(3) 訳文
129 霊魂と身体の間の対応が、すなわち、人間の内の霊のものと彼の外の身体のものの間の対応が、どんなものかは、霊のものである思考と知覚(認知)と身体のものである話すことと聴覚との対応、流入、伝達からはっきりと明らかにすることができる。人間の話している思考は、彼の霊による話しでないなら、存在しない、また話しの知覚(認知)は彼の霊による聴覚でないなら、存在しない。人間が話している時、思考は、それ自体を話しに結合させ、またそれに内在しているので、確かに彼には話しのように見られない。また人間が聞いている時、知覚(認知)は、耳の中の聴覚のようにしか見られない。ここから、熟考しない大部分の者は、すべての感覚が身体のものである器官の中にあり、またそれゆえ、それらの器官が死によって崩壊するとき、感覚は何も残らない、としか知らない。とはいえ、その時、人間は、すなわち、彼の霊は、まったくの自分の感覚のいのちそのものの中にやって来る。
[2] 話し、聞くものが霊であることを、霊たちとの会話から、はっきりと私に明らかにすることができた。彼らの話しは私の霊に伝達されて、私の内的な話しの中に、そしてここから対応する器官の中へ落ち込み、そしてそこにコナトゥス(努力)の中に終わった、それを数回、私ははっきりと知覚した。ここから彼らの話しは、人間の話しのように聞こえる音声で私に聞かれた。時々、人間の交わりの真ん中で私と話した霊は、彼らの話しがこのように聞こえる音声で聞かれたので、彼らのある者は、そこに居合す者によってもまた聞かれると思った。しかし、彼らの話しは内なる道を通って、また〔しかし〕人間の話しは外なる道を通って私の耳に流入するのでそのようでない、と答えられた。
ここから、霊が預言者たちとどのように話したか明らかである。人間が人間とのようにでなく、しかし、霊が人間と、すなわち、彼の中でのようにである。〔例えば〕ゼカリヤ書1: 9, 13, 19、2: 2、4: 1, 4, 5、5:5, 10,6:4、また他の個所に。
しかし、私は、これらのことが、人間が霊であり、ま体は彼に世での役立ちとして仕えるものであることを信じない者に理解されることができないことを知っている。そのことを確信した者は、何らかの対応について決して聞こうとしない、またもし聞くなら、否定の中にいるので、拒否する。それどころか、身体の何らかのものが取り去られることを悲しむ。