(2) 直訳
[6.] Secundum: [6.] 第二:
Quod omnis homo creatus sit ut vivat in aeternum in statu beato, est consequens; 「すべての人間は幸福の状態の中で永遠に生きるように創造されていること」が結果である。
nam qui vult ut homo vivat in aeternum, vult etiam ut vivat in statu beato. なぜなら、人間が永遠に生きるように欲する者は、幸福の状態の中で生きるようにもまた欲するから。
Quid vita aeterna absque illo? それなしに永遠のいのち(生活)とは何か?
Omnis amor vult alterius bonum, amor parentum vult bonum liberorum; すべての(者の)愛は他の者の善を欲する、両親の愛はこの善を欲する。
amor sponsi et mariti vult bonum sponsae et uxoris; 婚約者(花婿)と夫の愛は婚約者(の女)と妻の善を欲する。
et amor amicitiae vult bonum amicorum. 友情の愛は友情の善を欲する。
Quid non Divinus Amor? 神的な愛は何を〔欲する〕ないか?
Et bonum quid aliud est quam jucundum? また善は、快さ以外の他の何か?
et Divinum Bonum quid aliud quam beatum aeternum? また神的な善は永遠の幸福以外の他の何か?
Omne bonum ex jucundo seu beato sui dicitur bonum: すべての善はその快さと幸福から善と言われる。
bonum quidem vocatur id quod datur et possidetur; それは確かに善と呼ばれる、与えられ、所有されるもの。
sed nisi etiam sit jucundum, est bonum sterile, quod in se non est bonum. しかし、さらにまた快さがないなら、不毛の(不妊の)善である、本質的に善ではないこと。
Ex his patet, quod vita aeterna etiam sit beatum aeternum. これらから明らかである、永遠のいのち(生活)は永遠の幸福でもまたあること。
Hic status hominis est finis creationis; 人間のこの状態が創造の目的である。
at quod solum illi qui in caelum veniunt in illo statu sint, non est Dominus in culpa, sed est homo; しかし、天界の中の者、彼らだけがその状態の中にやって来ることは、主は責任(過失)の中にいない、しかし、人間がいる。
quod homo sit in culpa, videbitur in sequentibus. 人間が責任(過失)の中にいることは、続くものの中で見られる。
[7.] Tertium: [7.] 第三:
Quod sic omnis homo creatus sit, ut in caelum veniat. 「したがって、すべての人間は天界にやって来るように創造されていること」
Hoc finis creationis est: これが創造の目的である。
sed quod non omnes veniant in caelum, est quia imbuunt jucunda inferni opposita beato caeli; しかし、すべての者が天界の中にやって来るのではないことは、天界の幸福に正反対の地獄の快さを吸収しているからである。
et qui non in beato caeli sunt, non possunt intrare caelum, non enim sustinent illud. また天界の幸福の中にいない者は、天界に入ることができない、というのはそれを受け(それに耐え)ないから。
Nemini, qui in mundum spiritualem venit, negatur ascendere in caelum; だれにも、霊界にやって来る者、天界に上ることが否定されない。
sed qui in jucundo inferni est, dum illuc venit, palpitat corde, laborat respiratione, vita incipit perire, angitur, cruciatur, et se volvit sicut serpens admotus igni; しかし、地獄の快さにいる者は、そこにやって来る時、心(心蔵)で動悸がする、呼吸で衰弱する、いのちは失われ(ることを)始める、痛みを感じる、苦しめられる、また自分自身をころがす、火に近づけられたヘビのように。
hoc sic, quia oppositum agit in oppositum. このことがこのように〔なる、見られるのは〕、正反対のものが正反対のものの中で働くからである。
[8.] Sed usque quia homines nati sunt, et per id in facultate cogitandi et volendi, et inde in facultate loquendi et agendi sunt, non possunt mori: [8.] しかし、それでも人間に生まれているので、またそのことによって考え、意志する能力の中に、またここから話し、行動する能力の中にいる、死ぬことはできない。
at quia non cum aliis possunt vivere quam cum illis qui in simili jucundo vitae sunt, ad illos remittuntur; しかし、彼らと以外に他の者と生きることはできないので、いのち(生活)の同様の快さの中にいる者、彼らへ送り返される。
consequenter qui in jucundis mali sunt, ad suos; その結果として(したがって)、悪の快さの中にいる者は、自分のもの☆へ。
☆ ここの「もの」は何でしょうか? その前の文に一緒に生活することが述べられているので「仲間」としておいてよいでしょう。
et qui in jucundis boni sunt ad suos. また、善の快さの中にいる者は、自分のもの☆へ。
Immo datur cuivis in jucundo sui mali esse, modo non infestet illos qui in jucundo boni sunt; それどころかそれぞれの者に自分の悪の快さの中にいることが与えられている、彼らを悩まさない(攻撃しない)かぎり、善の快さの中にいる者。
sed quia malum non potest aliter quam infestare bonum, inest enim malo odium contra bonum, quare ne damnum inferant, removentur, et in sua loca in inferno dejiciuntur, ubi jucundum illorum vertitur in injucundum. しかし、悪は善を悩ます(攻撃する)こと以外に異なってできないので、というのは悪に善に対する憎しみが内在するから、それゆえ、危害を加えないように、遠ざけられる、また地獄の中の自分の場所の中に投げ込まれる、そこに彼らの快さは不快に変わる。
[9.] Sed hoc non tollit, quin homo ex creatione sit et inde nascatur talis, ut in caelum possit venire; [9.] しかし、このことは取り去らない、むしろ(~のようにではなく)人間が創造からまたここからこのようなものに生まれている、天界の中にやって来ることができるように。
in caelum enim venit omnis qui infans moritur, educatur ac instruitur ibi, sicut homo in mundo, ac per affectionem boni et veri imbuitur sapientia, et fit angelus. というのは、天界の中にやって来るすべての者は、幼児で死んだ者、そこに教育され、教えられるから、世の中の人間のように、そして善と真理の情愛によって知恵を教え込まれる(浸される)、また天使になる。
Similiter potuisset homo, qui educatur et instruitur in mundo; 同様にできた、人間は、その者は世の中で教育され、教えられる。
nam simile inest illi quod infanti. なぜなら、似たものが彼に内在するから、幼児に〔ある〕もの。
De infantibus in mundo spirituali videatur in opere De Caelo et Inferno (Londini, an. 1758, edito, n. 329-345). 霊界の中の幼児については著作『天界と地獄』(ロンドン、1758年出版、329-345番)に見られる。
[10.] Sed quod non simile fiat cum multis in mundo, est quia amant primum gradum vitae suae, qui vocatur naturalis, et non volunt ab illo recedere, et fieri spirituales; [10.] しかし、世の中の多くの者に同様にならない、自分のいのち(生活)の最初の段階を愛するので、それは自然的と呼ばれる、またそこから引き下がる(去る)ことを欲しない、また霊的になること。
et gradus vitae naturalis in se spectatus non amat nisi quam semet et mundum, cohaeret enim cum sensibus corporis, qui etiam exstant mundo; また自然的ないのち(生活)の段階は本質的に愛さない、自分自身と世以外でないなら、というのは身体の感覚に密着するから、それらもまた世に現われる。
at gradus vitae spiritualis in se spectatus amat Dominum et caelum, et quoque semet et mundum, sed Deum et caelum ut superius, principale et dominans, ac semet et mundum ut inferius, instrumentale et famulans. しかし、霊的ないのち(生活)の段階は本質的に主と天界を愛する、そしてまた自分自身と世を、しかし、主と天界を上のもの(高いもの)、最も重要なもの(主要なもの)と支配するものとして、そして自分自身と世を、道具(手段)と召使い(となるもの)として。
[11.] Quartum: [11.] 第四:
Quod Divinus Amor non possit aliter quam id velle, et quod Divina Sapientia non possit aliter quam id providere.― 「神的な愛はそのことを意志すること以外にできない、また神的な知恵はそのことを備えること以外にできないこと」―
Quod Divina Essentia sit Divinus Amor et Divina Sapientia, in transactione de Divino Amore et Divina Sapientia, plene ostensum est; 神的な本質が神的な愛と神的な知恵であることは、『神的な愛と神的な知恵』についての論文の中に、十分に示されている。
ibi etiam demonstratum est (n. 358-370), quod Dominus in omni embryone humano formet duo receptacula, unum Divini Amoris et alterum Divinae Sapientiae; そこにさらにまた示され(論証され)ている(357-370番)、主が人間のすべての胎児の中に二つの容器を作られること、一つは神的な愛の、またもう一つは神的な知恵の。
receptaculum Divini Amoris pro futura voluntate hominis, et receptaculum Divinae Sapientiae pro futuro intellectu ejus; 人間の将来の意志のために神的な愛の容器を、また彼の将来の理解力のために神的な知恵の容器を。
et quod sic cuivis homini indiderit facultatem volendi bonum, et facultatem intelligendi verum. またこのようにすべての人間に善を意志する能力を植え付けられた(与えられた)こと、また真理を理解する能力を。
[12.] Nunc quia hae binae facultates hominis ex nativitate a Domino inditae sunt, et inde Dominus est in illis ut in suis apud hominem, patet quod Divinus Ipsius Amor non possit aliter velle, quam ut homo in caelum veniat, et ibi aeterna beatitudine fruatur; [12.] そこで、これら二つの能力が人間に出生から主により植え付けられているので、またここから主が人間のもとのそれらの中にそのものの中にのようにいる、その方の神的な愛が異なって欲することができないことが明らかである、人間が天界の中にやって来るように、またそこに永遠の幸福の状態を享受する。
et quoque quod Divina Sapientia non possit aliter quam id providere. そしてまた、神的な知恵は異なってできない、それを備えること以外に。
Sed quia ex Divino Ipsius Amore est, ut homo sentiat beatum caeleste in se sicut suam, et hoc non fieri potest, nisi homo in omni apparentia teneatur, quod a se cogitet, velit, loquatur et agat, ideo non potest hominem aliter ducere quam secundum leges Divinae suae Providentiae. しかし、その方の神的な愛からであるので、人間が天界の幸福を自分自身の中に、自分のものであるように感じるように、またこのことは生じる(行なわれる)ことができない、人間がすべての外観の中に保たれないなら、自分自身から考え、欲し、話しまた行動する、それゆえ、人間を異なって導くことができない、ご自分の神的な摂理の法則にしたがって以外に。
(3) 訳文
324. [6.] 第二:「すべての人間は幸福の状態の中で永遠に生きるように創造されていること」が結果である。
なぜなら、人間が永遠に生きるように欲する者は幸福の状態の中で生きるようにもまた欲するから。
それなしに永遠のいのち(生活)とは何か? すべての者の愛は他の者の善を欲し、両親の愛はこの善を欲する。婚約者の男と夫の愛は婚約者の女と妻の善を欲する。友情の愛は友情の善を欲する。神的な愛は何を欲さないか? また善は快さ以外の他の何か〔欲さないか〕? また神的な善は永遠の幸福以外の他の何か?
すべての善はその快さと幸福から善と言われる。与えられ、所有されるものは確かに善と呼ばれる。しかし、さらにまた快さがないなら、不毛の善であり、本質的に善ではない。これらから、永遠のいのち(生活)は永遠の幸福でもまたあることが明らかである。人間のこの状態が創造の目的である。しかし、天界の中の者だけがその状態の中にやって来ることは、主の責任ではなく、しかし、人間の責任である。人間に責任があることは、続くものの中で見られる。
[7.] 第三:「したがって、すべての人間は天界にやって来るように創造されていること」
これが創造の目的である。しかし、すべての者が天界の中にやって来るのではないのは、天界の幸福に正反対の地獄の快さを吸収しているからである。また天界の幸福の中にいない者は天界に入ることができない、というのはそれに耐えられないから。霊界にやって来るだれにも天界に上ることは否定されない。しかし、地獄の快さにいる者は、そこにやって来る時、心蔵が動悸し、呼吸が弱り、いのちが失われ始め、痛みを感じ、苦しめられ、火に近づけられたヘビのようにころがる。このようになるのは、正反対のものが正反対のものの中で働くからである。
[8.] しかし、それでも人間に生まれ、またそのことによって考え、意志する能力の中に、またここから話し、行動する能力の中にいるので、死ぬことはできない。しかし、同じようないのち(生活)快さの中にいる者以外の他の者と生きることはできないので、彼らのもとへ送り返される。したがって、悪の快さの中にいる者は、自分の仲間のもとに、また善の快さの中にいる者も、自分の仲間のもとにいる。それどころか善の快さの中にいる者を悩まさないかぎり、それぞれの者に自分の悪の快さの中にいることが与えられている。しかし、悪は善を悩ますことしかできないので、というのは悪に善に対する憎しみが内在するからであり、それゆえ、危害を加えないように遠ざけられ、地獄の中の自分の場所の中に投げ込まれ、そこで彼らの快さは不快に変わる。
[9.] しかし、このことは、むしろ(~のようにではなく)人間が創造からまたここから天界の中にやって来ることができるように生まれていることを取り去るものではない。というのは、幼児で死んで天界の中にやって来るすべての者は、世の中の人間のように、そこで教育され、教えられ、そして善と真理の情愛によって知恵に浸され、天使になるから。世の中で教育され、教えられる人間も同様である。なぜなら、幼児にあるのと似たものが彼に内在するから。霊界の中の幼児については著作『天界と地獄』(ロンドン、1758年出版、329-345番)に見られる。
[10.] しかし、世の中の多くの者は、、自然的と呼ばれる自分のいのち(生活)の最初の段階を愛するので、またそこから去り、霊的になることことを欲しないので、同様にならない。また自然的ないのち(生活)の段階は、本質的に自分自身と世しか愛さない、というのはそれらは世に現われる身体の感覚に密着するから。しかし、霊的ないのち(生活)の段階は本質的に主と天界を、そしてまた自分自身と世を愛する、しかし、主と天界を上のもの、主要なものと支配するものとして、そして自分自身と世を、道具と召使いとして愛する。
[11.] 第四:「神的な愛はそのことを意志すること以外にできない、また神的な知恵はそのことを備えること以外にできないこと」
神的な本質が神的な愛と神的な知恵であることは、『神的な愛と神的な知恵』についての著作の中に十分に示されている。そこにはさらにまた、主が人間のすべての胎児の中に、一つは神的な愛の、またもう一つは神的な知恵の二つの容器を、人間の将来の意志のために神的な愛の容器を、また彼の将来の理解力のために神的な知恵の容器を作られること、またこのようにすべての人間に善を意志する能力を、また真理を理解する能力を植え付けられたことが論証されている(357-370番)。
[12.] そこで、これら二つの能力が人間に出生から主により植え付けられ、またここから主が人間のもとのそれらの中にいるので、その方の神的な愛は人間が天界の中にやって来るように、またそこに永遠の幸福の状態を享受するようにしか欲することができないこと、そしてまた、神的な知恵はそれを備え