(3) 訳文
188 来世では解体の方法に非常に多くのものがあり、そしてまた循環の中に就任する方法に非常に多くのものがある。それらの解体は、身体の中で行なわれる、血、なおまた漿液、リンパ、そのようにまた乳糜の浄化を、またいろいろな純化を表象する。また循環の中への就任は、その後、役立ちへと、それらの体液の導入を表象する。来世の中で、霊たちが解体された後、穏やかなまた快い状態の中へ、したがって社会の中へ、それらの社会に就任し、また結び付けられるために入れられることは最も普通のことである。
[2] 血、漿液や乳糜、なおまた胃の中の食べ物の浄化と純化は、霊的な世界の中のこのようなものに対応し、自然的なものの中で自然的なもの以外に何らかのものを決して考えない者、またさらに、霊的な何らかの作用し、反作用するものが内在するかあるいは内在することができることを否定して、そのことを信じる者には、異質なもののように見らることしかできない。そのときそれでも、物事は、自然とその三つの界にあるすべてと個々のものの中に、霊界から働く内在的なものがあるようなものである。ここから、このようなものが内在しなかったなら、自然界の中で、原因と結果はまったく何も行なわれであろう。それゆえ、何らかのものも生み出されない。霊的な世界から自然的なものの中に内在するものは、最初の創造から植え付けられた力と呼ばれるが、しかし、コナトゥス(努力)であり、コナトゥスがやむとき、活動または運動はやむ。ここから、目に見える全世界は霊界を表象す劇場である。
[3] このことは、そこから活動がある筋肉の運動と同様である。その運動に人間の思考と意志からのコナトゥス(努力)が内在しないなら、すぐにやむ、なぜなら、学界の中でよく知られた法則、コナトゥスがやむとき、運動はやむこと、なおまた、運動の中にコナトゥス以外に実在するものは何も存在しないようにコナトゥスの中に確定するすべてのものがあることにしたがっているからである。自然的なものの中の、活動または運動の中のその力またがはそのコナトゥスが霊的なものであることは明らかである、なぜなら、考えることと意志することは霊的なものであり、しかし、活動することと運動することは自然的なものであるから。自然的なものを越えて考えない者は、このことを決して把握しない、しかしそれでも否定することができない。しかし、意志の中にあり、またここから思考の中にあるものは、生み出すものであり、〔それは〕活動とともに形の中で生み出されるものと同じようなものではない、というのは、活動は、単に心が欲し、考えるものを表象するから。