原典講読『最大の人とその対応』 118(訳文)

 

(3) 訳文


118 しかし、霊感覚のいのちは二つすなわち実在するものと実在しないものであることをらなくてはならない。一つともう一つの区別は、天界の中の者に見られるすべてのものは実在のものであり、しかし、地獄の中の者に見られるすべてのものは実在しないものであることのにあるというのは、何でも神性からすなわち、主からやってるものは実在するものであるからなぜなら、物事エッセそのものからまた本質的にいのちからやってるからしかし、霊のプロプリウムらやってるものは、物事エッセからまた本質的にいのちからやってないのでこれは実在するものではない。善真理情愛にいる、彼らはのいのちの< SPAN style="FONT-FAMILY: 'MS 明朝','serif'; mso-ansi-language: EN-US; mso-ascii-font-family: 'Book Antiqua'; mso-hansi-font-family: 'Book Antiqua'">このように実在するいのちのにいるなぜなら、善真理情愛して現在するからしかし、悪虚偽にいる、情愛して、彼らはプロプリウムのいのちのこのように実在しないいのちのにいるなぜなら、主虚偽現在されないから。実在するものは実在しないものから、実在するものが実際られるように存在することまた実在しないものは実際られるようには存在しないことで区別される


[2] 地獄にいる、等しく感覚また、現すなわち、実際じるのと同様存在するとしからないしかしそれでも、天使により調べられる時、同幻影のようにられまた消失させられまた彼自体人間のようでなくしかし、怪物のようであるさらにまたらとこの事柄についてすことがえられた彼らのある者は、見また触るのでそれらを実在するものであると信じている、と言い、感覚は欺くことができないことを言いたした。しかし、答えることが与えられた。それでも実在するものでないこと、またこのことは、どれほどそれらが実在するものとして彼らに見られても、〔彼らが〕対立したものの中に、すなわち、神性と正反対のものの中に、すなわち、悪と虚偽の中にいること、またさらに、彼ら自身が、悪の欲望の中と虚偽の信念の中にいるかぎり、思考に関して幻想の中にしかいない、また幻想から何らかのものを見ることは、実在するものを実在しないものとして、また実在しないものを実在するものとして見るからである。また、もし、主の神的な慈悲から、彼らにこのように感じることが与えられなかったなら、感覚的ないのちは何も、それゆえに、いのちは何もなかったからである、なぜなら、感覚がいのちのすべてのものをつくるから。


 これらについてすべての経験を提示することは、非常に多くのページを満たすことになったであろう。


[3] そこで来世にやって来るとき、惑わされないように警戒するとよい。というのは、悪い霊は、世から新しくやって来た者の前で、いろいろな幻覚を示すことを知っており、またもし欺くことができないなら、それでも実在するものは何もなく、しかしすべてのものは、天界の中のものまた観念的なものである、ということによって説得することを試みるから

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