原典講読『宗教と生活』 51(訳文)、雑談

 

(3) 訳文(『黙示録講解』991)


51 自然的である結婚愛は、霊的である善と真理への愛から下ることが言われた。ここから、この霊的なものは、、結果の中の原因のように、結婚の自然的な愛の中にある。そこで、善と真理の結婚から実を、すなわち、真理を通して善を、そして善から真理を結ばせる愛が存在するようになる。その愛から実を結ばせる愛が下り、その中にすべての快さと快楽がある。逆に、自然的である姦淫愛は、霊的である悪と虚偽への愛から存在するようになる。ここから、この霊的なものは、結果の中の原因として、姦淫の自然的な愛の中にある。そこで、愛によって悪と虚偽の結婚から実を、すなわち、虚偽を通して悪を、また悪から虚偽を結ぶ愛が存在するようになる。その愛から実を結ばせる愛が姦淫の中に下り、その中にすべての快さと快楽がある。


子孫を生む愛の中にすべての快さと快楽があることは、全天界、また全世界の中の創造から運び集められているコナトュスの中に、またここから役立ちを生み出す行為の中に、快楽、祝福、幸福のすべての快さがあ、その楽しさは上がる段階の中で役立ちの善良さと卓越にしたがって永遠に増するからである。ここから、子孫を生むそれほどに大きな快楽がどこからか明らかであり、それは他のすべての快楽にまさっている。まさることは他のすべての役立ちを上回るためであり、それは人類の生まれることそこからの天界生まれることである。


ここからもまた、姦淫者の快楽と快さがある。しかし、それによって子孫を生むこと虚偽を通して悪の産出に対応するので、ここからその快楽と快さは、最後に嫌気と吐き気に変わるようにまでも、次第に、減少し、価値がなくなる。前に言われたように、結婚愛の快さは天界の快さであり、姦淫の快さは地獄の快さであるので、ここから、姦淫の快さはある不潔な火からであること、それは続く間は善の愛の快さを装う。しかし、それ自体は悪の愛の快さであり、その本質では善と真理に反する憎しみの快さである。またここからその起源であるので、姦淫する男と姦淫する女の間に、憎しみの愛のようなものでないなら愛はなく、それは外なるものの中で結合の中に、しかし、内なるものの中で結合の中にいることができるようなものである。というのは、外なるものの中に火があり、内なるものの中に氷(冷淡)があるから。それゆえ、さらにまた短い時間の後、火が消され、あるいは性的無能、あるいは嫌悪とともに、不潔なものとしてのように氷(冷淡)が現われる。


 その愛をその本質の中で見ることもまた与え、それは、内部に致命的な憎しみであったような、しかし、外部で悪臭と燃えているいやな臭いの糞からの火のように見えた。またその火がその快さとともに燃え尽したように、そのように次第に、会話と交際の相互の活力は消滅し、そして憎しみが現われる、最初は軽蔑、その後、反嫌悪、なおまた拒絶、最後に、悪く言うこと(冒涜)、また争いの外観のもとに。また、たとえ憎しみを互いに持っていても、それでも、時々、出会うことができたのは驚くべきことであった。そしてその時、憎しみの快さを愛の快さのように感じることができたが、しかし、このことは肉のかゆみ(情欲)らであった。


憎しみとここから悪を行なう快さが、地獄の中にいる者にはどのようなものであるか述べられることが、信じられることもできない。悪を行なうことは彼らの心の楽しさであり、またこのことを自分の天界と呼ぶ。悪いことを行なう彼らの快さは、そのすべてのものを善と真理に反する憎しみと復讐から引き寄せる。それゆえ、天界に対する、特に、天界からである者、また主を崇拝する者に対する殺害と悪魔の憎しみにかき立てられる。というのは、放埓に彼らを皆殺しすることに燃えるから。また身体はできないので、霊魂を殺すことを欲する。そこで、憎しみの快さがあり、それは最外部で引き起こされ、そして肉にみだらさを持ち込むみ、それをすぐに姦淫の快さにする火であり、その中に憎しみが隠れている霊魂は、その時、抑えられている。このことから、地獄が姦淫と呼ばれている。さらにまたこのことから、姦淫者は放埓に無慈悲で凶暴また残酷である。そこで、このことが地獄の結婚である。


 姦淫は、外なるものの中で火があり、しかし、内なるものの中に氷(冷淡)があるので、また結婚の中で生じるようには内なるものが外なるものを生み出さず、しかし、それ自体に反して相互に働くので、ここから、もし女が行為を欲するなら、またさらに、もし要求するなら、男は性的無能を感じる。というのは、冷たさである内なるものが、その時、コナトュス(努力)の中にやって来て、そして外なるものの火の中に流入し、それを消し、また熟していないもののように追い払うから。強姦する欲望もまたその不潔な火をつけ、その時、消えるということを付け加えておこう


 


(4) 雑談:『黙示録講解』の中の『宗教と生活』の最初の読者は私である


 この『宗教と生活』を掲載するのは三度目だと述べた。柳瀬訳『霊的な生命』(1981年発行)は『黙示録講解』を編集したものである。因縁話をもう少し追加しよう。


 この『宗教と生活』は柳瀬訳『黙示録講解』第十巻の中の記事である。発行は平成元年(1989)9月。


 私が静思社を訪れたのが平成元年正月、すぐさま校正の手伝いを始めるようになり、最初に手掛けたのが当時翻訳中であった『黙示録講解』第九巻、これを私は同年6月に校正した。続いてこの第十巻を8月に校正した。すなわち、ほぼちょうど二十二年前にこの部分を読んでいた。しかも刊行される前なので、『黙示録講解』の中の『宗教と生活』の部分は私が最初の読者である、といえる。

 柳瀬氏は当時80歳であり、元気であった。(私が42歳)

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