣を腿(もも)の上に、力ある男よ、あなたの栄光と美観を帯よ、あなたの美観で進み出よ、真理のことばの上に、義の柔和の上に乗れ。あなたの右手はあなたに驚くべきことを教える、「詩篇」45:標題、3, 4


 


 「真理のことばの上に乗ること」は、明らかに真理の理解力を表わし、また「義の柔和な、ことばの上に〔乗ること〕」は善の知恵を表わす。


 [7] 「ゼカリヤ書」に、


 


 その日に、エホバは言われる。わたしはすべての馬を驚きで、騎手を狂気で打つ。またユダの家の上に、わたしの目を開き、また民たちのすべての馬を、盲目で打つ、12:4


 


 そこにもまた明らかに「馬」は、「驚きと盲目で打たれる」者の理解力を表わし、、また「乗る(こと)」は、「狂気」で打たれる者の知性を表わす。


「ホセア書」に、


 


 すべての不正を取り去れ、善を受け入れよ、私たちは私たちの唇の若い雄牛を報いる。アッシリアは私たちを救わない、馬の上に私たちは乗らない、また私たちはもはや、私たちの手の働きを、私たちの神〔である〕と言わない、14:2, 3


 


 「アッシリア」は、推論を表わす、119, 1186番。「馬」は、プロプリウム(自己)の知性を表わす。


 ほかにも非常に多くの他の箇所の中に。


 


本講座で後から取り上げる予定です。


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