DE NONO PRAECEPTO,
“NON CONCUPISCES DOMUM PROXIMI.”
第九戒について
「隣人の家を欲しがってはならない」
(1) 原文「1021番」
78 HIC DE NONO PRAECEPTO, “NON CONCUPISCES DOMUM PROXIMI.”
Sunt duo amores ex quibus omnes concupiscentiae, sicut rivi a suis fontibus scaturiunt et perenniter emanant; illi amores vocantur amor mundi, et amor sui. Concupiscentia est amor continue volens; nam quod homo amat, hoc continue cupit; sed concupiscentiae sunt amoris
(2) 直訳
HIC DE NONO PRAECEPTO, “NON CONCUPISCES DOMUM PROXIMI.” ここに第九戒について、「隣人の家を欲しがってはならない」
Sunt duo amores ex quibus omnes concupiscentiae, sicut rivi a suis fontibus scaturiunt et perenniter emanant; 二つの愛がある、それらからすべての(強い)欲望が、流れのようにその泉からわき出る、また永久に流れ出る。
illi amores vocantur amor mundi, et amor sui. それらの愛は世俗愛(世への愛)と呼ばれる、また自己愛(自己への愛)☆。
☆ 「世俗愛と自己愛」という訳語について:直訳は「世(へ)の愛」と「自己(へ)の愛」です。それぞれ属格ですが、これは「目的格属格」といわれるものであり、「世を愛する」、「自己を愛する」という意味です。また、スヴェーデンボリ神学の中で、ここのように特別な意味合いがあるので「用語・術語」としてある程度、普通の言葉とは異なる言葉を用いる方がよいと思います。それで「世俗愛」また「自己愛」としています。
Concupiscentia est amor continue volens; (強い)欲望は絶えず欲する愛である。
nam quod homo amat, hoc continue cupit; なぜなら、人間が愛するもの、これを絶えず望むから。
sed concupiscentiae sunt amoris mali, at desideria et affectiones sunt amoris boni. しかし、(強い)欲望は悪の愛のものである、しかし、願い(願望)と情愛は善の愛のものである。
Nunc quia amor mundi et amor sui sunt fontes omnium concupiscentiarum, et omnes concupiscentiae malae in his binis ultimis praeceptis prohibentur, sequitur quod nonum praeceptum prohibeat concupiscentias ex amore mundi profluentes, ac decimum praeceptum concupiscentias ex amore sui. そこで(さて)、世俗愛と自己愛がすべての(強い)欲望の泉(源泉)であるので、またすべての悪の(強い)欲望がこれらの二つの最後の戒めの中で禁じられている、~ということになる、第九の戒めが世俗愛から流れ出る(強い)欲望を禁じる、そして第十の戒めが自己愛からの(強い)欲望を〔禁じる〕☆
☆ このことについて「雑論」を述べます。
Per “non concupiscere domum proximi” intelligitur non concupiscere ejus bona, quae in genere sunt possessiones et opes, et illas per malas artes sibi appropriare: 「隣人の家をほしがってはならない」によって彼の財産を欲しがることが意味される、それは全般的に所有物と富である、またそれらを悪い策略(たくらみ)によって自分自身に専有する(自分のものにする)こと。
haec concupiscentia est amoris mundi. この(強い)欲望が世俗愛である。
(3) 訳文(『黙示録講解』1021番)
ここに第九戒について、「隣人の家を欲しがってはならない」
泉からわき出て、永久に流れ出る流れのような、すべての欲望のもととなる二つの愛がある。それらの愛は世俗愛、また自己愛と呼ばれる。その欲望は絶えず欲する愛である。なぜなら、人間が愛するものを絶えず望むから。しかし、その欲望は悪の愛のものであるが、願望と情愛は善の愛のものである。
さて、世俗愛と自己愛がすべての欲望の源泉であり、またすべての悪の欲望がこれらの二つの最後の戒めの中で禁じられているので、第九の戒めが世俗愛から流れ出る欲望を禁じ、そして第十戒めが自己愛からの欲望を禁じていることがいえる。「隣人の家をほしがってはならない」によって、全般的に所有物と富である彼の財産を欲しがること、またそれらを悪い策略によって自分自身に専有することが意味される。この欲望が世俗愛である。
(4) 雑論:「十の戒め」について、その分類など、また第四戒について
十戒について、その分類について異論がある。すなわち、どの戒めが「第~戒」に相当するか、である。スヴェーデンボリが第九、第十戒とするこの戒めは、大部分の教派では第十戒としてひとくくりにされている。確かに、見たところ第十戒は第九戒をもう一度詳しく述べたもの、悪く言えば、繰り返しのようである。「隣人の家を欲しがるな」(第九)、それに続けて「隣人の妻…を欲しがるな」(第十)となっているからである。
それでも、ここのスヴェーデンボリの説明からは、「世俗愛」への戒めが第九、「自己愛」への戒めが第十であるとわかる。ならば、戒めとして分離すべきであろう。
なお、この分離基準はアウグスティヌスによるもので、それ以後ローマ・カトリック教会もそうしている(スヴェーデンボリがこれに習ったと言えなくもないが)、またルターもこの分類を支持している(ユダヤ教、ギリシヤ正教、改革派は一つとしている)。
普通に見れば、ひとくくりにしてしまいそうであるが、内意からは別ものであるとわかる。ここがスヴェーデンボリの解説のありがたいところである、と思う。
この講座ではこの後、少しだけであるが十戒の戒め全般について学ぶ。その「十」を眺めると興味深い。全体の構成は「3+1+6」である。最初の三つが神について、第四戒が「父母を敬え」、残り六つが人間に対する禁止命令「~ならない」である。そしてその六つには「理由がない」。すなわち、前半の四つには「~からである」といった「理由」がついている。
ここで理由として「父母を敬え」を考えてみる。それは「主が与えようとされている地で、あなたの齢が長くなるためである」。私は「地」とは「この世の生活」、「齢が長くなる」は「繁栄する」ことだと思う。人生とは何か、私なりに見て来た。孤独死する人もいる、家族に囲まれ、喜ばしい生活を送る者がいる。その違いは何だろう? 結局は「父母を敬うか、どうか」ではなかろうか、と思う。(単なる親孝行とは違うと思うが)「父母を敬う」ような心を持った人が結局「繁栄する」のではなかろうか、父母をないがしろにして、その恩を何も感じずにいたら、幸福が根源から失われる気がする。
スヴェーデンボリはこの第四戒を「神について」と「人間について」の戒めを結合するもととしている。なるほどそのように思える。内意ではもちろん「父」が主であり、「母」が教会であるが、そうでなくても、その後に理由なしで続く「~してはならない」へ接続させる戒めとしてふさわしいと思う。