[3] さらにまたこのように実際に、見、聞き、嗅ぎ、感じるのは、身体ではなく、彼の霊である。そのために、霊が身体から解放される時、身体の中にいたときの自分の感覚の中に、そのうえ、大いに鋭敏なものの中にいる。というのは、身体は相対的に粗雑であり、〔その〕感覚は鈍く、またさらに、それらを地と世俗のものに浸したので鈍いから。次のことを私は断言することができる。霊は人間が身体の中に持つよりも大いに鋭敏な視覚を、さらにまた聴覚を持っていること、また驚かされることに、嗅覚、そして特に、触覚を持っている、というのは、彼らは互いに見、互いに聞き、互いに触れるからである。このこともまた、死後のいのちを信じる者は、感覚なしのいのちは決して存在することができないこと、また感覚の性質にしたがっていのちの性質があること、それどころか、知力は内的な鋭敏な感覚がないなら、またさらに高い知力は霊的な物事の感覚がないなら存在しないことから結論する。ここからもまた、知力とその知覚は、内的な感覚と呼ばれる。
[4] 人間の感覚の状態については、死後、次のようである。人間が死んで、彼のもとで身体が冷たくなると直ぐに、彼はいのちの中に、またその時、すべての感覚の状態の中に、最初にまだ身体の中にいるのとほとんど異ならないとしか知らないまでも、生き返らせられる。というのは、感覚の中にいて、その感覚は、そのように信じることを彼を引き起こすから。しかし、鋭敏な感覚を持っていること、またこのことを特に、他の霊たちと話し始めて、気づく時、来世にいること、また彼の身体の死は彼の霊のいのちの続きであったことを認める。
私が親しかった二人の者と、私は〔かれらが〕埋葬される同じ日に話した。また一人の者とは私の目を通して自分の棺と棺台を見た、また彼は世の中でのすべての感覚の中にいたので、葬式について、彼の葬儀が続くとき、そしてまた自分の身体について、自分自身は生きているので、それを捨てるとよい、言って私と話した。
[5] しかし、来世にいる者は、世の中にあるどんなものでも他の人間の目を通して決して見ることができないことを知らなくてはならない。しかし、私の目を通してできた。私が彼らとともに霊にいるから、また同時にこれらの者とともに身体にいるからであった、さらまた1880番参照。そしてさらに、私は来世で話した者たちを私の身体の目でなく、私の霊の目で、またそれも時々、身体の目よりもさらにはっきりと見た、なぜなら、主の神的な慈悲から、私の霊のものである感覚が開かれたからであり、このことを知らなければならない。
[6] しかし、私は、これまで言われたことを信じるようにはならないことを知っている。身体のもの、地のものまた世俗のものに浸けられている者は、すなわち、それらを目的として持つ者はそれらによって浸けられている、というのは、これらの者は死後に消散させられるものしか把握しないから。さらにまた私は、霊魂について大いに考え、研究した者、また同時に、霊魂が彼の霊であることを把握しなかった者、また彼の霊が身体の中で生きる彼の人間そのものであることを信じるようにされないことを知っている。というのは、これらの者は霊魂について、単に身体の有機的な形の中で活動する何らかの思考、または炎、またはエーテルであること、さらにまた身体の中の彼の霊である純粋な形の中にはなく、またしたがって身体とともに消散させられるこのようなもの以外の他の概念を捕えることができないから。またこのことは、自分自身を、他の者よりも知恵があるとのひと吹きの〔=思いあがった〕熟考からの信念によって確信した者に、特にそうである。