(3) 訳文
72 あらかじめ、だれが「最大の人」の内にいるか、まただれがその外にいるか言われなければならない――
主への愛の中に、また隣人に対する仁愛の中にいる、また自分のもとの善にしたがって隣人に心から善を行なう、また公正と平等の良心を持っているすべての者は「最大の人」の内にいる、というのは主の中に、それゆえに天界の中に〔いる〕から。
しかし、自己愛と世俗愛の中に、またここから欲望の中にいる、そして単に法律、自分の名誉、世の富のために、またここからの名声のために善を行なう、このように内的に無慈悲である者、自分のまた世の理由で隣人に対する憎しみと復讐の中にいて、自分に好意を持たない時、彼の損害を喜ぶすべて者は、「最大の人」の外にいる、というのは、地獄の中にいるから。これらの者は身体の中の何らかの器官や四肢に対応しないで、彼にいろいろと引き起こされる欠損や病気に対応する。それらについてもまた、主の神的な慈悲から、経験から続くものの中で〔述べよう〕。
[2] 「最大の人」の外に、すなわち、天界の外にいる者は、その中に入ることができない、というのは、いのちが対立しているから。それどころか、もし何らかの方法で入るなら、時々、身体のいのちの中で光の天使を装うことを教えられた者に起こることであるが、しかしそこにやって来るとき(時々、〔彼らが〕どんなものであるか知るようにとの理由から許される)、しかし、ただ最初の入り口に、すなわち、依然として単純でまだ十分に教えられていない者のところに、入れられるだけで、その時、光の天使のように〔偽って〕入る者は、ほとんど何らかの瞬間もとどまることができない、そこに主への愛のいのちが、また隣人に対する愛のいのちがあるからである。またそこに何も彼らのいのちに対応しないので、〔彼らは〕ほとんど呼吸することができない。(霊と天使もまた呼吸していることは、37~46番〔3884~3893番〕参照。)ここから、苦しめられ始める、なぜなら、呼吸はいのちの自由にしたがっているから、また驚くべきことに、最後には、ほとんど動くことができない、しかし、内的なものが苦悶と責め苦に占められて、重苦しさの中にいる者のようになり、そのために自分自身をここから真っ逆さまに、またそこに自分たちの呼吸と運動がある地獄にまでも投げ出す。ここから、みことばの中のいのちは運動によって表象されている。
[3] けれども、「最大の人」の中にいる者は、愛の善の中に〔いる〕とき、呼吸の自由の中にいる。しかしそれでも、善の質と量にしたがって区別されていて、ここからこのように多くの天界があり、みことばの中でそれらは「住まい」(ヨハネ14:2)と呼ばれている。そしてまた、それぞれが自分の天界の中に〔いるとき〕、自分のいのちの中にいて、全天界からの流入がある。そこのそれぞれ者が、すべての流入の中心であり、ここから最も完全な均衡の中にいて、またこのことは主だけからの天界の驚くべき形にしたがっており、このようにすべての変化とともにいる。