(4) 句読法の違いについて
日頃思っていて、機会がなくて言えなかったことを、ここで述べておこう。
日本語の句読点のつけ方には明確な基準はない、と思っている。句読点、すなわち句点(、)読点(。)は古来なかった。日本語の昔の文章は、だらだらつなげて書いたのであった。区切りは自然とわかったのであろう。基準がなかったので、そのうち、「読みやすさ」をもとに、(また句点がないと誤読されることもあって)、文章を適当に区切り、適当な長さにした。
英語(他は知らない)では、区切りはカンマ(,)、セミコロン(;)、ピリオッド(.)の順に強い(コロン(:)もあるが別の機会に述べたい)。
文意を小区切りしたいときカンマ(これをつけるか、付けないかで意味に大きな違いが発生するのが「or」と「,or」また「which」と「,which」など、ご存じでい方はいないと思いますが、そうでない人は一勉強してください)。
いったん区切って、別のことを述べるのがセミコロン。すなわち、「Aではある、それでもBということもあって、~である」などという論理構成なら、それでもの前でいったん文を区切るのが読みやすい。
最後に、まとまった文として終了するのが「終止符」、フルストップとも言われる。
さて話しは変わってラテン語は、その性格もあって、(だらだらと)文章をつなげることが得意である。フルストップまで延々と論述が続くことがある。それまでセミコロンが次から次へと続く。
で、それはともかく、そのようなことを「翻訳する」上ではどうするのか? が翻訳者に課せられる。日本語はなるべく文章を区切る。だらだらつなげないことが読みやすい文章だとされている(あえてこれに反する文章家もいる)。すなわち読点を多用することである。
そこで、スヴェーデンボリの文章に限っては(実は他のラテン語の文章は知らない、私が知っているのはスヴェーデンボリのラテン語だけ)、「セミコロンは読点とする」のが論理的にも、日本語の文章としても、ラテン語の性格からも「妥当である」というのが私の結論である。
しかし、本日の例のように、(もちろん)例外もある。