(3) 訳文
31. 霊はいのちが身体の中にあるときよりも(はるかに)敏感な感覚なしでいる、という間違った見解を警戒するとよい。千のまた千の経験から、私は正反対のことを知っている。またもし、霊についての自分自身に持っている自説の理由から、信じることを欲しないなら、来世の中にやって来たとき、そこでは経験そのものからそれらを信じることをつくるとよい。視覚を持っているだけでなく、なぜなら、光の中で生きているから、また善霊、天使的な霊、天使は、世の中の真昼の光とほとんど比較されることができないようなそれほど大きな光の中に生きている。その中で生き、見る光について、主の神的な慈悲から、続くものの中で〔述べよう〕。彼らは、身体の中の彼らの聴覚と比較されることができないような、それほど敏感な聴覚を持っている。今や、数年の間、ほとんど絶えず、私と話している。しかし、彼らの話し方についてもまた、主の神的な慈悲から、続くものの中で〔述べよう〕。彼らは嗅覚を持っている、そのことについてもまた、主の神的な慈悲から、続くものの中で〔述べよう〕。彼らは最も敏感な触覚をもっていて、ここから地獄の中の苦痛と拷問(責め苦)がある。なぜなら、触覚にすべての感覚は関係し、感覚は触覚の単なる多様性と変化であるから。
[2] 彼らは欲望と情愛を持っている、それらもまた、いのちが身体の中にあったときに持ったものと比較されることができない、それらについて多くのことを、主の神的な慈悲から、続くものの中で〔述べよう〕。彼らは、いのちが身体のの中にあったとき考えたよりも、はるかに明敏にまた明確に考える。思考の一つの観念の中に、いのちが身体の中にあったときに考えた千のものの中にあるものよりも多くのものを含む。自分たちの間でそのように鋭く、繊細に、敏感に、また明確に話す、もし人間がそれについて何らかの手段で知覚するなら、唖然としたであろう。要するに、まったく何も失っていなかった、骨と肉とここからの不完全なものを除いて、むしろ完全な人間のようである。
身体の中で生きた時、認め、知覚したものは、霊が感じたのであり、たとえ身体の中で見られても、それでも身体のものではなかった。それゆえ、身体を捨てて、はるかに敏感なまたさらに完成された感覚に生きている。いのちは感覚にある、なぜなら、感覚なしに、いのちは何もないから、また感覚がどのようなものか〔によって〕いのちはそのよう〔である〕から、そのことはそれぞれの者によく知られることができる。