原典講読「神の摂理』 326(~[7])直訳

 

(2) 直訳


Sed haec singillatim lustranda et demonstranda sunt. しかし、これらは個々に調べられ(熟考され)、示されなければならない。


Primum: 第一:


Quod agnitio Dei faciat conjunctionem Dei cum homine et hominis cum Deo, et quod negatio Dei faciat sejunctionem.― 神の承認は人間と神の結合をつくること、また神と人間の、また神の否定は分離を〔つくる〕こと―


Aliqui possunt cogitare, quod salvari queant aeque qui non agnoscunt Deum quam qui agnoscunt, modo vitam moralem agant: ある者は考えることができる、等しく☆救われることができること、神を認めない者と、認める者と☆、道徳的な生活を送るかぎりは。


ここのようにaequequamを伴うことがよくあります。意味は同じです。


dicentes, “Quid operatur agnitio? 言って、「承認は何を生み出すのか(働きによって獲得するのか)


Estne solum cogitatio? 単なる思考ではないのか?


Possumne facile agnoscere, cum pro certo scio quod Deus sit? 私は容易に認めないか、確かに☆私が知るとき、神が存在することを?


pro certoで「確かな事実として、確かに」という意味です。certoだけでもこの意味があります。


Audivi de Illo, sed non vidi Illum: 私はその方☆について聞いた、しかし、私はその方を見てない。


大文字であり、神を指しているので、「彼」ではなく「その方」とします。


fac ut videam et credam.” 私が見るようにせよ、そうすれば私は信じる」。


Talis sermo est multis qui negant Deum, quando eis libere ratiocinari cum agnitore Dei licet. このような談話が多くの者にある、神を否定する者、彼に自由に神の承認について推論することが許される時。


Sed quod agnitio Dei conjungat, et negatio Dei sejungat, illustrabitur per quaedam mihi nota in spirituali mundo. しかし、神の承認は結合すること、また神の否定は切り離す、霊界の中で私に知られたあるものによって明らかにされた(説明された)


Ibi cum quis cogitat de altero, et vult loqui cum illo, sistitur alter illico praesens; そこでは、だれかが他の者について考えるとき、また彼と話すことを欲する、他の者がすぐさまいるのが見られる。


hoc commune ibi est, et nusquam fallit. このことはそこに普通である、また決して間違えない。


Causa est, quia in mundo spirituali non est distantia, sicut in mundo naturali, sed est modo apparentia distantiae. 理由である、霊界の中に距離(隔たり)ないからである、自然界の中のように、しかし、単なる距離(隔たり)の外観がある。


[2.] Alterum est, quod sicut cogitatio ex aliqua cognitione alterius facit praesentiam, ita amor ex aliqua affectione alterius faciat conjunctionem; [2.] もう一つある、他の者〔について〕の何らかの知識からの思考が現在(居合わすこと)をつくる(引き起こす)ように、他の者〔について〕の何らかの情愛からの愛が結合をつくる(引き起こす)こと。


ex qua fit quod simul eant et amice colloquantur, inque una domo habitent, vel in una societate, ac saepius conveniant, et mutuas operas praestent. それ〔結合〕から生ずる、一緒に行く、また親しげに会話する、また一つの家の中に住む、あるいは一つの社会の中に、そしてしばしば会(集まる)、また互いに職務(割り当てられた仕事)果たす。


Contrarium etiam fit, ut quod qui non amat alterum, et magis qui odit alterum, non videat nec conveniat illum, ac distent secundum gradum quo non amat, seu quo odit; 正反対も生じる、例えば(~のように)の者を愛さない者は、またさらに、他の者を憎む者は、見ない、また彼らに会わない、そして程度にしたがって遠く離れている、そこへ愛さない、またはそこへ憎む。


immo si praesens est, et tunc recordatur odii, fit inconspicuus. それどころか、もし現在して(居合わせて)いて、またその時、憎しみが(を?)思い出す(思い出される?)、目に見えない〔ことが〕生じる。


このあたり文法()がよくわかりません。


[3.] Ex his paucis constare potest, unde praesentia, et unde conjunctio in spirituali mundo; [3.] これらのわずかなものから明らかにするすることができる、現在がどこからか、また結合がどこからか、霊界の中の。


quod nempe praesentia sit ex recordatione alterius cum desiderio videndi illum, et quod conjunctio sit ex affectione quae est amoris. すなわち、現在は他の者の想起からであること、彼を見る願望とともに、また結合は愛のものである情愛からであること。


Simile est cum omnibus quae in mente humana sunt; すべてのものに同様である、それらは人間の心の中にある。


in illa sunt innumera, et singula ibi consociata et conjuncta sunt secundum affectiones, aut sicut una res amat alteram. それらの中に無数のものがある、またそこに個々のものは情愛にしたがって仲間となり、結合している、またはある事柄が他のものを愛するように。


[4.] Haec conjunctio est conjunctio spiritualis, quae sibi similis est in communibus et particularibus. [4.] この結合は霊的な結合である、それは(それ自体に)同様である全般的なもの、また個々のものの中で。


Spiritualis haec conjunctio originem ducit ex conjunctione Domini cum mundo spirituali, et cum mundo naturali, in communi et in particulari. この霊的な結合は起源を、霊界とまた自然界と主の結合から導いている、全般的なもの、また個々のものの中で。


Ex quibus patet, quod quantum quis cognoscit Dominum, et ex cognitionibus cogitat de Ipso, tantum Dominus praesens sit; それらから明らかである、どれだけだれかが主を知るか、また知識(認識)からその方について考える〔によって〕、それだけ主が現在されること。


et quantum quis agnoscit Ipsum ex affectione amoris, tantum Dominus illi conjunctus sit: またどれだけだれかがその方を愛の情愛から認めるか〔によって〕、それだけ主は彼に結合される。


ac vicissim, quod quantum quis non cognoscit Dominum, tantum Dominus absens sit; しかし、逆に、どれだけある者が主を知らないか〔によって〕、それだけ主は不在であること。


et quod quantum quis negat Ipsum, tantum sejunctus sit. またどれだけある者がその方を否定するか〔によって〕、それだけ切り離されること。


[5.] Conjunctio facit, ut Dominus vertat faciem ejus ad Se, et tunc ducat illum; [5.] 結合がつくる、主がご自分へ彼の顔を向けるように、またその時、彼を導く。


et sejunctio facit, ut infernum vertat faciem ejus ad se, ac ducat illum. また引き離しておくこと(分離)がつくる、地獄がそれ自体へ彼の顔を向けるように、そして彼を導く。


Quare omnes angeli caeli vertunt suas facies ad Dominum ut Solem, et omnes spiritus inferni avertunt suas facies a Domino. それゆえ、天界のすべての天使は、自分の顔を太陽としての主へ向ける、また地獄のすべての霊は自分の顔を主から背かせる。


Ex his patet, quid operatur agnitio Dei, et quid negatio Dei. これらから明らかである、神の承認は何を生み出すのか(働きによって獲得するのか)、また神の否定が何を。


Et illi, qui negant Deum in mundo, negant Ipsum post mortem; また彼らは、世で神を否定する者、その方を死後に否定する。


et fiunt organizati secundum descriptionem supra (n. 319): また上の(319)記述にしたがって組織化される(有機的にまとめられる)


et organizatio inducta in mundo permanet in aeternum. また世で着せられた(導かれた)組織は永遠に残る。


[6.] Secundum: [6.] 第二:


Quod quisque agnoscat Deum, et conjungatur Ipsi secundum bonum vitae suae.― それぞれの者は神を認め、その方に結合されること、自分の生活(いのち)の善にしたがって―


Cognoscere Deum possunt omnes qui aliquid ex religione sciunt; すべての者は神を知ることができる、何らかのものを宗教から知る者。


possunt quoque ex scientia seu memoria loqui de Deo; 知識または記憶からもまた神について話すことができる。


et aliqui etiam ex intellectu cogitare de Deo; またある者は理解力からもまた神について考えることができる。


sed hoc, si non bene vivit, non aliud facit quam praesentiam; しかし、このことは、もし善く生きないなら、何も行なわない(生じない)〔神の〕現在以外に。


potest enim nihilominus avertere se ab Ipso, et vertere se ad infernum, quod fit si male vivit. というのは、それにもかかわらずその方から自分自身を背けることができるから、また自分自身を地獄へ向けること、もし悪く生きるなら生ずること。


At agnoscere Deum corde, non possunt alii quam qui bene vivunt; しかし、心で神を認めることは、善く生きる者以外に他の者にできない。


hos Dominus secundum bonum vitae eorum avertit ab inferno, et vertit ad Se. これらの者を主は彼らの生活(いのち)の善にしたがって地獄から背けさせ、またご自分へ向けられる。


Causa est, quia hi soli amant Deum; 理由である、これらの者だけが主を愛するからである。


amant enim Divina, quae ab Ipso sunt, faciendo illa Divina quae sunt a Deo, sunt praecepta legis Ipsius;  というのは、神性を愛するから、それらはその方からである、それらの神性を行なって〔愛する〕、それらは神からである、その方の律法の戒めである。


haec sunt Deus, quia Ipse est suum Divinum procedens; これらは神である、その方はご自分の発出する神性であるので。


et hoc est amare Deum; またこのことが神を愛することである。


quare Dominus dicit, それゆえ、主は言われる、


Qui praecepta Mea facit, ille est qui amat Me, qui autem praecepta Mea non facit, ille Me non amat (Joh. xiv 21-24): わたしの戒めを行なう者は、彼はわたしを愛するものです。けれども、わたしの戒めを行なわない者は、彼はわたしを愛しません(ヨハネ14:21-24)
[7.] quae causa est, quod binae tabulae decalogi sint, una pro Deo, et altera pro homine.
 [7.] その理由である、十戒の二つの板があること、一つは神のための、またもう一つは人間のための。


Deus continue operatur, ut homo recipiat illa quae in sua tabula sunt, sed si homo non facit illa quae in sua tabula sunt, non recipit agnitione cordis illa quae in tabula Dei sunt; 神は絶えず働かれている、人間がそれらを受け入れるように、それらは自分の板の中にある、しかし、もし人間がそれらを行なわないなら、それらは自分の板の中にある、承認を受け入れない、それらを心で、それらは神の板の中にある。


et si non recipit, non conjungitur. また、もし受け入れないなら、結合されない。


Quare binae illae tabulae conjunctae sunt ut unum sint, et vocatae tabulae foederis, et foedus significat conjunctionem. それゆえ、二つのそれらの板は一つであるように結合された、また契約の板と呼ばれた、また契約は結合を意味する。


Causa quod quisque agnoscat Deum, et conjungatur Ipsi secundum bonum vitae suae, est quia bonum vitae est simile bono quod in Domino est, et inde quod a Domino est; 理由は、それぞれの者が神を認める、またその方と結合される、自分の生活(いのち)の善にしたがって、生活(いのち)の善は主の中にある善に似ているからである、またここから主からものである。


quare cum homo in bono vitae est, fit conjunctio. それゆえ、人間が生活(いのち)の善の中にいるとき、結合が生じる(行なわれる)


Contrarium est cum malo vitae; 正反対である、生活(いのち)の悪と。


hoc rejicit Dominum. このことは主を退ける。 

原典講読「神の摂理』 326(~[7]) 訳文

 

(3) 訳文


326. しかし、これらは個々に調べられ、示されなければならない。


第一:「神の承認は人間と神のまた神と人間の結合をつくること、また神の否定は分離をつくること」


 ある者は、神を認めない者も認める者も、道徳的な生活を送るかぎり等しく救われることができると考え、「承認は何を生み出すのか? 単なる思考ではないのか? 神が存在すること私が確かに知るとき、私は容易に認めないか? 私はその方について聞いた、しかし、私はその方を見てない。私が見るようにせよ、そうすれば私は信じる」。と言う。


 神を否定する者に自由に神の承認について推論することが許される時、このような談話が多くの者になされる。


 しかし、神の承認は結合し、神の否定は切り離すことが、霊界の中で私に知られたあるものによって明らかにされた。そこでは、だれかが他の者について考えるとき、また話すことを欲するとき、すぐさま彼がいる(現在する)のが見られる。そこではこのことは普通であり、また決して間違いのないことである。その理由は、霊界には自然界のように、距離がなく、単に距離の外観があるらである。


[2.] もう一つ、他の者〔について〕の何らかの知識からの思考が現在(居合わすこと)を引き起こすように、他の者〔について〕の何らかの情愛からの愛が結合を引き起こすことがある。一緒に行き、親しく会話し、また一つの家の中に、あるいは一つの社会の中に住み、そしてしばしば集まり、また互いに割り当てられた仕事を果たすのは、その結合からである。


 の者を愛さない者は、さらにまた他の者を憎む者は、見ないし、また会わないし、愛さず、また憎む程度にしたがって遠く離れているといった正反対のことも生じる。それどころか、もし居合わせても、その時、憎しみが思い出されるなら、見えなくなる。


[3.] これらのわずかなものから、霊界での現在(居合わせること)がどこからか、また結合がどこからか、明らかにするすることができる。すなわち、現在は(居合わせること)他の者を見る願望とともに彼の想起からであり、また結合は愛のものである情愛からであること。人間の心の中にあるすべてのものも同様である。それらの中に無数のものがあり、またそこの個々のものは情愛にしたがって、またはある事柄が他のものを愛するように仲間となり、結合している。


[4.] この結合は霊的な結合であり、それは全般的なもの、また個々のものの中でそれ自体と同様である。全般的なもの、また個々のものの中で、この霊的な結合の起源は、霊界とまた自然界と主の結合からである。それらから、だれかが主をどれだけ知り、また知識からその方についてどれだけ考えるによって、それだけ主が現在され、まただれかがその方を愛の情愛からどれだけ認めるかによって、それだけ主は彼に結合されることが明らかである。しかし、逆に、ある者が主をどれだけ知らないかによって、それだけ主はそこにいない。またある者がその方をどれだけ否定するかによって、それだけ切り離されている。


[5.] その結合は、主が人間をご自分へ顔を向けさせ、またその時、彼を導くようにする。また分離は、地獄がそれ自体へ彼の顔を向けさせ、彼を導くようにする。それゆえ、天界のすべての天使は、自分の顔を太陽としての主へ向け、また地獄のすべての霊は自分の顔を主から背かせる。これらから、神の承認が何を、また神の否定が何を生み出すか明らかであるまた世で神を否定する者は、その方を死後にも否定する。また前の記述(319)にしたがって組織化され、また世で着せられた組織は永遠に残る。


[6.] 第二:「それぞれの者は、自分の生活(いのち)の善にしたがって、神を認め、その方に結合されること」


 宗教から何らかのものを知るすべての者は神を知ることができる。知識または記憶からもまた神について話すことができ、またある者は理解力からもまた神について考えることができる。しかし、このことは、もし善く生きないなら、神が現在すること以外に何も生じない。というのは、それにもかかわらずその方から自分自身を背けることができ、もし悪く生きるなら自分自身を地獄へ向けるからである。


 しかし、心で神を認めることは、善く生きる者しかできない。これらの者を主は彼らの生活(いのち)の善にしたがって地獄から背けさせ、またご自分へ向けられる。その理由は、これらの者だけが主を愛するからである。というのは、神からの神性であるその方の律法の戒めを行なって、それらの神性を愛するからである。その方の発出する神性であるので、これらは神である。またこのことが神を愛することである。それゆえ、主は言われている、


 


 わたしの戒めを行なう者は、わたしを愛するものです。けれども、わたしの戒めを行なわない者は、わたしを愛しません(ヨハネ14:21-24)



[7.]
その理由は、一つは神のための、またもう一つは人間のための十戒の二つの板があることである。人間が自分の板の中にあるそれらの戒めを受け入れるよう、神は絶えず働かれている、しかし、もし人間が自分の板の中にあるそれらの戒めを行なわないなら、神の板の中にあるそれらの戒めを心で承認して受け入れない。また、もし受け入れないなら、結合されない。それゆえ、二つのそれらの板は一つであるように結合され、また契約の板と呼ばれた。契約は結合を意味する。


 自分の生活(いのち)の善にしたがって、それぞれの者が神を認め、またその方と結合される理由は、生活(いのち)の善は主の中にあり、またここから主からものである善に似ているからである。それゆえ、人間が生活(いのち)の善の中にいるとき、結合が生じる。生活(いのち)の悪〔の中にいる者〕と正反対であり、このことは主を退ける。