原典講読「神の摂理』 338([4]~[7])

 

(2) 直訳


[4.] Secundum: [4.] 第二:


Sed quod haec fides sit ex ignorantia status spiritualis, qui prorsus diversus est a statu naturali. しかし、この信仰は、自然的な状態から完全に異なっている霊的な状態〔について〕の無知からであること。


De statu spirituali, qui est status hominis post mortem, supra multis in locis actum est; 霊的な状態について、それは人間の死後の状態である、上に多く、個所の中で扱われている。


et ostensum, quod unusquisque sit suus amor, et quod nemo possit vivere cum aliis quam cum illis qui in simili amore sunt, et quod si ad alios venit, non respirare possit suam vitam. また示されている、それぞれの者が自分の愛であること、まただれも生きることができこと、他の者と、彼らとでないなら、似た愛の中にいる者、また他の者のところにやって来るなら、自分のいのちを呼吸することができないこと。


Inde est, quod quisque post mortem veniat in societatem suorum, qui sunt qui in simili amore sunt, et quod hos cognoscat sicut affines et sicut amicos; ここからである、それぞれの者が、死後、自分の社会の中にやって来ること、その〔社会の〕者は似た愛の中にいる者である、また彼らを親類のように、また友のように認める(知る)


et quod mirum est, cum illos convenit et videt, est sicut illos ab infantia cognovisset; また驚くべきことである、彼らに会う、また見るとき、彼らを幼児期から知っていたようであること。


est affinitas et amicitia spiritualis, quae hoc facit. 霊的な親族関係と友情である、それらがこのことをつくる。


Immo plus, non potest aliquis in societate habitare in alia domo quam in sua, cuivis in societate sua domus est, quam invenit sibi paratam, ut primum societatem intrat. それどころかもっと、ある者は社会の中で他の家の中に住むことができない自分のもの以外、社会の中のそれぞれの者に自分の家がある、それを見つける、自分自身に準備された、社会に入ると直ぐに。


In consortiis potest esse cum aliis extra suam domum, sed usque non alibi quam in sua morari. 交わりの中で、自分の家の外の他の者といることができる、しかし、それでも、自分の〔ところ〕以外の他のところにとどまることが〔でき〕ない。


Et quod adhuc plus est, non potest aliquis in alterius conclavi sedere quam in suo loco; また、さらにもっとである、ある者は他の者の部屋の中で座ることができない、自分の場所の中以外に。


si in alio fit sicut impos mentis et mutus; もし、他の中に〔座る〕なら、心のできないように、また口のきけない。


et quod mirabile est, quisque dum intrat conclave, scit suum locum; また不思議(驚くべきこと)であること、だれもが部屋に入る時、自分の場所を知っている。


similiter fit in templis; 同様に生じる(なる)、神殿(教会、礼拝所)中で。


et quoque in coetibus quando congregati sunt. そしてまた集会の中で、集められる時。


[5.] Ex his patet, quod status spiritualis sit prorsus diversus a statu naturali, ac talis ut aliquis non possit alibi esse quam ubi regnans ejus amor est; [5.] これらから明らかである、霊的な状態が自然的な状態から完全に異なっていること、そしてある者が他のところにいることができないような、そのようなものである、そこに彼の愛が支配している以外に。


ibi enim est jucundum vitae ejus, et quisque vult in suae vitae jucundo esse; というのは、そこに彼のいのち(生活)楽しさがあるから、またそれぞれの者が自分のいのち(生活)楽しさの中にいることを欲する。


et spiritus hominis non potest alibi, quia id facit vitam ejus, immo ipsam respirationem, ut et pulsum cordis ejus. また人間の霊は他のところに〔いることが〕できない、それが彼のいのち(生活)をつくるので、それどころか呼吸そのものを、そのようにまた彼の心臓の鼓動を。


Aliter in mundo naturali: 異なって〔いる〕、自然界の中で。


in hoc externum hominis ab infantia edoctum est jucunda alia simulare facie, loquela et gestu, quam illa quae sunt interni ejus; この外なるものの中に、人間は幼児期から教えられている、他の快さを偽り装うこと、顔で、話し方と身振りで、それら以外に、それらは彼の内部にある。


quare ex statu hominis in mundo naturali non potest concludi ad statum ejus post mortem; それゆえ、自然界の中の人間の状態から、死後の彼の状態について結論されることはできない。


nam status cujusvis post mortem est spiritualis, qui est, quod non possit alibi esse, quam in jucundo sui amoris, quod sibi in mundo naturali per vitam comparavit. なぜなら、そのぞれの者の死後の状態は霊的であるから、それである、他のところにいることができないこと、自分の愛の快さ以外、それを自分自身に自然界の中で生活によって得た。


[6.] Ex his manifeste constare potest, quod nemo possit immitti in jucundum caeli, quod communi voce vocatur gaudium caeleste, qui in jucundo inferni est, seu quod idem, in jucundum boni qui in jucundo mali est: [6.] これらからはっきりと明らかにすることができる、だれも天界の快さの中に入れられることができないこと、普通の言葉で天界の楽しさと呼ばれるもの、その者は地獄の快さの中にいる、すなわち、同じこと〔であるが〕、善の快さの中に、その者は悪の快さの中にいる。


quod adhuc clarius potest concludi ex eo, quod nemini post mortem negetur ascendere in caelum, monstratur ei via, datur copia, et intromittitur; さらに明るくそのこと(quod以下)から結論されることができる、だれにも天界の中に上ることが否定されないこと、彼に道が示される、機会が与えられる、また入れられる(入るのを許される)


sed dum in caelum venit, et aspiratu jucundum ejus attrahit, incipit angi pectore, et torqueri corde, ac sentire deliquium, in quo se contorquet sicut anguis admotus igni, et cum aversa facie e caelo, et conversa ad infernum, praeceps aufugit, nec quiescit quam in societate amoris sui. しかし、天界の中にやって来る時、また呼吸でその快さを引き寄せる、胸で痛みを感じ始める、また心臓で苦しめられ〔始める〕、そして気絶を感じること、その中で、火に近づけられたヘビのように自分自身をねじる、またそのとき天界から顔を背け、また地獄へ向ける、真っ逆さまに逃げ去る、自分の愛の社会の中以外に休みもしない。


Inde constare potest, quod in caelum venire non sit alicui ex immediata misericordia; ここから明らかにすることができる、天界の中にやって来ることはある者に直接の慈悲からではないこと。


proinde quod non solum sit admitti, ut multi in mundo autumant; それゆえに、単に入ることを許されることではない、世の中の多くの者が憶測するように。


tum quod nec sit momentanea salvatio, nam haec ponit immediatam misericordiam. なおまた、瞬間の救いもないこと、なぜなら、これは直接の慈悲を前提(必要)とするから。


[7.] Fuerunt quidam qui in mundo momentaneam salvationem ex immediata misericordia crediderunt; [7.] ある者がいた、その者は直接の慈悲から瞬間の救いを信じた。


et dum spiritus facti voluerunt ut jucundum illorum infernale seu jucundum mali, ex Divina Omnipotentia et simul ex Divina Misericordia transmutaretur in jucundum caeleste seu jucundum boni, et quia ita cupiverunt, etiam permissum est ut ab angelis fieret, qui tunc removerunt jucundum illorum infernale: また霊となった時、彼らの地獄の快さまたは悪の快さが、神的な全能からまた同時に神的な慈悲から天界の快さまたは善の快さに変えられるように欲した、またこのように熱望したので、さらにまた許された、天使たちにより行なわれるように、その者は彼らの地獄の快さを取り除いた。


sed illi tunc, quia id erat jucundum amoris vitae eorum, proinde vita eorum, jacuerunt sicut mortui, absque omni sensu et omni motu; しかし、彼らはその時、それは彼らのいのちの愛の快さであったので、それゆえに彼らのいのち、死んだように横たわった、すべての感覚とすべての動きなしに。


nec possibile fuit insufflare aliam vitam quam suam; 自分のもの以外の他のいのちを吹き入れることも不可能であった。


quia omnia mentis et corporis eorum, quae retro versa erant, non potuerunt retorqueri in contrarium: 彼らの心の、また身体のすべてのものは、それらは後ろ向きに変えられていた、反対のものに逆にする(曲げ返す)ことはできなかったからである。


quare resuscitati sunt per immissionem jucundi amoris vitae eorum. それゆえ、彼らのいのちの愛の快さを送り込むことによって生き返させられた。


Post id dixerunt, quod in illo statu interius senserint dirum et quoddam horrendum, quod non voluerunt propalare. そのことの後、彼らは言った、その状態の中で内的に恐ろしいものと身震いするあるものを感じた、それを公けにすることを欲しなかった。


Quare in Caelo dicitur, quod facilius sit convertere bubonem in turturem, et serpentem in agnum, quam aliquem spiritum infernalem in angelum caeli. それゆえ、天界の中で言われている、ミミズクをキジバトに変えることは容易であること、またヘビを子羊に、何らかの地獄霊を天界の天使に〔変える〕よりも。


 


(3) 訳文


338. [4.] 第二:「しかし、この信仰は、自然的な状態から完全に異なっている霊的な状態〔について〕の無知からであること」


 霊的な状態について、それは人間の死後の状態であり、前に多くの個所の中で扱われている。また、それぞれの者が自分の愛であること、まただれも、似た愛の中にいる者とでないなら、他の者と生きることができないこと、また他の者のところにやって来るなら自分のいのちを呼吸することができないことが示されている。ここから、それぞれの者が、死後、似た愛の中にいる者の自分の社会の中にやって来て、彼らを親類のように、また友のように認める。また驚くべきことであるが、彼らに会い、また見るとき、彼らを幼児期から知っていたようである。このことは霊的な親族関係と友情から生ずる。


 それどころかさらに、ある者は社会の中で自分のもの以外の他の家の中に住むことができず、それぞれの者に社会の中の自分の家があり、社会に入ると直ぐに、自分自身に準備されたその家を見つける。


 交わりの中で、自分の家の外で他の者といることができる、しかし、それでも、自分のところ以外の他のところにとどまることはできない。もっとさらに、ある者は他の者の部屋の中で、自分の場所でしか座ることができない。もし、他の場所に座るなら、自分の心がないように、口がきけないようになる。また不思議なことに、部屋に入る時、だれもが自分の場所を知っている。神殿(教会、礼拝所)中でも、


そしてまた集会に集まる時も、同様であ


[5.] これらから、霊的な状態が自然的な状態から完全に異なっていること、そしてある者は、彼の愛が支配しているところ以外に他のところにいることができないようなものであることが明らかである。


というのは、そこに彼のいのち(生活)楽しさがあり、またそれぞれの者が自分のいのち(生活)楽しさの中にいることを欲し、またそれが彼のいのち(生活)を、実に呼吸そのものを、そのようにまた心臓の鼓動をつくるので、人間の霊は他のところにいることができない。


 自然界では異なる。この外なるものの中に、人間は幼児期から、彼の内部にあるもの以外の他の快さを、顔、話し方、身振りで偽り装うことを教えられている。それゆえ、自然界での人間の状態から、彼の死後の状態について結論されることはできない。なぜなら、そのぞれの者の死後の状態は霊的であり、自然界での生活によって自分自身に得た自分の愛の快さ以外の他のところにいることができないからである。


[6.] これらから、だれも天界の快さ、普通の言葉で天界の楽しさと呼ばれるものの中に、地獄の快さの中にいる者が入れられることができないこと、すなわち、同じことであるが、悪の快さの中にいる者が善の快さの中に入れられることができないことを、はっきりと明らかにすることができる。


 さらに明るく、だれにも天界の中に上ること、彼に道が示され、機会が与えられ、入れられのが否定されないことを結論することができる。


 しかし、天界の中にやって来て、呼吸でその快さを引き寄せる時、胸に痛みを感じ、心臓を苦しめられ始める。そして気絶しそうに感じ、その中で、火に近づけられたヘビのように自分自身をねじり、またそのとき顔を天界から背け、地獄へ向け、真っ逆さまに逃げ去り、自分の愛の社会の中〔戻る〕以外に休みもしない。


 ここから、天界の中にやって来ることは直接の慈悲からではないことを明らかにすることができる。それゆえ、世の中の多くの者が憶測するように、単に入るのを許されることではない。なおまた、瞬間の救いもない、なぜなら、これは直接の慈悲を前提とするからである。


[7.] 直接の慈悲からの瞬間の救いを信じた者がいた。彼らは霊となった時、自分の地獄の快さまたは悪の快さが、神的な全能からまた同時に神的な慈悲から、天界の快さまたは善の快さに変えられるように欲した、またこのように熱望したので、さらにまた、天使たちにより行なわれるように許され、彼らの地獄の快さを取り除いた。しかし、その時、それは彼らのいのちの愛の快さであり、それゆえ彼らのいのちあったので、すべての感覚とすべての動きなしに、死んだように横たわった。自分のもの以外の他のいのちを吹き入れることも不可能であった。彼らの心の、また身体のすべてのものは、後ろ向きに変えられており、反対のものに曲げ返すことができなかったからである。それゆえ、彼らのいのちの愛の快さを送り込むことによって生き返させられた。その後、彼らは、その状態の中で内的に恐ろしいものと身震いするものを感じたと言い、それを公けにすることを欲しなかった。それゆえ、天界では、何らかの地獄霊を天界の天使に変えるよりも、ミミズクをキジバトに、またヘビを子羊に変えることのほうが容易である、と言われている。

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