(3) 訳文
330. しかし、一般的に理解された予定説の信念がどれほど有害か見られるように、それらの四つの主題が再び取り上げられ、確信されなければならない。
第一:「天界へ以外の予定は神的な愛とその無限性に反すること」
エホバ、すなわち、主は神的な愛であること、またそれは無限であり、すべてのいのちのエッセであること、なおまた、人間は神の似姿にしたがって神の映像に創造されていることは、著作『神の愛と知恵』の中に示されている。また示されてもいるように、すべての人間は子宮の中で主によりその似姿にしたがってその映像に形作られるので、主はすべての人間の天界の父であること、また人間はその方の霊的な息子であることがいえる。さらにまたエホバ、すなわち、主はこのようにみことばの中で呼ばれており、そこに人間もこのおうに呼ばれていおり、それゆえ、〔主は〕言われた、
「あなたがたは地上のあなたがたの父を、あなたがたの父と呼ばないように、なぜなら、あなたがたの父はひとりであり、その者は天界にいるから」(マタイ23:9)。
このことによって、いのちである父だけあること、また地の上の父は単にいのちの衣服に関して父であることが意味され、それは身体である。それゆえ、天界の中で、父と呼ばれる者は主以外にいない。そのいのちをひっくり返さない人間は、息子またその方から生まれたと言われることは、みことばの多くの個所からもまた明らかである。
[2.] ここから、悪い者にも善い者にも、神的な愛がすべての人間の中にあることを明らかにすることができる。それゆえ、神的な愛である主は、地上の父が自分の子供に行なうようにしか、彼らに行なうことができない。そして神的な愛は無限であるので、さらに無限にである。なおまた、主からいのちがそれぞれの者にあるので、主はだれからも去ることができない。〔主は〕悪い者から去るように見える、しかし、悪い者が去る、しかし、それでも、主は愛から彼らを導く。
それゆえ、主は言われた、
「(あなたがたは)求めよ、するとあなたがたに与えられる。探せ、すると見つける。叩け、するとあなたがたに与えられる。…だれがあなたがたの人間か? その者は、もし彼の息子がパンを求めるなら、彼に石を与える。…そこで、もし、悪い者であるあなたがたが、あなたがたの息子によい贈り物を与えることを知っているなら、天の中のあなたがたの父は、その方を求める者に、さらにどれほどよいものを与えられるであろうか」(マタイ7:7-11)。
また他の個所に、
ご自分の太陽を悪い者と善い者の上に昇るようにする、そして雨を正しい者と不正な者の上に送る(マタイ5:45)。
さらにまた教会の中に、主はすべての者の救い欲し、だれの死も欲しないことがよく知られている。
これらから、天界へ以外の予定は神的な愛に反することを見ることができる。
[3.] 第二:「天界へ以外の予定は神的な知恵とその無限性に反すること」
神的な愛は、その神的な知恵によって、それによってそれぞれの人が救われることができる手段を備える。それゆえ、天界へ以外の予定があると言うことは、救いの手段を備えることができないと言うことである。そのとき、前に示されているように、それでもすべての者に手段があり、これらは神的な摂理からであり、それは無限である。
けれども救われない者がいる理由は、神的な愛は人間が天界の幸福と幸運の状態を自分自身の中に感じるよう欲するからである、なぜなら、そうでなければ彼に天界とならないから、またこのことは、人間に、自分自身から考え、欲するように見られないなら、生じることができない、というのはそれらの外観なしに何も彼に専有されず、人間でもなくなるから。このことのために神的な摂理があり、それは神的な愛からの神的な知恵である。
[4.] しかし、このことは、すべての者は天界へ予定されており、だれも地獄へ予定されていない、という真理を取り去らない。しかし、もし救いの手段が欠けるなら、取り去る。けれども、救いの手段がそれぞれの者に備えられていること、また天界が、どんな宗教からの者でもすべて善く生きた者が、そこに場所を持つようなものであることが前に示されている。
人間は、すべての種類の実を生み出す地のようであり、その能力から地は地である。悪の実もまた生み出すことは、むしろ善もまた生み出すとき、〔地はその能力を〕取り去らない、しかし、もし悪しか生み出すことができないなら、取り去られる。
さらにまた人間は、光線の光をそれ自体の中で多彩に変化させる対象物のようである。もし単にいやな色を示すなら、その原因は光にはない。光線の光は、快い色に変えられこともできる。
(4) 感想:「求めよ」何を?
有名な「求めよ、さらば与えられん」の個所です。でも、(ギリシア)原文から読むと、いろいろと考えさせられ、興味が尽きません。全部述べていると、膨大な内容になりそうな気がします。当面の疑問だけを述べますので、あとは各自で考えてみてください。私もここで小1時間ほど原文を眺めていました。
①「求めよ」とは何を、また何が与えられるのでしょうか(いつ、どこで、どのように)。直後にはパンを求めて、石が与えられることはない、と書いてありますが。(魚の代わりにヘビも)
②「求める」「さがす」「叩く」のこの順が重要ではないか。すなわち、求めるのは「心」探すのは「目」そして「足」(どこかへ出かけるのであろうから)、その次に「手」で扉を叩くのです。
また、「求める」だけでなく、続いて「さがし」「たたく」という三点セットも重要であろう。
③ ここからは原文でないとわかりづらいですか、「与えられる」のと「開かれる」のは受動態。「見つける」のは能動態です。ここに私は大いなる意味がある気がします。また同じく受動態には「あなたがたに」がついています。
すなわち、三点セットで最初と最後で受身、真ん中の「さがす」のは自分で行ない、その結果「見つける」のも自分が行ないます。
さて、付け足しです、「求める」例として言及されているパンは本人ではなく「息子」が求めます。新改訳聖書には「また子が魚を下さい…」とありますが、「子」は原文にない付け足しです。すなわち、「パン」は息子が求めますが、「魚」は本人が求めています。微妙でしかも重要な違いですね。
これもまた原文にありませんが9節(ここのラテン語訳にはあります)と12節には「人間」の言葉が入っています! 12節は「人間は、あなたがたにしなければならない」という意味です。この「人間」をわざわざ述べるのは、「ほんとうの人間であるためには」という意味でしょうか。
ここの所も重要ですので、コメントします。
「求める」は目的であり、「さがす」は手段であり、「叩く」は結果です。目的は天的善であり、手段は霊的真理であり、結果は用です。つまり天界のために真理を学びそれを実行せよと言っていると思います。また黙示録3-20では「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って~」と書かれており主が叩き人間が主の声を聞いて戸を開くなら主とともになれる。と書かれています。主とともに在ることは目的であり、主が叩く音を聞き主の声を聞くことは手段であり、戸を開くことは結果です。つまり主とともに在ることは天界に居ることであり、主の叩く音と主の声を聞くことは霊的真理を学んで理解することであり、戸を開くことは霊的真理に従って用を果たすことだと思います。
「パン」を求める息子も、「魚」を求める本人も同じ立場の人間だと思います。
9節も12節も御言葉を分析すると解らなくなりますが、目的から考えるとその意味がはっきり解ると思います。