原典講読『宗教と生活』 33 後半

 

(2) 直訳


Soli homini datum est cogitare sicut ex se de bono et malo; 人間だけに与えられている、善と悪について自分自身からかのように考えること。


ita quod bonum amandum et faciendum sit quia est Divinum ac permanet in aeternum, et quod malum odio habendum sit et non faciendum quia est diabolicum et permanet in aeternum. このように〔考えることである〕、善は愛されなくてはならない、行なわれなくてはならないこと、神的なものであり、永遠に残る(とどまる)ので、また悪は憎しみを抱くべきものであり、行なってはならないこと、悪魔的なものであり、永遠に残る(とどまる)ので。


Ita cogitare non datum est alicui bestiae; このように考えることは、獣の何らかのものに与えられていない。


bestia quidem potest facere bonum et fugere malum, sed non a se, verum vel ex instinctu, vel ex usu, vel ex timore; 確かに、獣は善を行なうことと悪を避けることができる、しかし、獣自身からではない、けれども、あるいは本能から、あるいは習慣から、あるいは恐怖から。


sed nusquam a cogitatione quod sit tale bonum aut quod sit tale malum, ita a se: しかし、決して考えからではない、これらは善である、またはこれらは悪であること、そのように自分自身から〔の〕。


quare qui volunt ut homo non fugiat mala sicut a se, nec faciat bona sicut a se, sed ex influxu imperceptibili, aut ex imputatione meriti Domini, illi volunt ut homo absque cogitatione, perceptione et affectione veri et boni vivat, sicut bestia. それゆえ、人間が自分自身からかのように悪を避けないし、自分自身からかのように善を行なわない、しかし、知覚されることができない流入から、または主の功績の転嫁から、のように欲する者は、彼らは、人間が真理と善の思考、知覚、情愛なしに生きるように欲する、獣のように。


Quod ita sit, ex multiplici experientia in mundo spirituali mihi manifestatum est. このようであることが、霊界の中で多種多様の経験から私に示された(明らかにされた)


Omnis homo post mortem ibi praeparatur vel ad caelum vel ad infernum; すべての人間は、死後、そこに準備される、あるいは天界へ、あるいは地獄へ。


ei homini qui praeparatur ad caelum, removentur mala; 彼に、人間に、その者は天界へ準備されている、悪が取り去られる(遠ざけられる)


et ei qui praeparatur ad infernum, removentur bona; また、彼に、地獄へ準備されている者、善が取り去られる(遠ざけられる)


et omnes remotiones fiunt sicut ab illis. また、すべての遠ざけること(移すこと)彼ら〔自身〕からかのように生じる。


Similiter illi qui mala faciunt, per poenas adiguntur ut rejiciant illa sicut a se; 同様に、彼らは、悪を行なう者は,罰によって、自分自身からのようにそれらを退けるように強いられる(追い立てられる)


si non sicut a se, poenae nihil conducunt. もし、自分自身からかのようにでないなら、罰はまったく役立たない。


Inde patuit quod qui remittunt manus, exspectando influxum aut imputationem meriti Domini, permaneant in statu sui mali, ac remittant manus in aeternum. ここから明らかである、流入または主の功績の転嫁を期待して、手を拱(こまぬ)く者は、自分の悪の状態の中にとどまる(残る)、そして永遠に手を拱(こまぬ)く。


Fugere mala ut peccata est fugere societates infernales quae in illis sunt; 悪を罪として避けることは、それらの〔悪の〕中にある地獄の社会を避けることである。


et fugere illas non potest homo nisi aversetur illas, et inde se avertat ab illis, et ex aversatione avertere se ab illis non potest homo nisi amet bonum, et ex illo amore non velit malum: またそれらを避けることが、人間はできない、それらを退けない(追い払わない)ら、またここから、それらから離れない、また嫌悪から自分自身をそれらから〔離れないなら〕、人間はできない、善を愛さないなら、またその愛から悪を欲さない。


nam homo sive volet malum, sive volet bonum; なぜなら,人間はあるいは悪を欲する、あるいは善を欲するから。


quantum vult bonum tantum non vult malum, ac velle bonum datur per facere praecepta decalogi suae religionis, ac vivere secundum illa. どれだけ善を欲するか〔によって〕それだけ悪を欲しない、そして善を欲することが与えられる(存在する)、十戒の戒めを自分の宗教のものにすることによって、そして、それらにしたがって生きること。


Quoniam homo desistet a malis ut peccatis sicut a se, ideo decem illa praecepta fuerunt a Domino inscripta binis tabulis, et illae vocatae foedus; 人間は悪をやめるべきであるので、罪として自分自身からかのように、それゆえ、それらの十の戒めが主により二つの()に刻み込まれ、またそれらは契約と呼ばれた。


ita namque initum est hoc foedus, sicut solent iniri foedera inter binos, quod nempe unus dicat et alter acceptet, et qui acceptat consentiat; なぜならまた、このように〔sicut 以下〕この契約は入れられる☆から、二人の間で契約が入れられる(結ばれる)とが習わしであるように、すなわち一方が言う、またもう一方が受け入れる、また受け入れる者は同意(承諾)すること。


ineoは「入る、始める、引き受ける」などの意味ですが、ここは契約なので、「結ぶ」の意訳も可能でしょう。


si non consentit, foedus non constabilitum est; もし同意(承諾)しないなら、契約は確定されない。


consentire hic est cogitare, velle et facere sicut a se. 同意(承諾)することは、このことは自分自身からかのように考えること、欲すこと、また行なうことである。


Ut homo cogitet fugere malum et facere bonum sicut a se, hoc non homo facit, sed Dominus: 人間が考えるように、自分自身からかのように悪を避け、善を行なうことを、このことを人間がしない、しかし、主が。


quod Dominus hoc faciat, est propter reciprocum et inde conjunctionem; 主がこのことをすることは、相互〔作用〕とそこからの結合のためである。


nam Divinus Domini Amor talis est ut velit ut sua sint hominis; なぜなら、主の神的な愛はこのようなものであるから、それ自体が人間のものであるようにと欲するような。


et quia non possunt esse hominis, sunt enim Divina, ideo facit ut sint sicut hominis. また人間に存在することができないので、というのは、神的であるから、それゆえ、人間のものであるようにする。


Ex eo fit conjunctio reciproca; このことから、相互の結合が生じる。


nempe, ut homo sit in Domino ac Dominus in homine, secundum Ipsius Domini verba apud Johannem (cap. xiv. 20); すなわち、人間が主の中にあり、そして主が人間の中にあるように、「ヨハネ」のもとに主ご自身のことばにしたがって(1920)


hoc non dari potest, nisi aliquid sicut hominis sit in conjunctione. このことは与えられる(存在する)ことができない、結合の中に何らかのものが人間のものであるかように存在しないなら。


Quod homo facit sicut ex se, hoc facit sicut ex sua voluntate, ex sua affectione, ex suo libero, proinde ex sua vita; 人間が自分自身からかのように行なうことは、これを〔人間は〕自分の意志からのように行なう、自分の情愛から、自分の自由から、したがって自分のいのちから。


haec nisi afforent a parte hominis sicut ejus, non esset receptivum, quia non aliquod reactivum, inde nec foedus, nec conjunctio; これらのものが人間の部分()から彼の〔ものの〕ように現存☆しないなら、受け取るもの(容器)はない、何らかの反作用(反応)するものがないので、ここから契約もない、結合もない。


このafforentの辞書形がわかるでしょうか? これで泣かされる人もいるかもしれません。forentsumの接続法未完了(三人称複数)とわかれば、見当がつくかもしれません。adsumであり、そこのad-fの影響でaf-と変わったのです。ある程度、学ばないと見当がつきませんね。


immo nusquam aliqua imputatio quod fecerit malum aut bonum, seu quod crediderit verum aut falsum, ita quod alicui infernum sit propter mala opera ex merito, aut quod alicui caelum sit propter bona opera ex gratia. それどころか、決して何らかの転嫁はない、悪または善が引き起こしたもの、または真理または虚偽を信じたもの〔からの〕、このようにある者に地獄があること、悪の働きのために功績から、またはある者に天界があること善の働きのために恩恵から。


 


(3) 訳文(『黙示録講解』971番の後半)


 33 人間だけに善と悪について自分自身からかのように考えることが与えられている。善は神的なものであり、永遠に残るので、愛され、行なわれなくてはならないこと、また悪は悪魔的なものであり、永遠に残るので憎しみを抱くべきものであり、行なってはならない、とこのように。このように考えることは、何らかの獣には与えられていない。確かに、獣は善を行なうことと悪を避けることができるが、しかし、獣自身からではなく、本能からかあるいは習慣から、あるいは恐怖からである。しかし、決して、これらは善である、またはこれらは悪である、そのように自分自身からの考えからではない。それゆえ、自分自身からかのように悪を避けないし、自分自身からかのように善を行なわず、しかし、知覚されることができない流入から、または主の功績の転嫁からかのように欲する者は、獣のように真理と善の思考、知覚、情愛なしに生きるように欲する。このようであることが、霊界の中で多種多様の経験から私に明らかにされた。すべての人間は、死後、そこで、あるいは天界へあるいは地獄へと準備される。天界へ準備されている者は悪が取り去られる。地獄へ準備されている者は善が取り去られる。また、すべての遠ざけること彼ら自身からかのように生じる。同様に、悪を行なう者は,罰によって、自分自身からかのようにそれらを退けるようにと強いられる。もし、自分自身からかのようにでないなら、罰はまったく役立たない。ここから、流入または主の功績の転嫁を期待して、手を拱(こまぬ)く者は、自分の悪の状態の中に残り、そして永遠に手を拱(こまぬ)いていることが明らかである。


 悪を罪として避けることは、それらの悪の中にある地獄の社会を避けることである。また人間はそれらを避けることが、それらを退けないらできない、またここから、人間はそれらから離れ、また嫌悪から自分自身でそれらから離れないなら、善を愛さない、またその愛から悪を欲さないなら、できない。なぜなら,人間は悪を欲するかあるいは善を欲するから。どれだけ善を欲するかによって、それだけ悪を欲しない、そして、十戒の戒めを自分の宗教のものにすること、それらにしたがって生きることによって善を欲することが与えられる。


人間は悪を罪として自分自身からかのようにやめるべきであるので、それゆえ、それらの十の戒めが主により二つの石板に刻み込まれ、またそれらは契約と呼ばれた。なぜなら、二人の間で契約が結ばれるときの習わしのように、すなわち、一方が言い、またもう一方が受け入れ、また受け入れる者は同意し、このように契約は結ばれるから。もし同意しないなら、契約は確定されない。同意することは、自分自身からかのように考え、欲し、行なうことである。この〔契約の〕ように、自分自身からかのように悪を避け、善を行なうことを人間は考えるが、このことを人間がするのではなく、主がされる。主がこのこと〔契約〕をされるのは、相互とそこからの結合のためである。なぜなら、主の神的な愛は、それ自体が人間のものであるようにと欲するようなものであるから。また人間に存在することができないので、というのは、神的であるから、それゆえ、人間のものであるようにされる。このことから相互の結合が生じる。すなわち、「ヨハネ福音書」の主ご自身のことばにしたがって(1920)人間が主の中にあり、そして主が人間の中にあるようにである。このことは結合の中に何らかのものが人間のものであるかように存在しないなら与えられることができない。人間が自分自身からかのように行なうことは、これを自分の意志から、自分の情愛から、自分の自由から、したがって自分のいのちからかのように行なう。これらのものが人間のから自分のもののように現存しないなら、受け取るものはなく、何らかの反応するものがないので、ここから契約もなく結合もない。それどころか、悪または善が引き起こしたもの、または真理または虚偽を信じたものからの何らかの転嫁は決してない、したがって、ある者に、悪の働きのために功績から地獄があること、またはある者に、善の働きのために恩恵から天界があることはない。

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