(2) 直訳
[8.] Quartum: [8] 第四:
Quod usque a Domino provideatur, ut quisque salvari possit. それでも主により備えられていること、それぞれの者が救わることができるように。
Providetur a Domino, ut ubivis sit religio, et in unaquavis religione sint duo essentialia salutis, quae sunt, agnoscere Deum et non facere malum quia est contra Deum. 主により備えられている、どこにも宗教があるように、またそれぞれの宗教の中に救いに本質的な二つのものがあること、それらである、神を認めることと悪を行なわないこと、神に反するものであるので。
Reliqua quae sunt intellectus et inde cogitationis, quae vocantur fidei, providentur cuivis secundum vitam ejus, nam illa sunt accessoria vitae; 残りのものは、それらは理解力とそこからの思考のものである、それらは信仰のものと呼ばれる、それぞれの者に彼の生活にしたがって備えられている、なぜなら、それらは生活(いのち)の付属のもの(補助的なもの)であるから。
et si praecedunt, usque non vitam prius accipiunt. またもしそれら〔補助的なもの、信仰のもの〕が先行するなら、それでも生活(いのち)を〔それより〕以前に受け入れない☆。
☆ やや言葉足らずの文章になっているかと思います。「信仰を優先させても、生活がともなわなければ、結局は救われない」ということです。
Providetur etiam, quod omnes qui vixerunt bene, et agnoverunt Deum, post mortem instruantur ab angelis, et tunc illi qui in binis illis essentialibus religionis in mundo fuerunt, vera ecclesiae, qualia sunt in Verbo, acceptant, et Dominum pro Deo caeli et ecclesiae agnoscunt: さらにまた備えられている、すべての者は、善く生きた者、また神を認めた、死後、天使により教えられる、またその時、彼らは、世の中で宗教の本質的なそれらの二つのものの中にいた者、教会の真理を、みことばの中にあるようなもの、受け入れる、また主を天界と教会の神として認める。
et hoc recipiunt facilius quam Christiani, qui ideam de Humano Domini separato a Divino Ipsius secum e mundo tulerunt. またこれらの者はキリスト教徒よりも容易に受け入れる、その者〔キリスト教徒〕は主の人間性についての観念を、その方の神性から分離した、世から自分自身にもった。
Provisum etiam est a Domino, ut omnes qui moriuntur infantes, ubicunque nati sunt, salventur. さらにまた主により備えられている、すべての者が、幼児で死んだ者、どこに生まれても、救われるように。
[9.] Datur etiam cuivis homini post mortem copia emendandi vitam, si possibile; [9.] さらにまたそれぞれの人間に、死後、生活(いのち)の矯正(改善)する機会(余地)が与えられている、もし実行できるなら(可能なら)。
instruuntur et ducuntur a Domino per angelos; 主により天使を通して教えられ、導かれる。
et quia tunc sciunt quod vivant post mortem, et quod caelum et infernum sint, principio recipiunt vera; また、その時、知るので、死後に生きること、また天界と地獄があること、最初は☆、真理を受け入れる。
☆ 通常in principioですが、このようにinがないこともあります。ラテン語聖書、またヨハネ福音書の冒頭の言葉が、in principio「初めに」です。
sed illi qui non agnoverunt Deum, et fugerunt mala ut peccata in mundo, brevi post fastidiunt vera, ac recedunt; しかし、彼らは、神を認めない者、また悪を世の中で罪として避けた、しばらくしてその後、真理を退ける(嫌気がする)、そして去る。
et illi qui agnoverunt illa ore et non corde, sunt sicut virgines stultae, quae lampades habebant et non oleum, ac petierunt oleum ab aliis, et quoque abiverunt et emerunt et tamen non in nuptias intromissae sunt. また彼らは、それを口で認めた者、また心でなく、愚かな処女のようである、彼女らは明かりを持っていた、また油なし、そして油を他の者から求めた、そしてまた出かけた、また買った、またそれでも結婚式に入れられなかった。
“Lampades” significant vera fidei, et ” oleum” significat bonum charitatis. 「明かり」は信仰の真理を意味する、また「油」は仁愛の善を意味する。
Ex his constare potest, quod Divina Providentia sit, ut quisque salvari possit, et quod ipse homo sit in culpa si non salvatur. これらから明らかにすることができる、神的な摂理があること、それぞれの者が救われることができるように、また人間自身が責任(過失)の中にあること、もし救われないなら。
[10.] Quintum: [10.] 第五:
Quod etiam provideatur, ut nova ecclesia loco devastatae prioris succedat.― さらにまた備えられていること、新しい教会が前の荒廃したものに代わって続くように。―
Hoc factum est ab antiquissimis temporibus, quod nempe devastata ecclesia priore successerit nova; このことは最古代の時代から行なわれている、すなわち、前の荒廃した教会に新しいもの〔教会〕が続いて起こること。
post Ecclesiam Antiquissimam successit Antiqua; 最古代教会の後に古代〔教会〕が続いて起こった。
post Antiquam Israelitica seu Judaica; 古代〔教会〕の後に、イスラエルまたはユダヤの。
post hanc Christiana; この後にキリスト〔教会〕。
quod etiam post hanc successura sit nova ecclesia, praedicitur in Apocalypsi, quae ibi intelligitur per “Novam Hierosolymam” descendentem e caelo. さらにまたこの後に新しい教会が続いて起こること、「黙示録」の中に予言されている、それはそこに「新しいエルサレム」によって意味されている、天から下って来る。
Causa, quod nova ecclesia loco devastatae prioris successura a Domino provideatur, in Doctrina Novae Hierosolymae de Scriptura Sacra (n. 104-113) videatur. 理由は、新しい教会が前の荒廃したもの代わって続くものが主により備えられていること、『新しいエルサレムの教え、聖書について』の中に見られる(104-113番)。
(3) 訳文
328. [8] 第四:「それでも主により、それぞれの者が救わることができるよう備えられていること」
主により、どこにも宗教があり、それぞれの宗教に救いに本質的な二つのものがあるるように備えられている。それらは、神を認めることと神に反するからと悪を行なわないことである。残りのものは、信仰のものと呼ばれる理解力とそこからの思考のものであり、それらはそれぞれの者に彼の生活にしたがって備えられている。なぜなら、それらは生活の補助的なものであるから。もしそれら〔補助的なもの、信仰のもの〕が先行するにしても、それでもそれ以前に生活に受け入れることはない。
さらにまた、善く生き、神を認めたすべての者は、死後、天使により教えられ、またその時、世で宗教の本質的なそれらの二つのものの中にいた者は、、みことばの中にあるような教会の真理を受け入れ、また主を天界と教会の神として認めるよう備えられている。またこれらの者は、主の神性から人間性を分離したその方についての観念を世から自分自身にもったキリスト教徒よりも容易に受け入れる。
さらにまた主により、幼児で死んだすべての者は、どこに生まれても救われるよう備えられている。
[9.] さらにまたそれぞれの人間に、死後、もし実行できるなら、生活を改善する機会が与えられている。主により天使を通して教えられ、導かれる。また、その時、死後も生きること、また天界と地獄があることを知るので、最初は真理を受け入れる。しかし、神を認めず、世で悪を罪として避けなかった者は、その後しばらくして、真理に嫌気がし、そして去る。また、それを心でなく口で認めた者は、愚かな乙女のようである。彼女らは明かりを持っていたが油がなく、油を他の者から求め、出かけて、買ったが、それでも結婚式に入れられなかった。「明かり」は信仰の真理を意味し、「油」は仁愛の善を意味する。これらから、それぞれの者が救われることができるように神的な摂理があること、またもし救われないなら人間自身に責任があることを明らかにすることができる。
[10.] 第五:「さらにまた新しい教会が、前の荒廃したものに代わって続くよう備えられていること」
このことは最古代の時代から行なわれている、すなわち、前の荒廃した教会に続いて新しい教会が起こることである。最古代教会の後に続いて古代教会が、古代教会の後にイスラエルまたはユダヤの教会が、この後にキリスト教会起こった。さらにまた、この後に新しい教会が続いて起こることが「黙示録」の中に予言されており、それはそこの天から下って来る「新しいエルサレム」によって意味されている。
新しい教会が前の荒廃したもの代わって続く教会が主により備えられていることの理由は、『新しいエルサレムの教え、聖書について』の中に見られる(104-113番)。