原典講読『神の摂理』を終えて

 

 掲載開始が去年の2010724日、その前に『天界と地獄』の掲載がちょうど1年かかったので(それよりやや分量が少ない)10か月ぐらいかと予想していたが、そのようになった。詳しく言えば10か月と2週間であるが、去年の8月終わりから9月初めにかけて2週間入院していたので、それから計算すればやはり10か月。毎日続けていると、だいたいの進捗状況は一定してきて、予想が付く。


 


掲載の途中で、あまりの大作なのでジャングルに迷い込んでしまったような気がした。どういうことかと言えば、『神の摂理』と『天界と地獄』を比べると、後者はトピックの並列であり、一つの章も短くまとまっていて、いちおう「読みやすい」。しかし、前者は論理的叙述の連続であり、それが延々と長く続く。今、どのあたりを読んであるのか、周囲が見えず、めくらめっぽう歩き、迷い込んでいるようだったからである。そのような印象をもたれた読者の方もおられるのではないであろうか?


この意味ではスヴェーデンボリの著作の中で一番難解なもののひとつかもしれない。しっかりと構成された本であり、気楽に読みとおせるものではない(しかし、安直な読み物ばかり読んでしまうかもしれないとき、このような「お堅い」ものを読んで、気を引き締めるのもよい頭の訓練になるかもしれない)いすれにせよ、スヴェーデンボリの思想を把握するために、いつかはきちっと読んでおくべき本であろう。


 


本書の出版を期待している方がいる。頭を休め、多少間をとってから、来年に半年ぐらいの期間をかけて見直して、その後、出版できたら、と願っている。


 


さて、今後のこと。次から原典講読『宗教と生活』を連載する。これもある方の希望である。薄いので3カ月もしないで終えるであろう、そしてそのままこの秋に出版したいと思っている。


題名『宗教と生活』は聞いたことがないと思う。ジョン・チャドウィックが『黙示録講解』の第15章、第16章から抜粋して編集したものの題名(RELIGION AND LIFE)であり、前半が宗教全般(15)、後半が十戒(16)を扱っている。

原典講読『宗教と生活』はじめに

 

スヴェーデンボリは遺稿『黙示録講解』(APOCALYPSIS EXPLICATA)記述の合間に別記事を挿入させています。どうしてこのような記述の仕方をしたのかはわかりません。その一つが今回のものであり、これは「黙示録」の第15章と第16章の講解の間に挿入されているものを抜き出したものです。


これをジョン・チャドウィックが英訳、編集し、『宗教と生活』(RELIGION AND LIFE)の題名でロンドンのスヴェーデンボリ協会から出版しています(1961)


この原典講読ではもちろんラテン原典から学びます。


和訳は柳瀬氏が『霊的な生命』の題名で静思社から出版しています。そしてそれは「スウェーデンボルグ財団」から出版されたものです。


 


さて、本文中にませ込むような形で記述してあっても、これは一つのまとまった別の本として読むほうが望ましいと思います。それで、前記のように単行本として出版されました。その際、スヴェーデンボリのやり方にならって、編集者により通し番号がつけられました(各章には名前もつけられていますが、これはおそらく編集者サムエル・ウスターが行なっています)


以下に英訳書の題名をしるしておきます。


 


RELIGION AND LIFE


A translation of the section on good works and the Ten Comandments


included in the exposition of the fifteenth and sixteenth chapters


of the Book of Revelation in the work entitled


THE APOCALYPSE EXPLAINED


 


By


EMANUEL SWEDENBORG


 


The Swedenborg Society 1961

原典講読『宗教と生活』 1

 

DE BONIS CHARITATIS.


仁愛の善について


 


(1) 原文「講解932番」


  1  Quoniam in explicationibus ad bina capita praecedentia (xii. et xiii.) actum est de fide separata a bonis charitatis, quae sunt bona opera, tum de fide ex charitate, in explicationibus ad hoc et ad sequens caput agendum est de bonis charitatis. Quid bona charitatis seu bona opera, in Christiano orbe hodie a plerisque ignoratur, ex causa quia invaluit religio de sola fide, quae est fides separata a bonis charitatis; nam si haec nihil ad salutem faciunt, sed solum fides, in animo est quod possint omitti. Aliqui vero qui credunt quod bona opera facienda sint, non sciunt quid bona opera; cogitant quod bona opera sint solum dare pauperibus, ac benefacere egenis, viduis et pupillis, quia talia nominantur et sicut mandantur in Verbo. Quidam credunt quod si facienda sint propter vitam aeternam, datum sint pauperibus omnia quae possident, sicut in primitiva ecclesia factum est, et sicut a Domino mandatum est diviti, quod “venderet omnia quae haberet, et daret pauperibus, ac tollens crucem sequeretur Ipsum” [(Matth. xix. 21)]. Sed quid bona opera, quae intelliguntur in Verbo, dicetur ordine in sequentibus.


 


(2) 直訳


Quoniam in explicationibus ad bina capita praecedentia (xii. et xiii.) actum est de fide separata a bonis charitatis, quae sunt bona opera, tum de fide ex charitate, in explicationibus ad hoc et ad sequens caput agendum est de bonis charitatis. 先行する二つの章(12章と第13)への説明の中で仁愛の善から分離した信仰について扱われたので、それは善い働き()である、なおまた仁愛からの信仰について、これ〔本章〕と続きの章への説明の中で、仁愛の善について扱われなければならない。


Quid bona charitatis seu bona opera, in Christiano orbe hodie a plerisque ignoratur, ex causa quia invaluit religio de sola fide, quae est fides separata a bonis charitatis; 何が仁愛の善または善い働き()か、キリスト教世界の中で今日、大部分の者により知られていない、理由から、信仰のみについての宗教が強くなったから、それは仁愛の善から分離した信仰である。


nam si haec nihil ad salutem faciunt, sed solum fides, in animo est quod possint omitti. なぜなら,もしこれ〔仁愛の善〕は救いに何も行なわない、しかし、信仰のみが〔救いを行なう〕なら、心(アニムス)中で捨てられる(削除される)ことができることがある☆から。


文字通りの直訳です、「(仁愛の善を)“無視できる”との思いが心に生じる」といった意味です。


Aliqui vero qui credunt quod bona opera facienda sint, non sciunt quid bona opera; けれども(とはいえ)、ある者は、善い働き()行なわれなくてはならないことを信じる者、何が働き()か知らない。


cogitant quod bona opera sint solum dare pauperibus, ac benefacere egenis, viduis et pupillis, quia talia nominantur et sicut mandantur in Verbo. 考える、善い業は単に貧しい者に与えることである、そして、乏しい者に、寡婦と孤児に,善を行なう(よくしてやる)ことであること、なぜなら、このようなことが、みことばの中に名前を挙げられている、あたかも命じられているように。


Quidam credunt quod si facienda sint propter vitam aeternam, datum sint pauperibus omnia quae possident, sicut in primitiva ecclesia factum est, et sicut a Domino mandatum est diviti, quod “venderet omnia quae haberet, et daret pauperibus, ac tollens crucem sequeretur Ipsum” [(Matth. xix. 21)]. ある者は信じる、もし永遠のいのちのために〔善い業が〕行なわれなくてはならないなら、所有するすべてのものを貧しい者に与えなければならない,原始教会の中で行なわれたように、また主により富んでいる者に命じられたように、「持っているすべてのものを売り、貧しい者に与え、そして十字架を取って(持ち上げて)、その方に従わなくてはならない」こと(マタイ19:21)


Sed quid bona opera, quae intelliguntur in Verbo, dicetur ordine in sequentibus. しかし、何が善い働き()か、それがみことばの中で意味されている、続くもの〔記述〕の中で順に言われる。


 


(3) 訳文(『黙示録講解』932)


 1 先行する二つの章(12章と第13)の説明の中で、善い働きである仁愛の善から分離した信仰について、なおまた仁愛からの信仰について扱われたので、これ〔本章〕と続きの章の説明の中で仁愛の善について扱わなければならない。何が仁愛の善または善い働きか、今日、キリスト教世界の中で大部分の者により知られていない、信仰のみについての宗教が強くなったという理由からであり、それは仁愛の善から分離した信仰である。なぜなら,もしこれ〔仁愛の善〕は救いに何も行なわず、信仰のみが〔救いを行なう〕なら、心(アニムス)中で捨てられることができるからである。善い働きを行なわなくてはならない、と信じる者でも、何が働きか知らない。善い業は単に、貧しい者,乏しい者、寡婦と孤児に与えることと、善を行なうことであると考える。なぜなら、みことばの中にそうしたことが述べられ、そのように命じられているからである。ある者は、もし永遠のいのちのために〔善い業が〕行なわれなくてはならないなら、原始教会の中で行なわれたように、所有するすべてのものを貧しい者に与えなくてはならない、そして主により富んでいる者に、「持っているすべてのものを売り,貧しい者に与え、そして十字架を取って、その方に従わなくてはならない」と命じられた(マタイ 19:21)ように信じている。


しかし、何が善い業か、みことばの中でそれの意味されていることが何か、続くものの中で順に述べられる。