原典講読「神の摂理』 340([4],[5])

 

(2) 直訳


[4.] Secundum:  [4.] 第二:


Quod per fidem momentaneae salvationis ex pura et sola misericordia inducatur securitas vitae. 純粋なまた単に☆慈悲だけからの瞬間の救いの信仰から生活の信頼(油断)が引き起こされること。


ここはpura et solaとなっていますが、文脈からはmomentanea「直接の」がよいと思います。それまでpurus misericordiaは主からのもととしているからです。他では[2.]per idまた[5.]per illam fidemとしているのにここ[4.]だけこのようにわざわざ長く書いているのでしょうか?


Securitas vitae oritur vel ex fide impii quod non sit vita post mortem, vel ex fide separantis vitam a salvatione. 生活の信頼(油断)があるいは不信心な信仰から起こる、死後の生活はないこと、あるいは救いから切り離された生活の信仰から。


Hic tametsi crederet vitam aeternam, usque cogitat, “Sive bene vivam sive male vivam, salvari possum, quoniam salvatio est pura misericordia, et misericordia Dei est universalis, quia non vult alicujus mortem.” この者は〔後者〕たとえ永遠の生活(いのち)を信じても、それでも考える、「あるいは私が善く生きる、あるかいは私が悪く生きる、救われることができる、救いは純粋な慈悲であるので、また神の慈悲は普遍的である、またある者の死を欲しない」。


Et si forte incidit cogitatio quod misericordia imploranda sit per voces fidei receptae, potest cogitare, quod hoc possit fieri, si non prius, usque ante mortem. またもしことによると考えがぶつかる(起こる)なら、慈悲を祈らなければならない、受け入れた信仰の言葉によって、考えることができる、このことは行なうことができる、もし前にでないなら、それでも死の後で。


Omnis homo qui in illa securitate est, nihili facit adulteria, defraudationes, injustitias, violentias, blasphemationes, vindictas; すべての人間は、その信頼(油断)の中にいる者、姦淫を何もないとする、欺瞞、不正、暴行(強姦)、冒涜、復讐。


sed carnem suam et spiritum suum ad omnia illa relaxat; しかし、自分の肉と自分の霊をそれらすべてのものにゆるめる(弛緩させる)


nec scit quid spirituale malum et ejus concupiscentia: 何が霊的な悪とその欲望かも知らない。


si audit aliquid de hoc ex Verbo, est comparative sicut id quod incidit in ebenum et resilit, vel sicut id quod incidit in scrobem et absorbetur. もし、みことばからこれについて何らかのものを聞くなら、比較によってそれのようなものである、黒檀〔の台〕にぶつかり、はずむ(はね返る)こと、あるいはそれのよう、穴にぶつかり、のみこまれること。


[5.] Tertium: [5.] 第五:


Quod per illam fidem damnatio imputetur Domino. その信仰によって断罪が主に帰せられること。


Quis non potest concludere, quod non homo, sed Dominus in culpa sit, si non salvatur, dum unumquemvis potest salvare ex pura misericordia? だれが結論することができないか? 人間でなく、しかし主が責任(過失)中にあること、もし救われないなら、それぞれの者を純粋な慈悲から救うことができる時。


Si dicitur, quod medium salvationis sit fides; もし言われるなら、救いの手段が信仰であること。


sed quis homo est cui non dari potest illa fides, est enim illa solum cogitatio, quae potest infundi in omni statu spiritus abstracti a mundanis, etiam cum fiducia: しかし、だれが人間であるか、その者にその信仰が与えられることができない、というのは、それは単なる思考であるから、それは世俗的なことから切り離されたすべての霊の状態の中に注ぎ込まれることができる、さらにまた信頼とともに。


et ille quoque potest dicere, “Non possum illam sumere a me ipso;” また彼もまた言うことができる、「私はそれを私自身から持つ(得る)ことができない」。


si itaque non datur, et homo damnatur, quid damnatus aliud cogitare potest, quam quod Dominus in culpa sit, qui potuit et non voluit? そこでもし与えられないなら、また人間が断罪される〔なら〕、何らかの断罪(非難)の何を考えることができるか? 主が責任(過失)中にあること以外に、その者はできる、また欲しない。


Annon id foret Ipsum vocare immisericordem? それはその方を無慈悲〔な方〕と呼ぶことにならないか?


Ac insuper in excandescentia fidei suae potest dicere, “Cur tot damnatos potest videre in inferno, cum tamen momento potest salvare omnes ex pura misericordia?” そして加えて、自分の信仰(信念)憤りの中で、言うことができる、「なぜこのように多くの断罪された(地獄に落とされた)を地獄の中に見ることができるのか? そのときそれでも瞬間にすべての者を救うことができる、純粋な慈悲から」。


et plura similia, quae non aliter vocari possunt quam nefandae insimulationes contra Divinum. また多くの同様のこと、それは神性に対して恐るべき告(非難)外に異なって呼ばれることができない。


Ex his nunc constare potest, quod fides momentaneae salvationis ex pura misericordia, sit prester volans in ecclesia. これらから今や明らかにすることができる、純粋な☆慈悲からの瞬間の救いは、教会の中で飛びかける火蛇であること。


ここも同じく「直接の」がよいと思うのですが? 


 


(3) 訳文


340.  [4.] 第二:「純粋なまた単に慈悲だけからの瞬間の救いの信仰から生活の信頼(油断)が引き起こされること」


 生活の信頼(油断)は、あるいは死後の生活はない、という不信心な信仰から、あるいは救いから切り離された生活の信仰から起こる。


 後者は、たとえ永遠の生活(いのち)を信じても、それでも、「私が善く生きるにしろ、あるかいは悪く生きるにしろ、救いは純粋な慈悲であり、神の慈悲は普遍的であるので救われることができる、またある者の死を欲されない」と考える。またことによると受け入れた信仰の言葉によって慈悲を祈らなければならないという考え起こるかもしれないが、このことは、もし死の前でないなら、それでも死の後に行なうことができる、と考えることができる。


 その信頼(油断)の中にいるすべての人間は、姦淫、欺瞞、不正、暴行、冒涜、復讐を何でもないとする。しかし、自分の肉と自分の霊をそれらすべてのものに向けて弛緩させ、何が霊的な悪とその欲望かも知らない。もし、みことばからこれについて何らかのものを聞くとき、たとえるなら、黒檀にぶつかって、はね返るようなもの、あるいは穴にぶつかり、のみこまれるようなものである


[5.] 第五:「その信仰によって断罪が主に帰せられること」


それぞれの者を純粋な慈悲から救うことができる時、もし救われないなら人間でなく、しかし主に責任(過失)ある、とだれが結論することができないか?


 もし、救いの手段が信仰である、と言われるなら、しかし、その信仰が与えられることができない人間はだれなのか、というのはそれは単なる思考であり、さらにまた信頼とともに、それは世俗的なことから切り離されたすべての霊の状態の中に注ぎ込まれることができるから。またその者は、「私はそれを私自身から持つ(得る)ことができない」と言うこともできる。そこでもし与えられず、人間が断罪されるなら、でき、また欲しない者である主に責任(過失)あること以外に、何らかの非難を考えることができるのか? それはその方を無慈悲〔な方〕と呼ぶことではないのか?


 そして加えて、自分の信念からの憤りの中で、「なぜこのように多くの断罪された者を地獄の中に見ることができるのか? そのときそれでも純粋な慈悲から瞬間にすべての者を救うことができるのに」と言うことができる。また多くの同様のことも、それは神性に対する恐るべき非難としか呼ばれることができない。


そこでこれらから、純粋な☆慈悲からの瞬間の救いは、教会の中で飛びかける火蛇であることを明らかにすることができる。

☆訳注 ここは「直接の」がよいと思う。

原典講読「神の摂理』終了 340([6],[7])

 

* * * * *


(2) 直訳(以下は『結婚愛』461番で再び述べられています)


[6.] Ignoscatis quod haec adjiciantur, ut superfluum chartae impleatur. [6.] あなたがたが容赦する(接続)〔ことを願う〕、これらが付加されること、紙の余分を満たすために。


Ascenderunt quidam spiritus ex permissione ab inferno, et mihi dixerunt, “Scripsisti multa ex Domino, scribe etiam aliquid e nobis.” ある霊たちが(神の)許しから(により)地獄からのぼった、また私に言った、「あなたは神から多くのことを書いた、私たちからもまた何らかのことを書け」。


Respondi, “Quid scribam?” 私は答えた、「何を私は書きましょうか?」


Dicebant “Scribe, quod unusquisque spiritus, sive bonus sive malus sit, in suo jucundo sit, bonus in sui boni jucundo, et malus in sui mali jucundo.” 彼らは言った、「書け、それぞれの霊は、あるいは善い者、あるいは悪い者である、自分の快さの中にいること、善い者は自分の善の快さの中に、また悪い者は自分の悪の快さの中に」。


Quaesivi “Quid vestrum jucundum?” 私は質問した、「何があなたがたの快さ〔です〕か?」


Dixerunt quod esset jucundum adulterandi, furandi, defraudandi, mentiendi. 彼らは言った、姦淫する、盗む、だます、偽る(うそをつく)快さである(であった)こと。


Et iterum quaesivi, “Qualia sunt jucunda illa?” また再び私は質問した、「その快さはどのようなものですか?」


Dixerunt quod sentiantur ab aliis sicut fetores ex stercoribus, et sicut putores ex cadaveribus, et sicut nidores ex urinis stagnatis.” 彼らは言った、他の者により糞からの悪臭(いやなにおい)ように感じられること、また死体からの腐臭のように、またよどんだ尿からの臭いのように。


Dixi, “Sunt illa vobis jucunda?” 私は言った、「それらがあなたがたに快いのですね?」


Dixerunt quod sint jucundissima. 彼らは言った、極めて快いものであること。


Dixi, “Tunc estis sicut immundae bestiae, quae in talibus degunt.” 私は言った、「その時、あなたがたは不潔な獣です、それらはそのようなものの中で時を過ごす」。


Responderunt, “Si simus, sumus; 彼らは答えた、「もし私たちが〔そのようなもの〕である☆なら、私たちは〔そのようなもの〕である☆。


ラテン語にこのような表現法がること、すなわち、接続法と直接法を持っていることに、感心してしまいます。日本語で「そのようなもの〝である〟なら、そのようなもの〝である〟かもしれない」と言えば、これで意味が通じます、それでもこの二つの〝である〟の間に接続法と直接法が使われていて、しかも意味を持っています。すなわち認識上の「である」(接続法)、「あなたはそう思うかもしれない」というニュアンスと、事実上の「である」(直接法)、「それでもこれが私たちの実態である」のニュアンスです。このニュアンスの違いを、接続法と直接法を並び立てて明確にしています。このような簡略で、また明快な表現をラテン語は持っています。これは日本語にはないでしょう、味わうべきラテン語の特徴です。


sed talia sunt deliciae narium nostrarum.” しかし、このような(そのような)ものは私たちの鼻の歓喜(快感のもと)ある」。


[7.] Quaesivi, “Quid plura e vobis scribam?” [7.] 私は質問した、「何かあなたがたからのもっと多くのものを私は書きましょうか?」


Dixerunt, “Hoc, quod unicuivis liceat in suo jucundo esse, etiam immundissimo, ut illud vocant, modo non infestet bonos spiritus et angelos; 彼らは言った、「このことを、それぞれの者に自分の快さの中にいることが許されていること、最も不潔なもの〔快さ〕もまた、それを呼ぶように、善い霊や天使を悩まさないかぎり。


sed quia non aliter potuimus quam illos infestare, abacti sumus, et dejecti in infernum, ubi patimur dira.” しかし、私たちは彼らを悩ますこと以外に異なってできないので、私たちは追い払われた、また地獄の中に投げ込まれた、私たちはそこ(の場所)恐ろしいことを受ける(苦しむ)


Dixi, “Cur infestavistis bonos?” 私は言った、「なぜ、あなたがたは善い者たちを悩ませたのですか?」


Responderunt quod non potuerint aliter; 彼らは答えた、異なってできなかったこと。


est sicut furor invadat, cum vident aliquem angelum, et sentiunt sphaeram Divinam circum illum. 激怒が入り込むようである、彼らがある天使を見るとき、また彼らのまわりの神的なスフェアを感じる。


Tunc dixi, “Sic estis etiam sicut ferae.” その時(とき)、私は言った、「このように、あなたがたもまた獣のようです」。


Quo audito supervenit furor, qui apparuit sicut ignis odii; それを聞くと、激怒が出てきた、それは憎悪の火のように見えた。


et ne damnum inferrent, in infernum retracti sunt. また危害を加えないように、地獄の中に引っ込められた。
De jucundis sensis ut odores ac ut nidores in mundo spirituali, videatur supra (n. 303-305, 324).
 快い感覚について、霊界の中で香りのような、そして臭いのような、上に見られる(303-305, 324)


 


(3) 訳文


340.  [6.] 紙の余分を満たすために、次のことが付加されることを、あなたがたが容赦するであろう。


 


 ある霊たちが(神の)許しにより地獄からのぼり、私に言った、「あなたは神から多くのことを書いた、私たちからもまた何らかのことを書け」。


 私は答えた、「何を書きましょうか?」


 彼らは言った、「書け、善い者であれ、は悪い者であれ、それぞれの霊は自分の快さの中に、善い者は自分の善の快さの中に、また悪い者は自分の悪の快さの中にいること」。


 私は質問した、「何があなたがたの快さですか?」


 彼らは、姦淫し、盗み、だまし、偽る快さであることを言った。


 また再び私は質問した、「その快さはどのようなものですか?」


 他の者からは、糞からの悪臭ように、死体からの腐臭のように、またよどんだ尿からの臭いのように感じられる、と彼らは言った。


 私は言った、「それらがあなたがたに快いのですね?」


 極めて快いものである、と彼らは言った。


 私は言った、「その時、あなたがたはそのようなものの中で時を過ごす不潔な獣です」。


 彼らは答えた、「もし私たちがそうであるなら、そうである。しかし、このようなものが私たちの鼻の快感のもとである」。


[7.] 私は質問した、「あなたがたから何かもっと書きましょうか?」


 彼らは言った、「このことを〔書け〕、善い霊や天使を悩まさないかぎり、それぞれの者に、最も不潔なものと呼ぶようなものでも、自分の快さの中にいることが許されていること。しかし、私たちは彼らを悩ますことしかできないので、追い払われ、地獄の中に投げ込まれ、そこ(の場所)恐ろしいことを受ける。


 私は言った、「なぜ、あなたがたは善い者たちを悩ませたのですか?」


 彼らは答えた、異なってできなかったこと。彼らがある天使を見、また彼らのまわりの神的なスフェアを感じるとき、激怒が入り込むようである。


 そのとき、私は言った、「このように、あなたがたもまた獣のようです」。それを聞くと、激怒が出てきた、それは憎悪の火のように見え、危害を加えないように地獄の中に引っ込められた。


 


 霊界の中での香り、臭いのような快い感覚については、前に見られる(303-305, 324)


 


〔終了です、別のところで感想を述べます〕

原典講読『神の摂理』を終えて

 

 掲載開始が去年の2010724日、その前に『天界と地獄』の掲載がちょうど1年かかったので(それよりやや分量が少ない)10か月ぐらいかと予想していたが、そのようになった。詳しく言えば10か月と2週間であるが、去年の8月終わりから9月初めにかけて2週間入院していたので、それから計算すればやはり10か月。毎日続けていると、だいたいの進捗状況は一定してきて、予想が付く。


 


掲載の途中で、あまりの大作なのでジャングルに迷い込んでしまったような気がした。どういうことかと言えば、『神の摂理』と『天界と地獄』を比べると、後者はトピックの並列であり、一つの章も短くまとまっていて、いちおう「読みやすい」。しかし、前者は論理的叙述の連続であり、それが延々と長く続く。今、どのあたりを読んであるのか、周囲が見えず、めくらめっぽう歩き、迷い込んでいるようだったからである。そのような印象をもたれた読者の方もおられるのではないであろうか?


この意味ではスヴェーデンボリの著作の中で一番難解なもののひとつかもしれない。しっかりと構成された本であり、気楽に読みとおせるものではない(しかし、安直な読み物ばかり読んでしまうかもしれないとき、このような「お堅い」ものを読んで、気を引き締めるのもよい頭の訓練になるかもしれない)いすれにせよ、スヴェーデンボリの思想を把握するために、いつかはきちっと読んでおくべき本であろう。


 


本書の出版を期待している方がいる。頭を休め、多少間をとってから、来年に半年ぐらいの期間をかけて見直して、その後、出版できたら、と願っている。


 


さて、今後のこと。次から原典講読『宗教と生活』を連載する。これもある方の希望である。薄いので3カ月もしないで終えるであろう、そしてそのままこの秋に出版したいと思っている。


題名『宗教と生活』は聞いたことがないと思う。ジョン・チャドウィックが『黙示録講解』の第15章、第16章から抜粋して編集したものの題名(RELIGION AND LIFE)であり、前半が宗教全般(15)、後半が十戒(16)を扱っている。

原典講読『宗教と生活』はじめに

 

スヴェーデンボリは遺稿『黙示録講解』(APOCALYPSIS EXPLICATA)記述の合間に別記事を挿入させています。どうしてこのような記述の仕方をしたのかはわかりません。その一つが今回のものであり、これは「黙示録」の第15章と第16章の講解の間に挿入されているものを抜き出したものです。


これをジョン・チャドウィックが英訳、編集し、『宗教と生活』(RELIGION AND LIFE)の題名でロンドンのスヴェーデンボリ協会から出版しています(1961)


この原典講読ではもちろんラテン原典から学びます。


和訳は柳瀬氏が『霊的な生命』の題名で静思社から出版しています。そしてそれは「スウェーデンボルグ財団」から出版されたものです。


 


さて、本文中にませ込むような形で記述してあっても、これは一つのまとまった別の本として読むほうが望ましいと思います。それで、前記のように単行本として出版されました。その際、スヴェーデンボリのやり方にならって、編集者により通し番号がつけられました(各章には名前もつけられていますが、これはおそらく編集者サムエル・ウスターが行なっています)


以下に英訳書の題名をしるしておきます。


 


RELIGION AND LIFE


A translation of the section on good works and the Ten Comandments


included in the exposition of the fifteenth and sixteenth chapters


of the Book of Revelation in the work entitled


THE APOCALYPSE EXPLAINED


 


By


EMANUEL SWEDENBORG


 


The Swedenborg Society 1961

原典講読『宗教と生活』 1

 

DE BONIS CHARITATIS.


仁愛の善について


 


(1) 原文「講解932番」


  1  Quoniam in explicationibus ad bina capita praecedentia (xii. et xiii.) actum est de fide separata a bonis charitatis, quae sunt bona opera, tum de fide ex charitate, in explicationibus ad hoc et ad sequens caput agendum est de bonis charitatis. Quid bona charitatis seu bona opera, in Christiano orbe hodie a plerisque ignoratur, ex causa quia invaluit religio de sola fide, quae est fides separata a bonis charitatis; nam si haec nihil ad salutem faciunt, sed solum fides, in animo est quod possint omitti. Aliqui vero qui credunt quod bona opera facienda sint, non sciunt quid bona opera; cogitant quod bona opera sint solum dare pauperibus, ac benefacere egenis, viduis et pupillis, quia talia nominantur et sicut mandantur in Verbo. Quidam credunt quod si facienda sint propter vitam aeternam, datum sint pauperibus omnia quae possident, sicut in primitiva ecclesia factum est, et sicut a Domino mandatum est diviti, quod “venderet omnia quae haberet, et daret pauperibus, ac tollens crucem sequeretur Ipsum” [(Matth. xix. 21)]. Sed quid bona opera, quae intelliguntur in Verbo, dicetur ordine in sequentibus.


 


(2) 直訳


Quoniam in explicationibus ad bina capita praecedentia (xii. et xiii.) actum est de fide separata a bonis charitatis, quae sunt bona opera, tum de fide ex charitate, in explicationibus ad hoc et ad sequens caput agendum est de bonis charitatis. 先行する二つの章(12章と第13)への説明の中で仁愛の善から分離した信仰について扱われたので、それは善い働き()である、なおまた仁愛からの信仰について、これ〔本章〕と続きの章への説明の中で、仁愛の善について扱われなければならない。


Quid bona charitatis seu bona opera, in Christiano orbe hodie a plerisque ignoratur, ex causa quia invaluit religio de sola fide, quae est fides separata a bonis charitatis; 何が仁愛の善または善い働き()か、キリスト教世界の中で今日、大部分の者により知られていない、理由から、信仰のみについての宗教が強くなったから、それは仁愛の善から分離した信仰である。


nam si haec nihil ad salutem faciunt, sed solum fides, in animo est quod possint omitti. なぜなら,もしこれ〔仁愛の善〕は救いに何も行なわない、しかし、信仰のみが〔救いを行なう〕なら、心(アニムス)中で捨てられる(削除される)ことができることがある☆から。


文字通りの直訳です、「(仁愛の善を)“無視できる”との思いが心に生じる」といった意味です。


Aliqui vero qui credunt quod bona opera facienda sint, non sciunt quid bona opera; けれども(とはいえ)、ある者は、善い働き()行なわれなくてはならないことを信じる者、何が働き()か知らない。


cogitant quod bona opera sint solum dare pauperibus, ac benefacere egenis, viduis et pupillis, quia talia nominantur et sicut mandantur in Verbo. 考える、善い業は単に貧しい者に与えることである、そして、乏しい者に、寡婦と孤児に,善を行なう(よくしてやる)ことであること、なぜなら、このようなことが、みことばの中に名前を挙げられている、あたかも命じられているように。


Quidam credunt quod si facienda sint propter vitam aeternam, datum sint pauperibus omnia quae possident, sicut in primitiva ecclesia factum est, et sicut a Domino mandatum est diviti, quod “venderet omnia quae haberet, et daret pauperibus, ac tollens crucem sequeretur Ipsum” [(Matth. xix. 21)]. ある者は信じる、もし永遠のいのちのために〔善い業が〕行なわれなくてはならないなら、所有するすべてのものを貧しい者に与えなければならない,原始教会の中で行なわれたように、また主により富んでいる者に命じられたように、「持っているすべてのものを売り、貧しい者に与え、そして十字架を取って(持ち上げて)、その方に従わなくてはならない」こと(マタイ19:21)


Sed quid bona opera, quae intelliguntur in Verbo, dicetur ordine in sequentibus. しかし、何が善い働き()か、それがみことばの中で意味されている、続くもの〔記述〕の中で順に言われる。


 


(3) 訳文(『黙示録講解』932)


 1 先行する二つの章(12章と第13)の説明の中で、善い働きである仁愛の善から分離した信仰について、なおまた仁愛からの信仰について扱われたので、これ〔本章〕と続きの章の説明の中で仁愛の善について扱わなければならない。何が仁愛の善または善い働きか、今日、キリスト教世界の中で大部分の者により知られていない、信仰のみについての宗教が強くなったという理由からであり、それは仁愛の善から分離した信仰である。なぜなら,もしこれ〔仁愛の善〕は救いに何も行なわず、信仰のみが〔救いを行なう〕なら、心(アニムス)中で捨てられることができるからである。善い働きを行なわなくてはならない、と信じる者でも、何が働きか知らない。善い業は単に、貧しい者,乏しい者、寡婦と孤児に与えることと、善を行なうことであると考える。なぜなら、みことばの中にそうしたことが述べられ、そのように命じられているからである。ある者は、もし永遠のいのちのために〔善い業が〕行なわれなくてはならないなら、原始教会の中で行なわれたように、所有するすべてのものを貧しい者に与えなくてはならない、そして主により富んでいる者に、「持っているすべてのものを売り,貧しい者に与え、そして十字架を取って、その方に従わなくてはならない」と命じられた(マタイ 19:21)ように信じている。


しかし、何が善い業か、みことばの中でそれの意味されていることが何か、続くものの中で順に述べられる。