原典講読「神の摂理』 328([5]~[7])

 

(2) 直訳


[5.] Secundum: [5.] 第二:


Quod omnis religio decrescat et consummetur per inversionem imaginis Dei apud hominem.  すべての宗教は衰え、また完了される(終わりにされる)こと、人間のもとで神の映像の反転(倒置)によって。


Notum est, quod homo creatus sit in imaginis Dei, secundum similitudinem Dei (Genes. i. 26): よく知られている、人間は神の映(の中)に創造されたこと、神の似姿にしたがって(創世記1:26)


sed dicetur, quid imago et quid similitudo Dei. しかし、言われる、神の何が映像か、また何が似姿か。


Deus solus est Amor et Sapientia; 神だけが愛と知恵である。


homo creatus est ut sit receptaculum utriusque; 人間は両方のものの容器として創造されている。


ut voluntas ejus sit receptaculum Divini Amoris, ac ut intellectus ejus sit receptaculum Divinae Sapientiae. 彼の意志が神的な愛の容器であるように、そして彼の理解力が神的な知恵の容器であるように。


Quod duo illa a creatione sint apud hominem, et quod illa faciant hominem et quod illa etiam apud unumquemvis formentur in utero, supra ostensum est. それら二つのものが創造から人間のもとにあること、またそれらが人間をつくること、それらもまた子宮の中でそれぞれの者のもとでつくられること、上に示された。


Homo itaque imago Dei est, quod sit recipiens Divinae Sapientiae; そこで、人間は神の映像である、神的な知恵の受け入れるものであることは。


et similitudo Dei est, quod sit recipiens Divini Amoris; また神の似姿である、神的な愛の受け入れるものであることは。


quare receptaculum quod vocatur intellectus, est imago Dei, et receptaculum quod vocatur voluntas, est similitudo Dei. それゆえ、理解力と呼ばれる容器は、神の映像である、また意志と呼ばれる容器は、神の似姿である。


Inde quia homo creatus et formatus est ut sit receptaculum, sequitur, quod creatus et formatus sit, ut voluntas ejus recipiat amorem a Deo, ac ut intellectus ejus recipiat sapientiam a Deo; ここから人間は容器であるように創造され、形作られたので、~ということになる、創造され、形作られていること、彼の意志が神から愛を受けるように、そして彼の理解力が神からの知恵を受けるように。


quae homo etiam recipit, dum agnoscit Deum, et vivit secundum praecepta Ipsius, sed in minori et majori gradu, sicut ex religione scit Deum, et scit praecepta; なおまた、それらを人間は受ける、神を認める時、またその方の戒めにしたがって生きる、しかし、小さい、また大きい段階の中で、宗教から神を知るに応じて(かぎり)、また戒めを知る。


proinde sicut scit vera, nam vera docent quid Deus et quomodo agnoscendus est, tum quid praecepta et quomodo vivendum secundum illa. それゆえに、真理を知るに応じて(かぎり)、なぜなら、真理は何が神か、またどのように認めなければならないか教えるから、なおまた何が戒めか、またどのようにそれらにしたがって生きなくてはならないか。


[6.] Imago Dei et similitudo Dei non sunt deperditae apud hominem, sed sunt sicut deperditae; [6.] 神の映像と神の似姿は人間のもとで失われた、しかし、失われたかのように存在する。


manent enim insitae in binis ejus facultatibus, quae vocantur libertas et rationalitas, de quibus supra multis actum est: というのは、彼の二つの能力の中に植え付けられて残るから、それは自由性と推理力と呼ばれる、それらについて上で大いに扱われている。


factae sunt sicut deperditae, cum homo fecit receptaculum Divini Amoris, quod est voluntas ejus, receptaculum amoris sui, ac receptaculum Divinae Sapientiae, quod est intellectus ejus, receptaculum propriae intelligentiae. 失われたかのようにされた、人間が神的な愛の容器を~としたとき、それは彼の意志である、自己愛の容器に、そして神的な知恵の容器を、それは彼の理解力である、プロプリウムの知性の容器に。


Per id invertit imaginem et similitudinem Dei, avertit enim illa receptacula a Deo, et convertit illa ad se: そのことによって神の映像と似姿はひっくり返された、というのはその容器を神から向きを変える(背ける)、またそれを自分自身に向けたから。


inde est, quod illa supra occlusa sint, et infra aperta, seu quod a facie occlusa et a tergo aperta; ここからである、それは上に閉ざされる、また下に開かれる、すなわち(または)、顔から閉ざされ、また背後から開かれる。


cum tamen a creatione fuerunt a facie aperta et a tergo occlusa: そのときそれでも創造から、顔から開かれ、また背後から閉ざされていた。


et cum illa ita inverse aperta et occlusa sunt, tunc receptaculum amoris seu voluntas recipit influxum ex inferno seu a suo proprio, similiter receptaculum sapientiae seu intellectus. またそれがこのように逆にして開かれ、閉ざされているとき、その時、愛または意志の容器は地獄、すなわち自分自身のプロプリウムからの流入を受ける、同様に、知恵または理解力の容器。


Inde in ecclesiis ortus est cultus hominum loco cultus Dei, ac cultus ex doctrinis falsi loco cultus ex doctrinis veri, hic ex propria intelligentia, ille ex amore sui. ここから教会の中に神への礼拝に代わって人間への礼拝が起こった、そして真理の教えからの礼拝に代わって虚偽の教えからの礼拝、これ〔後者〕はプロプリウムの知性から、それ〔前者〕は自己愛から。


Ex his patet, quod religio successu temporis decrescat et consummetur per inversionem imaginis Dei apud hominem. これらから明らかである、宗教は時間の経過〔とともに〕人間のもとで神の映像の反転(倒置)によって、衰え、また完了される(終わりにされる)こと。


[7.] Tertium: [7.] 第三:


Quod hoc existat ex continuis incrementis mali hereditarii in generationibus.  これが存在するようになること世代(子孫)の中で遺伝悪の絶え間ない(継続する)大から。


Quod malum hereditarium non sit ex Adamo et Chaiva uxore ejus per esum ex arbore scientiae, sed quod successive derivetur et transplantetur a parentibus in proles, et sic ex continuis incrementis ingravescat in generationibus, supra dictum et ostensum est. 遺伝悪はアダムと彼の妻エバからでないこと、知識の木から食べることによって、しかし、両親から子孫の中に継続的に導かれ、移植されること、またこのように世代(子孫)の中で絶え間ない増加から重くなる(ひどくなる)こと、上に言われ、示されている。


Cum malum inde ingravescit apud multos, tunc a se dispergit malum in plures; ここから悪が悪い者のもとで重くなる(ひどくなる)とき、その時、悪は(それ自体から)多くの者の中に広がる。


nam in omni malo est libido seducendi, in quibusdam ardens ex ira contra bonum, inde contagium mali. なぜなら、すべての悪の中に惑わす欲望があるから、ある者の中で善に対立する怒りから燃えるような〔欲望がある〕、ここから悪の感染。


Hoc cum invasit praesules, moderatores et antesignanos in ecclesia, fit religio perversa, ac media sanationis, quae sunt vera, per faisificationes fiunt corrupta. これが教会の中のかしら()、監督(現場監督)、また指導者(主役)に入り込むとき、宗教はゆがめられる、そして治療(癒し)の手段は、それは真理である、曲解によって腐敗する。


faisificationesfalsificatio「曲解、変造、偽造」の変化形(複数対格)ミスプリ。


Ex his nunc est successiva vastatio boni et desolatio veri in ecclesia usque ad consummationem ejus. そこで、これらから教会の中に継続的な善の荒廃(荒れ果てた状態)と真理の見捨てられた状態(廃墟)ある、その完了(終局)までも。


 


(3) 訳文


328. [5.] 第二:すべての宗教は、人間のもとで神の映像の倒置によって、衰え、また完了すること」


 人間が神の映に、神の似姿にしたがって創造されたことはよく知られている(創世記1:26)。しかし、神の映像とは何か、また似姿とは何か、述べよう。


 神だけが愛と知恵である。人間は、彼の意志が神的な愛の容器であるように、そして彼の理解力が神的な知恵の容器であるように、両方のものの容器として創造されている。


 それら二つのものが、創造から人間のもとにあること、またそれらが人間をつくること、それらもまた子宮の中でそれぞれの者のもとでつくられることは前上に示された。


 そこで、人間は神的な知恵の受け入れるものであることが神の映像である。また神的な愛の受け入れるものであることが神の似姿である。それゆえ、理解力と呼ばれる容器は神の映像であり、また意志と呼ばれる容器は神の似姿である。ここから、人間は容器であるように創造され、形作られたので、彼の意志が神から愛を受け、そして彼の理解力が神からの知恵を受けるように創造され、形作られていることがいえる。なおまた、それらを人間は、宗教から神を知り、戒めを知るに応じて、大なり小なりの段階で、神を認め、その方の戒めにしたがって生きる時、受ける。それゆえ、真理を知るに応じてである、なぜなら、真理によって、何が神か、またどのように認めなければならないか、なおまた何が戒めか、またどのようにそれらにしたがって生きなくてはならないか教わるからである。


[6.] 神の映像と神の似姿は人間のもとで失われた、しかし、失われたようであっても存在している。というのは、自由性と推理力と呼ばれる彼の二つの能力の中に植え付けられて残るから、それらについて前に大いに扱われている。人間が彼の意志である神的な愛の容器を自己愛の容器に、そして彼の理解力である神的な知恵の容器をプロプリウムの知性の容器にしたとき、失われたかのようにされた。そのことによって神の映像と似姿はひっくり返された、というのはその容器を神から向きを変え、自分自身に向けたから。ここから、それは上に閉ざされ、下に開かれる、または、顔から閉ざされ、背後から開かれる。そのときそれでも、創造から、顔から開かれ、背後から閉ざされていた。またそれがこのように逆にして開かれ、閉ざされているとき、その時、愛または意志の容器は地獄、すなわち自分自身のプロプリウムからの流入を受ける、知恵または理解力の容器も同様である。


ここから教会の中に神への礼拝に代わって人間への礼拝が、そして真理の教えからの礼拝に代わって虚偽の教えからの礼拝が起こった、後者はプロプリウムの知性から、前者は自己愛からである。


 これらから、宗教は時間の経過〔とともに〕人間のもとで神の映像の倒置によって、衰え、また完了することが明らかである


[7.] 第三:「これは世代の中で遺伝悪が絶え間なく増大することから起こること」


 遺伝悪は、知識の木から食べることによってアダムと彼の妻エバからでなく、しかし、両親から子孫の中に継続的に導かれ、移植されること、またこのように世代の中で絶え間ない増加からひどくなることが、前に言われ、示されている。ここから悪が悪い者のもとでひどくなる時、悪は多くの者に広がる。なぜなら、すべての悪の中に惑わす欲望があり、ある者の中では善に対する怒りから燃えるような欲望があり、ここから悪が感染するから。これが教会の中の長、監督者、また指導者に入り込むとき、宗教はゆがめられ、そして真理である癒しの手段は、曲解によって腐敗する。そこで、これらから教会の中に継続的な善の荒廃と真理の廃墟が完了するまである。