原典講読「神の摂理』 326(~[7]) 訳文

 

(3) 訳文


326. しかし、これらは個々に調べられ、示されなければならない。


第一:「神の承認は人間と神のまた神と人間の結合をつくること、また神の否定は分離をつくること」


 ある者は、神を認めない者も認める者も、道徳的な生活を送るかぎり等しく救われることができると考え、「承認は何を生み出すのか? 単なる思考ではないのか? 神が存在すること私が確かに知るとき、私は容易に認めないか? 私はその方について聞いた、しかし、私はその方を見てない。私が見るようにせよ、そうすれば私は信じる」。と言う。


 神を否定する者に自由に神の承認について推論することが許される時、このような談話が多くの者になされる。


 しかし、神の承認は結合し、神の否定は切り離すことが、霊界の中で私に知られたあるものによって明らかにされた。そこでは、だれかが他の者について考えるとき、また話すことを欲するとき、すぐさま彼がいる(現在する)のが見られる。そこではこのことは普通であり、また決して間違いのないことである。その理由は、霊界には自然界のように、距離がなく、単に距離の外観があるらである。


[2.] もう一つ、他の者〔について〕の何らかの知識からの思考が現在(居合わすこと)を引き起こすように、他の者〔について〕の何らかの情愛からの愛が結合を引き起こすことがある。一緒に行き、親しく会話し、また一つの家の中に、あるいは一つの社会の中に住み、そしてしばしば集まり、また互いに割り当てられた仕事を果たすのは、その結合からである。


 の者を愛さない者は、さらにまた他の者を憎む者は、見ないし、また会わないし、愛さず、また憎む程度にしたがって遠く離れているといった正反対のことも生じる。それどころか、もし居合わせても、その時、憎しみが思い出されるなら、見えなくなる。


[3.] これらのわずかなものから、霊界での現在(居合わせること)がどこからか、また結合がどこからか、明らかにするすることができる。すなわち、現在は(居合わせること)他の者を見る願望とともに彼の想起からであり、また結合は愛のものである情愛からであること。人間の心の中にあるすべてのものも同様である。それらの中に無数のものがあり、またそこの個々のものは情愛にしたがって、またはある事柄が他のものを愛するように仲間となり、結合している。


[4.] この結合は霊的な結合であり、それは全般的なもの、また個々のものの中でそれ自体と同様である。全般的なもの、また個々のものの中で、この霊的な結合の起源は、霊界とまた自然界と主の結合からである。それらから、だれかが主をどれだけ知り、また知識からその方についてどれだけ考えるによって、それだけ主が現在され、まただれかがその方を愛の情愛からどれだけ認めるかによって、それだけ主は彼に結合されることが明らかである。しかし、逆に、ある者が主をどれだけ知らないかによって、それだけ主はそこにいない。またある者がその方をどれだけ否定するかによって、それだけ切り離されている。


[5.] その結合は、主が人間をご自分へ顔を向けさせ、またその時、彼を導くようにする。また分離は、地獄がそれ自体へ彼の顔を向けさせ、彼を導くようにする。それゆえ、天界のすべての天使は、自分の顔を太陽としての主へ向け、また地獄のすべての霊は自分の顔を主から背かせる。これらから、神の承認が何を、また神の否定が何を生み出すか明らかであるまた世で神を否定する者は、その方を死後にも否定する。また前の記述(319)にしたがって組織化され、また世で着せられた組織は永遠に残る。


[6.] 第二:「それぞれの者は、自分の生活(いのち)の善にしたがって、神を認め、その方に結合されること」


 宗教から何らかのものを知るすべての者は神を知ることができる。知識または記憶からもまた神について話すことができ、またある者は理解力からもまた神について考えることができる。しかし、このことは、もし善く生きないなら、神が現在すること以外に何も生じない。というのは、それにもかかわらずその方から自分自身を背けることができ、もし悪く生きるなら自分自身を地獄へ向けるからである。


 しかし、心で神を認めることは、善く生きる者しかできない。これらの者を主は彼らの生活(いのち)の善にしたがって地獄から背けさせ、またご自分へ向けられる。その理由は、これらの者だけが主を愛するからである。というのは、神からの神性であるその方の律法の戒めを行なって、それらの神性を愛するからである。その方の発出する神性であるので、これらは神である。またこのことが神を愛することである。それゆえ、主は言われている、


 


 わたしの戒めを行なう者は、わたしを愛するものです。けれども、わたしの戒めを行なわない者は、わたしを愛しません(ヨハネ14:21-24)



[7.]
その理由は、一つは神のための、またもう一つは人間のための十戒の二つの板があることである。人間が自分の板の中にあるそれらの戒めを受け入れるよう、神は絶えず働かれている、しかし、もし人間が自分の板の中にあるそれらの戒めを行なわないなら、神の板の中にあるそれらの戒めを心で承認して受け入れない。また、もし受け入れないなら、結合されない。それゆえ、二つのそれらの板は一つであるように結合され、また契約の板と呼ばれた。契約は結合を意味する。


 自分の生活(いのち)の善にしたがって、それぞれの者が神を認め、またその方と結合される理由は、生活(いのち)の善は主の中にあり、またここから主からものである善に似ているからである。それゆえ、人間が生活(いのち)の善の中にいるとき、結合が生じる。生活(いのち)の悪〔の中にいる者〕と正反対であり、このことは主を退ける。

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