原典講読『最大の人とその対応』 110(訳文2,3)

 

[2] らのある、人間死後、幽霊のようになるとしかじなかった、亡霊についていたことからその見解確信したしかしここかららかの粗野生命力となったものまた最初らのいのちから発出し、しかし、再死体このように消滅させられるらかのものしか結論しなかったけれどもある、最後審判、世滅亡時に最初復活させられまたその時、塵でこなごなになって身体が、その時、集められ、骨復活すると信じた。またその最後審判、すなわち、世滅亡、多くの世紀してむなしくまれたので、決して復活させられないというりの中へと滑ちたその時、みことばからんだことまたそこからもまた時々、話したこと、〔すなわち〕人間ぬと霊魂にあり、自分自身しんだ生活にしたがって幸福または不幸にいることそれはんだとラザロについてったことであるがそれらについてもえないしかし、教えられたそれぞれの最後審判、人間ぬときである。またその時、世えたような身体そしてすべての感覚もそのようにけられているように自分自身えることしかし、世ののものである肉体的なものはじゃませず、天界のものであるものをおおわないので、さらに純粋またさらに鋭敏であるこのようにいわば清められた身体の中にいる。また、そこでは世の中のような骨と肉の身体を決して持ってまわることができない、再び地の塵で取り囲まれることになるからであるである。


[3] ある者たちとその事柄について私、彼らの身体が埋葬される同じ日に話した。その者たちは私の目を通して自分の死体、棺を、また埋められること見た。また彼らは、それを捨てたほうがよい、これは世の中にいたとき自分たちに役立ちとして仕えた、また今や生きているその世の中の役立ちとして仕える身体の中にいる、と言った。さらにまた、嘆きの中にいた彼らの親類に私がこれらのこと言うように願った。しかし、答えることが与えられた。もし、私が言うなら、彼らは、自分の目そのもので見ることができないものを何ものでもないと信じ、またこのように欺くものの幻覚の間に置いて、あざける。というのは、人間互いに自分の目で見るように、霊たちは互いに自分の目で見ること、また人間は自分の霊の目でなければ、霊を見ることができないこと、また主が内なる視覚を開くとき、霊と天使たちをそしてまた天界の多くのものを見た預言者たちに行なわれたように、彼らを見ること、信じることへと引き寄せることができないからである。今日、生きる彼らが、その時に生きたなら、それらを信じたかどうか疑わなくてはならない余地がある。

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