[2] 彼らのある者は、人間が死後、幽霊のようになるとしか信じなかった、亡霊について聞いたことからその見解を確信した。しかし、ここから何らかの粗野な生命力となったもの、また最初に彼らのいのちから発出し、しかし、再び死体に戻り、このように消滅させられる何らかのものしか結論しなかった。けれども、ある者は、最後の審判の時に、世の滅亡の時に最初に復活させられ、またその時、塵の中でこなごなになって彼の身体が、その時、集められ、骨と肉で復活すると信じた。またその最後の審判、すなわち、世の滅亡は、多くの世紀を通してむなしく待ち望まれたので、決して復活させられない、という誤りの中へと滑り落ちた。その時、みことばから学んだこと、またそこからもまた時々、話したこと、〔すなわち〕人間が死ぬと彼の霊魂は神の手の中にあり、自分自身が親しんだ生活にしたがって幸福な者または不幸な者の間にいること、それは主が富んだ者とラザロについて言ったことであるが、それらについても考えない。しかし、教えられた。それぞれの者の最後の審判は、人間が死ぬときである。またその時、世の中で備えたような身体で、そしてすべての感覚もそのように授けられているように自分自身に見えること、しかし、世の光ののものである肉体的なものはじゃませず、天界の光のものであるものをおおわないので、さらに純粋で、またさらに鋭敏である。このようにいわば清められた身体の中にいる。また、そこでは世の中のような骨と肉の身体を決して持ってまわることができない、再び地の塵で取り囲まれることになるからであるである。
[3] ある者たちとその事柄について私、彼らの身体が埋葬される同じ日に話した。その者たちは私の目を通して自分の死体、棺を、また埋められること見た。また彼らは、それを捨てたほうがよい、これは世の中にいたとき自分たちに役立ちとして仕えた、また今や生きているその世の中の役立ちとして仕える身体の中にいる、と言った。さらにまた、嘆きの中にいた彼らの親類に私がこれらのこと言うように願った。しかし、答えることが与えられた。もし、私が言うなら、彼らは、自分の目そのもので見ることができないものを何ものでもないと信じ、またこのように欺くものの幻覚の間に置いて、あざける。というのは、人間が互いに自分の目で見るように、霊たちは互いに自分の目で見ること、また人間は自分の霊の目でなければ、霊を見ることができないこと、また主が内なる視覚を開くとき、霊と天使たちをそしてまた天界の多くのものを見た預言者たちに行なわれたように、彼らを見ること、信じることへと引き寄せることができないからである。今日、生きる彼らが、その時に生きたなら、それらを信じたかどうか疑わなくてはならない余地がある。