[5.] Tertium: [5.] 第三:
Quod salventur illi soli, qui intra ecclesiam nati sunt, sit haeresis insana. 「教会内に生まれた者だけが救われることは、狂気の異端である」
Sunt illi qui extra ecclesiam nati sunt aeque homines ut illi qui intra illam, ex simili origine caelesti, aeque animae viventes et immortales. 彼らは、教会外に生まれている者、等しく人間である、その内に〔生まれている〕者のように、同様の天界の起源から、等しく生きている、また不死の霊魂である。
Est illis quoque religio, ex qua agnoscunt quod Deus sit, et quod bene vivendum sit, et qui agnoscit Deum et bene vivit, fit spiritualis in suo gradu, et salvatur, ut supra ostensum est. 彼らにもまた宗教がある、それ〔宗教〕から神が存在することを認める、また善く生きるべきであること、また神を認め、善く生きる者は、自分の段階の中で霊的になる、また救われる、上に示されたように。
Dicitur quod non sint baptizati, sed baptizatio non alios salvat, quam qui spiritualiter lavantur, hoc est, regenerantur, baptismus enim est in signum et memoriale ejus. 洗礼を受けていないことが言われる、しかし、洗礼はある者を救わない、霊的に洗われている者以外に、すなわち、再生されている、というのは、洗礼はそのしるしと記念の中に☆あるから。
☆ この前置詞inは「~の中に現存して、働いて(いる)」という意味です。訳出しないでもよいでしょう。
[6.] Quod Dominus illis non notus sit, et absque Domino nulla salus; [6.] 主が彼らに知られていない、また、主なしに何も救いはないこと。
at nulla alicui salus est propterea, quod ei Dominus notus sit, sed quod vivat secundum praecepta Ipsius; しかし、ある者にこのために(理由で)何も救いはない、彼に主がよく知られていること、しかし、その方の戒めにしたがって生きること。
ac notus est cuivis qui agnoscit Deum, nam Dominus est Deus caeli et terrae, ut Ipse docet (Matth. xxviii. 18, et alibi); そして、それぞれの者によく知られている、神を認める者、なぜなら、主は天地の神であるから、その方が教えるように(マタイ28:18また他の個所に)。
et praeterea illi qui extra ecclesiam sunt, ideam de Deo ut Homine, plus quam Christiani, habent; また、加えて(さらに)、彼らは、教会の外にいる者、人間としての神についての観念をキリスト教徒以上にもっと、もっている。
et illi, quibus idea de Deo ut Homine est, et bene vivunt, acceptantur a Domino; また彼らは、それらの者に人間としての神についての観念がある、また善く生きる、主により受け入れられる。
agnoscunt etiam Deum unum persona et essentia, secus ac Christiani: さらにまた一つの位格(一人の人格)と本質(の)神を認める、キリスト教徒とは違って☆。
☆ secus acで「~と区別して、~とは違って」という意味です。
et quoque cogitant de Deo in vita sua; そしてまた、神について自分の生活の中で考える。
mala enim faciunt peccata contra Deum, et qui hoc faciunt, illi cogitant de Deo in vita sua. というのは、悪を神に対する罪とする、またこのことをする者は、彼らは神について自分の生活の中で考えているから。
Praecepta religionis sunt Christianis ex Verbo, sed pauci sunt qui aliqua praecepta vitae inde hauriunt; 宗教の戒めがキリスト教徒にみことばからある、しかし、わずかな者である、その者はそこから何らかの生活の戒めを学ぶ(取り入れる)。
[7.] Pontificii non legunt illud; [7.] ローマカトリック教徒はそれを読まない。
et Reformati qui in fide separata a charitate sunt, non attendunt ad illa ibi quae concernunt vitam, sed solum quae fidem; また、改革派教会の者は、仁愛から分離した信仰の中にいる者、そこ〔みことば〕にそれらに留意しない、それらは生活に関係する、しかし、単にそれらは信仰に〔関係する〕。
et usque totum Verbum non est nisi quam Doctrina vitae. またそれでも、みことば全体は、生活の教えで以外でないなら、ない。
Christianismus est modo in Europa, Mahumedismus et Gentilismus est in Asia, Indiis, Africa et America; キリスト教☆はヨーロッパだけにある、イスラム教☆と異教☆はアジア、インド、アフリカとアメリカにある。
☆ ここはそれぞれキリスト教国、イスラム教国、異教国の訳もありえます。このほうがよいかもしれません。
et genus humanum in his partibus orbis decies excedit multitudine id genus humanum quod in parte orbis Christiani est; また世界のこれらの部分の中の人類は十回多くその人類に上回る、キリスト教世界の部分の中にいる。
et in hac sunt pauci, qui religionem in vita ponunt. またこの中にわずかな者がいる、その者は宗教を生活の中に置く。
Quid itaque insanius est credere, quam quod hi solum salventur, et illi condemnentur, et quod caelum sit homini ex nativitate, et non ex vita? そこで、何が気が狂っている(比較級)か? 信じることは、これらの者〔後者〕だけが救われることよりも☆、またそれらの者〔前者〕が断罪される、また天界が人間に生まれからある、また生活からでない。
☆ quamは比較級とともに「~よりも」の意味があります。
Quare dicit Dominus, それゆえ、主は言う、
“Dico.. vobis, quod multi ab oriente et occidente venient et accumbent cum Abrahamo, Isaco et Jacobo in regno caelorum; 「わたしは…あなたがたに言う、多くの者が東と西からやって来る、また天界の王国の中でアブラハム、イサクまたヤコブとともに食卓につく。
filii vero regni ejicientur” (Matth. viii. 11, 12). けれども(しかし)、王国の息子たちは投げ出される」(マタイ8:11, 12)。
[8.] Quartum: [8.] 第四:
Quod aliqui ex humano genere ex praedestinato damnati sint, sit haeresis crudelis. 「人類のある者が予定から断罪されることは、残酷な異端である」
Crudele enim est credere, quod Dominus, qui est ipse Amor et ipsa Misericordia, patiatur ut tam ingens multitudo hominum nascatur ad infernum, seu quod tot myriades myriadum nascantur damnati et devoti, hoc est, quod nascantur diaboli et satanae; というのは信じることは残酷であるから、主が、愛そのものと慈悲そのものである者、このように莫大な多くの人間が地獄に生まれるように許すこと、すなわち、このように多くの一万の一万(無数)の者が断罪され、滅ぼされる(食い尽される)〔ために〕生まれている、すなわち、悪魔とサタンに生まれている。
et quod non ex Divina sua Sapientia provideat, ne illi qui bene vivunt et agnoscunt Deum, in ignem et cruciatum aeternum conjiciantur. またご自分の神的な知恵から備えないこと、彼らが、善く生きて、神を認める、永遠の火と責め苦の中に投げ込まれないように。
Est usque Dominus omnium Creator et Salvator, et Ipse solus ducit omnes, ac nullius mortem vult; それでも、主はすべての者の創造者と救い主である、またその方だけがすべての者を導く、そしてだれにも死を欲しない。
quare crudele est credere et cogitare, quod tanta multitudo gentium et populorum sub auspicio et sub intuitu Ipsius ex praedestinato traderetur diabolo in praedam. それゆえ、信じることと考えることは残酷である、その方の指導の下に、また注視の下にそれほどに多くの国民と人民が予定から悪魔にえじき(分捕り品)の中に☆渡されること。
☆ このinは「~の範囲の中に、対象になって」という意味です。
(3) 訳文
330. [5.] 第三:「教会内に生まれた者だけが救われることは、狂気の異端である」
教会外に生まれている者は、その内に生まれている者と等しく人間であり、同様に天界の起源から等しく生き、また不死の霊魂である。彼らにもまた宗教があり、その宗教から神が存在すること、また善く生きるべきであることを認め、また神を認め、善く生きる者は、前に示されたように、自分の段階の中で霊的になり、救われる。洗礼を受けていない、と言われるが、しかし、洗礼は、霊的に洗われている者、すなわち、再生している者をしか救わない、というのは、洗礼はそのしるしと記念であるから。
[6.] 彼らに主が知られておらず、主なしに何も救いはないこと。
しかし、主がよく知られているので救われるのではなく、救われるのは、その方の戒めにしたがって生きるからである。そして、神を認めるそれぞれの者によく知られている、なぜなら、主が教えるようにその方は天地の神であるから(マタイ28:18また他の個所に)。また、さらに、教会の外にいる者は、人間としての神についての観念をキリスト教徒以上にもっている。また、人間としての神についての観念がある者は、善く生き、主により受け入れられる。さらにまたキリスト教徒とは違って、一つの位格と本質の神を認める。そしてまた、神について自分の生活の中で考える。というのは、悪を神に対する罪とする者は、神について自分の生活の中で考えているから。宗教の戒めがキリスト教徒にみことばからあるが、しかし、そこから何らかの生活の戒めを学ぶ者はわずかである。
[7.] ローマカトリック教徒は、みことばを読まない。また、仁愛から分離した信仰の中にいる改革派教会の者は、生活に関係するものでなく、ただ信仰に関係するみことばだけに留意する。またそれでも、みことば全体は、生活の教えでしかない。
キリスト教国はヨーロッパだけにあり、イスラム教国と異教国はアジア、インド、アフリカとアメリカにある。また世界のこれらの部分の中の人類は、キリスト教世界の部分の中にいる人類に十倍回多く上回る。またこの中で、宗教を生活の中に置く者はわずかである。そこで、後者だけが救われ、前者が断罪され、また人間に天界は生まれからあり、生活からではないと信じることよりも、気が狂っているものに何があるだろうか? それゆえ、主は言われている、「わたしはなたがたに言う。多くの者が東と西からやって来て、天界の王国の中でアブラハム、イサク、ヤコブとともに食卓につく。けれども、王国の息子たちは投げ出される」(マタイ8:11, 12)。
[8.] 第四:「人類のある者が予定から断罪されることは、残酷な異端である」
というのは、愛そのものと慈悲そのものである主が、このように莫大な多くの人間が地獄に生まれるように、すなわち、このように多くの無数の者が断罪され、滅ぼされるために生まれている、すなわち、悪魔とサタンに生まれていることを許されている、またご自分の神的な知恵から、善く生きて、神を認める者が永遠の火と責め苦の中に投げ込まれないように備えられていない、と信じることは残酷であるから。それでも、主はすべての者の創造者と救い主であり、またその方だけがすべての者を導き、そしてだれの死をも望まれない。それゆえ、その方の指導の下に、また注視の下に〔あっても〕、それほどに多くの国民と人民が予定から悪魔にえじきとなって渡される、と信じ、考えることは残酷である。